太田述正コラム#1883(2007.7.29)
<現在のパキスタン情勢をどう見るか(続々)>(2007.9.1公開)
1 始めに
パキスタンについての記事で毎日新聞が勇み足をしでかした話を前に(コラム#1867で)しましたが、今度は讀賣新聞がクリーンヒットを飛ばしました。
27日と28日にパキスタンのメディアが報じた内容を書き写しただけではあるものの、日本や世界の主要メディアではAP電やCNN(電子版)くらいしかこのニュースを報じていない段階の28日中に電子版で、ムシャラフ(Pervez Musharraf。1943年~)とブット(Benazir Bhutto。1953年~)の秘密会談が行われた旨を報じ、その信憑性は、ワシントンポストの電子版が、少し遅れて29日付で同様のニュースを報じた(注1)ことによって裏付けられたのですから・・。
不思議なことに、ニューヨークタイムスやガーディアンやBBCの電子版はいまだにこの件を報じていません。
(注1)ワシントンポストが讀賣のようにすぐに報じなかったのは、28日にパキスタン政府もPPPも当初会談が行われた事実を否定したからであると思われる。讀賣は、「元首相は今月中旬、本紙との会見で、大統領側と接触を続けていることを明らかにしていた。」と記しているので、すみやかな報道に踏み切れた、ということなのだろう。
いずれにせよ、今回はこの重要なニュースについてご紹介することにしましょう。
2 ムシャラフとブットの秘密会談
ムシャラフ大統領は27日、サウディアラビア訪問へ向かう途中、アラブ首長国連邦のアブダビで夜の数時間を過ごし、そこでパキスタンの最大野党のパキスタン人民党(Pakistan People’s Party=PPP)党首のブット元首相と会談しました。
両者の直接会談は、ムシャラフが権力を掌握した1999年10月以来、初めて行われたものであり、ムシャラフ側が持ちかけ、2人だけで行われたといいいます。
(なお、讀賣だけは、27日の会談に続く夕食会には、米国の外交官も同席したとされる、と報じています。)
ムシャラフは会談で、次期大統領任期でも陸軍参謀長を兼務することに理解を求めたうえで、見返りとして、元首相に対する汚職などでの訴追を撤回し、首相ポストを提供することを打診したのに対し、ブットが大統領の軍ポスト兼務に難色を示したため、合意には至らなかったものの、交渉は継続される見込みであるということです。
ブットは、1990年代後半からロンドンなどで事実上の亡命生活を送っていますが、その一方で、汚職などでの訴追をされない保証を得た上で、来年初頭までに行われる下院選への出馬を目指し、更にできうれば首相に三度就任する(注2)ために、早ければ9月にも帰国することを目論んできました。
(注2)パキスタンの現在の憲法ではこれは禁じられている。
ムシャラフとブットの水面下の交渉は昨年12月ごろに開始されたところ、今年5月に死傷者約200人を出した南部カラチの政治暴動で、PPP関係者に多数の死傷者が出たため、ブットが態度を硬化させ、一時は決裂も取り沙汰されました。
今回、異例の会談をムシャラフが持ちかけた背景には、5月の暴動以降、野党側が結束してムシャラフ退陣を求めてきたことや、赤いモスク事件に象徴されるように、イスラム過激派の武力活動が活発化している(注3)ことから、彼が政治的窮地に陥っていることが挙げられます。
(注3)まさにこの会談が行われた27日、パキスタン政府は金曜礼拝のために、赤のモスクの新しい代表を任命した上で、このモスクを事件後初めて一般開放したが、このモスク付設のマドラッサの元学生達が何百名も抗議に詰めかけ乱暴狼藉に及んだために警官隊が排除していたところに自爆テロが起こり、警官8人を含む少なくとも13人が死亡、61人が負傷する事件が起こっている。
更に、ムシャラフから職務停止を言い渡されていた反大統領派のチョードリー最高裁長官が今月20日、最高裁の決定で職務復帰することとなり、同長官がかつて野党側と協力して大統領の再選戦略を法的に認めない動きを見せ始めていたことも、直接会談を急がせた理由と見られています。
PPPと並ぶ主要野党で、(1999年にムシャラフに首相の座を逐われてやはり現在海外亡命中の)シャリフ(Nawaz Sharif)を党首にいただくパキスタン・イスラム連盟(Pakistan Muslim League)は、当然のことながらこれはブットの裏切り行為だと反発していますし、1999年にムシャラフが新たにつくった与党も、事前に相談がなかったと反発しています。
3 ムシャラフとブット
ムシャラフは中流の家庭に生まれ、軍人として生きてきました。
そして、陸軍参謀長の時の1999年、無血クーデターで政権を掌握しました。
(以上、コラム#10参照。)
爾来ムシャラフは、ブットの首相時代はインチキ民主主義(sham democracy)の時代であったとし、ブットの腐敗を批判してきました。
これに対しブットは、金持ちの家庭に生まれ、米ハーバード大学(優等で卒業)と英オックスフォード大学(由緒あるディベート団体であるOxford Unionで、アジア人の女性として初めて代表を務める)を卒業し、1984年以来左翼系のPPPの党首を務めて来ました。
そして1988年~1990年に首相を務め、1993年から96年にも再び首相を務めました。
彼女は、1988年に米ピープル(People)誌で世界の50人の美女の一人に選ばれており、文字通り才色兼備と言ってよいでしょう。
父親(Zulfikar Ali Bhutto) も首相でしたが、軍部によって処刑されています。
ブットはムシャラフを軍事独裁者呼ばわりをしてきました。
4 感想
ムシャラフとブットの二人の共通点は、共に穏健派であることと、どちらも旧宗主国の英国で教育を受けた経験があることくらいしかありませんが、そんな二人が手を結びつつあるというのは面白いし、それだけパキスタンが現在危機的状況にある、ということでしょう。
(以上、
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070728id22.htm、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/28/AR2007072800269_pf.html、
http://www.cnn.com/2007/WORLD/europe/07/28/bhutto.musharraf/index.html、
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1647919,00.html?xid=feed-cnn-world、
http://en.wikipedia.org/wiki/Benazir_Bhutto
(いずれも7月29日アクセス)による。)
現在のパキスタン情勢をどう見るか(続々)
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