太田述正コラム#13128(2022.11.19)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その28)>(2023.2.14公開)
「昭和16年6月5日に決定された海軍第一委員会<(注47)>報告書<(注48)の>「現情勢下に於いて帝国海軍の執るべき態度」<は、>・・・「和戦の決の最後的鍵鑰<(注49)>を握るもの帝国海軍を措いて他に之を求め得ず」との決意の下に、三国同盟堅持–南部仏印進駐–米英蘭による対日石油禁輸–対米英蘭参戦、というシナリオを作成しており、それ以後の日本の歩み<は>、この第一委員会報告書が想定した通りに推移して行った<。>・・・
(注47)「高田利種が海軍省軍務局第二課長予定者・・実際には高田利種は第一課長に就任し、石川信吾が第二課長に就任した。・・である時、軍令部と海軍省に横断する組織を作り大日本帝国陸軍に対抗しようと考え立ち上げた。
主要なメンバーは富岡定俊(当時軍令部作戦課長、大佐)、大野竹二(当時軍令部、大佐)、高田利種(当時海軍省軍務局第一課長、大佐)、石川信吾(当時海軍省軍務局第二課長、大佐)の4人である。軍令部の機密を扱うため作戦室を使用し極秘裏に審議したが、決定機関ではなく権限は極めて曖昧であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%94%BF%E7%AD%96%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%83%BB%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
(注48)「内容は「速に和戦孰れかの決意を明定すべき時機に達せり」「(米英蘭が石油供給を禁じたる場合)猶予なく武力行使を決意するを要す」「泰仏印に対する軍事的進出は一日も速に之を断行する如く努るを要す」「(政府及陸軍に対し)戦争決意の方向に誘導するを要す」としている。
永野修身(当時軍令部総長)は1941年5月頃まではそれほど開戦に積極的ではなかったが、この資料により非常に強い影響を受けて以来非常に強硬になったと佐薙毅は証言している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%94%BF%E7%AD%96%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%83%BB%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
(注49)けんやく。「 (「鍵」「鑰」はともに、かぎ、じょうの意) 鍵(かぎ)と錠(じょう)。・・・錠前<。>・・・ひいて、出入りの要所。・・・
戸の鑰(かぎ)は、關より東、陳・楚の、之れを鍵と謂ふ。關より西、之れを鑰と謂ふ。」
https://kotobank.jp/word/%E9%8D%B5%E9%91%B0-2035235
この「第一<委>員会報告書」は、海軍省軍務局第二課長石川信吾海軍大佐の手によって作成されたものだった。
日本海軍部内には、加藤友三郎を継承する日米不戦派(海軍省派あるいは条約派)と対米敵視派(軍令部系あるいは強硬派)の二つの思想的流れがあった。
それが昭和8年から9年にかけて行なわれた大角人事によって、日本海軍の主流派、米内海相(昭和12年2月~14年8月)、山本海軍次官、井上海軍省軍務局長の一時期を除いて、対米強硬派に移ることになった。
第一委員会の構成員である高田利種、石川信吾、富岡定俊、[戦争指導部員の]大野竹二、柴勝男、藤井茂、小野田捨次郎らはいずれも親独論者・対米強硬派であり、その中での中心的人物と言えば、経歴と地位から言って当然、石川信吾となった。
海軍「海軍中央部より米内、山本、井上以後の海軍首脳はいずれも凡庸で大勢順応主義者だった。<(注50)>
(注50)「昭和16年12月に大日本帝国が対米英戦争をはじめる時の海軍中央の陣容を見ると、エッと驚くことがあるのです。何と薩長出身の対米強硬・親ドイツ派の連中で固められていたのです。永野軍令部総長の高知(土佐)出身を筆頭として、まず山口県(長州)出身は左の如し。
沢本頼雄海軍次官、岡敬純軍務局長、中原義正人事局長、石川信吾軍務第二課長、藤井茂軍務第二課員。
鹿児島県(薩摩)出身者も多いのです。高田利種軍務第一課長、前田稔軍令部情報部長、神重徳軍令部作戦課員、山本祐二同作戦課員、さらに大野竹二戦争指導部員も父親(伊集院五郎海軍大将)が鹿児島出身者でした。
第一委員会(筆者注:後述)のメンバーのほとんどが親独派の薩長出身、これに対して、対米協調派の強力トリオの米内光<政>が森岡、山本五十六が長岡、井上成美が仙台で、いずれも戊辰戦争のときの賊軍派出身の面々。これに加えて鈴木貫太郎も千葉県関宿の出身で賊軍派です。「“官軍”がはじめた戦争を昭和の戦争を“賊軍”が終わらせた」といって、よく識者に笑われるのですが、あながち出鱈目をいっているわけではないのです。」(文春新書 半藤一利編・解説『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』315~316頁 より)
https://www.ireikyou.com/pdf/memo/memo-102.pdf
これに加えて海軍も一つの典型的な官僚機構であるのであり、その堅固な稟議制度の下では、担当者が決定した政策を上層部が完全に覆すことは、容易ならざる事であった。」(220~221)
⇒全く説明になっていません。
「担当者」をその職に補職したのも、そしてその上で特定の仕事をやらせることにしたのも、「上層部」ですし、「上層部」は、この「担当者」の仕事の出来が悪いと思ったらその仕事を他の者にやらせることにしたり、本人をその職から転出させたりすることだってできるのですから、その結果として、「政策を上層部が完全に覆すこと」だってもちろんできるからです。
そのことと、組織としての意思決定を行う場合の手続き(決裁)に係る(日本特有の)稟議制、
https://kotobank.jp/word/%E7%A8%9F%E8%AD%B0%E5%88%B6-878224
とは次元の異なる話です。
いや、そんなことを言うまでもなく、報告書はあくまで報告書であって、「上層部」が採択しなければいいだけのことであり、現に採択はしなかったところ、それにもかかわらず、忠実に実行に移されたというのですから、要は、1940年9月5日から海相を務めて来た及川古四郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
の政策構想を石川信吾らがまとめ、それを、及川の指示で、1941年4月9日から軍令部総長を務めて来た永野修身
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8
に説明し、その了解を取り付けた、というだけのことでしょう。
(窮屈極まる)艦艇だけで海軍の部隊が構成されていた時代の名残で、帝国海軍では、上下の規律が帝国陸軍以上に厳しかったこと(典拠省略)も思い起こして欲しいですね。
(続く)