太田述正コラム#13132(2022.11.21)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その30)>(2023.2.16公開)
「・・・当時、連合艦隊参謀長だった宇垣纒少将・・・<や>・・・当時、大本営海軍部参謀であった佐薙穀・・・<は、>・・・珊瑚海海戦<での>・・・井上の戦いぶりが消極的であったと批判している。・・・
(注54)「ポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出する日本軍の計画を、暗号解読によって知った連合国軍が先に進出し、艦上機で日本の攻略部隊を空襲したため、日本海軍が空母部隊で敵空母を捕捉しようとして発生した。<1942年>5月8日の戦闘では、米空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)と日本海軍の空母2隻(瑞鶴、翔鶴)が攻撃を交わした。この海戦は対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視界内に入れずに行われた、歴史上最初の海戦となった。・・・
本海戦は、緒戦の連戦連勝の中での初のつまづきであり、第四艦隊司令長官井上成美中将は、本海戦によるポートモレスビー作戦の延期、また戦果拡大を図る追撃を中止したことを理由に、権威を損なう臆病風、攻撃精神の欠如と中央や連合艦隊司令部の指導者から非難された。軍令部や宇垣纏連合艦隊参謀長はおろか、連合艦隊司令部、山本五十六連合艦隊司令長官、永野修身軍令部総長からも批判を受け、最終的に昭和天皇から「井上は学者だから、戦は余りうまくない」と評された。嶋田繁太郎海軍大臣に至っては井上の将官人物評で「戦機見る明なし。次官の望みなし。徳望なし。航本の実績上がらず。兵学校長、鎮長官か。大将はダメ」と酷評した。土肥一夫少佐によれば、連合艦隊司令部の電報綴には井上と第四艦隊に対する罵倒の赤字が書き殴られていたという。
本海戦で、井上は史上初の空母機動部隊同士の決戦における総指揮官となり、寄せ集め部隊を率いて、手探りで戦いを進めた。また、井上が作戦を断念して撤退したのは、残った空母瑞鶴一隻の航空兵力だけでは、上陸作戦を援護するには不十分という判断や、井上が機動戦について一撃離脱をすべきと考えていたことも影響している。この判断は、<米>軍第17任務部隊が戦力を喪失して戦場を去り、珊瑚海へ向かっていた第16任務部隊(空母エンタープライズ、ホーネット)にも真珠湾への退避命令が出ており、連合国が日本の攻略部隊によるポートモレスビー上陸を防ぐことはできない状態にあったことが軍事資料から読み取れるため、戦略的失敗である。しかし、当時ポートモレスビーおよびオーストラリア大陸北部のタウンズビルの飛行場には<米>陸軍航空隊を中核とした計300機にのぼる航空戦力が配備されており、空母が存在しない状況になっていたとはいえ、5月8日の時点でわずかに39機の使用可能機と17機の修理可能機を有していたにすぎないMO機動部隊が、ポートモレスビー攻略を成し遂げることはよほどの幸運でもない限り不可能とする意見もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8A%E7%91%9A%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
「MO作戦とは、第二次世界大戦中に日本軍が計画したポートモレスビー攻略作戦。別名は「モ号作戦」。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/MO%E4%BD%9C%E6%88%A6
⇒対英米戦における、海軍の初挫折であり、それだけでも、井上が酷評されたのも無理はありません。
更に言えば、最終的には軍事的に敗北するのは間違いないので、短期的に勝利を重ねて英米側の戦意挫くというのが・・私に言わせればそれも不可能だったわけですが・・当時の海軍の公式コンセンサスだった以上は、勝利をあげる可能性があれば井上はそれを追求すべきだったのであり、それをやらなかった井上が非難されたのは当然でしょう。(太田)
井上は、昭和17年11月10日、・・・兵学校の校長に就任することになった。・・・
作家の阿川弘之氏は、・・・次のように<記し>ている。
「・・・井上さんが兵学校の校長時代、英語廃止を絶対させなかったとか、軍事学よりも普通学を重視せよと主張したこと、生徒が一日一遍、心から愉快と思われる様な機会を作ってやれ、もっと遊ばせてやれ、と言ったことなど…私は・・・果たして敗戦後の兵学校生徒らの生きる道まで思いをめぐらしての措置であったろうかと、・・・聞いてみた。・・・井上さんは非常に強い口調で、『無論そうです。あと2年もすれば日本が戦争に負けることははっきりしている。その時社会の荒波の中に投げ出されるこの少年たちに、社会人として生きて行く為の基礎的な素養だけは身につけておいてやるのが私たちの責任だと考えたのです』と言われた。・・・」・・・
⇒次のオフ会「講演」原稿で改めて取り上げますが、これは、単に、日本の敗戦後、海兵在籍者や卒業者が一般大学を受験する時のための学力を身につけさせる教育を行ったということに過ぎず、「もっと遊ばせてやれ」というのも、将来の受験に備え、気力・体力を温存させ養わせるためだった、というのが私の見方です。(太田)
<また、>井上は、教育参考館に掛けてあった歴代大将の額を全部取り外させた。・・・
井上自身は・・・<その>理由について、次のように語っている。
「許し難いと思うのは、太平洋戦争が始まる時の、ぐうたら兵衛に追従して国を危うくした奴、私はこいつらの首を切ってやりたいと思うぐらいに憤慨していました。それで私は、・・・誰と誰は残せという訳にはいかないから、みんな降ろさせたんです・・・。」」(245、249~250)
⇒第一次世界大戦までは、負け戦にしなかった、ならなかった、という意味では評価されるべき日本の海軍大将もいたと思うのと、それ以降においては井上に同感ながらも、満州事変から対英米戦までの一連の諸戦争が「国を危うくし」つつ、アジア全体、ひいては世界全体を救うために行われたということを私は知っているだけに、その大部分がそのことを意識していなかったとはいえ、その頃の海軍の大将達の大部分を非難するのは忍びないのであって、思考停止したまま非難する井上こそ非難されてしかるべきだと思うのです。(太田)
(続く)