太田述正コラム#13136(2022.11.23)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その32)>(2023.2.18公開)

 「・・・昭和19年2月21日、東条首相兼陸相と嶋田海相は、杉山元と永野修身を罷免して、現職のまま参謀総長と軍令部総長に就任した。
 2月26日、高木は人事局長に呼ばれて、教育局長の内示を受けた。
 3月7日、・・・岡田啓介<(注56)>大将・・・は熱海に滞在中の伏見宮を訪問して、米内大将の現役復帰と海軍の立て直しについて説得した。

 (注56)「1943年(昭和18年)の正月には、・・・最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
 東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。・・・
 1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。
 小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B

 しかし同宮の嶋田支持が強いため、この時は米内の軍事参議官就任という線で妥協した。・・・
 サイパン戦前後から、政府統帥部の戦争指導のあり方に不満を持つ海軍中堅の間では、この際、合法的な手段を諦め、東条をテロによって倒すしかないとする切羽詰まった空気が濃化してきた。
 高木の部下の教育局第一課長の神重徳や橋下睦男主計大尉などは、「大臣を殺っければいいんだろう!」と公言して憚らなかった。

⇒橋下睦男については、ネット上に情報が皆無でした。(太田)

 ここに至ってそれまで神大佐などに再三ブレーキをかけてきた高木も、東条暗殺計画の決行を承認した。・・・」(271、273)

⇒こんな高木の判断は言語道断ですが、そもそも、「神は狂信的な言動で知られ「神さん神がかり」と揶揄されていた。「海軍の辻政信」とも言われた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%87%8D%E5%BE%B3
人物であり、そんな人物を「1943・・・年12月15日、海軍省教育局第1課長」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%87%8D%E5%BE%B3
に就けた、海相の嶋田繁太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
も、次官の沢本頼雄(注57)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
も、そして、教育局長の矢野志加三(注58)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
も、どうかしています。(太田)

 (注57)1886~1965年。海兵17期(次席)、海大17期。「及川古志郎海軍大臣の海軍次官<だったが、>日米開戦に対しては反対であり、第3次近衛内閣が総辞職し東条内閣が成立する際に、及川古志郎は後任の海相として豊田副武を推薦した。しかし豊田の陸軍嫌いは陸軍側に周知のことであり、陸軍は当然としてこれを拒否、沢本はこれを好機として内閣の流産を期待したが、結局嶋田繁太郎が海相に就任した。
 <そして>、次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしいと嶋田に頼むが、嶋田が沢本の大将昇進と連合艦隊司令長官への補職をちらつかせたために翻意する。これに関しては沢本も後年非常に悔いていた。・・・
 戦後は、1955年(昭和30年)9月24日に防衛庁顧問に就任したほか、水交会会長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E6%9C%AC%E9%A0%BC%E9%9B%84
 (注58)1893~1966年。海兵43期(4番)、海大(次席)。「太平洋戦争開戦を第4艦隊参謀長として迎え、長官の井上成美を補佐した。教育局長時代に、初級士官不足を補うため兵学校の教育期間を短縮するよう求められた。矢野は既に3年に短縮された期間をこれ以上短縮することに強硬に反対し、同様な考えを持っていた兵学校校長の井上と連絡を取り合い抵抗した。・・・
 <いわゆる>ポツダム中将<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E5%BF%97%E5%8A%A0%E4%B8%89

(続く)