太田述正コラム#13140(2022.11.25)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その34)>(2023.2.20公開)

 「・・・昭和19年7月20日、朝鮮総督の小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大将に組閣の大命が降り、21日、小磯・米内内閣が成立した。<(注60)>

 (注60)「サイパン失陥によって東條は辞任を余儀なくされた。後任を決める重臣会議では、南方軍総司令官の寺内寿一、朝鮮総督の小磯、支那派遣軍司令官の畑俊六の3人に候補が絞られるが、前線指揮官の寺内を呼び戻すことに東条が反対、畑についても重臣の多くが反対し、米内光政、平沼騏一郎らの推す小磯に落ち着いた。
 当初は小磯単独の予定だったが近衛の発案で、元首相で海軍の重鎮である米内と連立させることになった。昭和天皇は重臣とも話した上で、小磯・米内の両名に「協力して内閣の組織を命ずる」という異例の大命を下した。
 米内の副首相兼海相就任に伴う現役復帰について、海軍省内では野村直邦海相、岡敬純次官以下反対の空気があり、7月18日の首脳会議では激論が交わされた。小磯は米内起用が昭和天皇の意思である事などを述べたが、野村海相はその真偽を確かめようと、同21日武官長・内大臣を通さずに単身参内し、米内起用の件に関して直接昭和天皇に問い質した。海軍省内の混乱等、既に聞き及んでいた昭和天皇は、その場ではっきりと米内起用の方針を伝え、米内の現役復帰が決まった。
 陸相に関しても、前首相の東條が当初陸相留任の姿勢を見せるなど波乱含みの展開となる。小磯は自身も米内と同様に現役復帰する事で陸相を兼任する事を考えたが、陸軍内部や重臣(近衛文麿、木戸幸一ら)の間に反対が強く断念。小磯は山下奉文または阿南惟幾の起用を望んだが容れられず、結局は東條・梅津美治郎参謀総長・杉山元教育総監による三長官会議で、杉山が陸相に回ることとなった。
 同22日、小磯内閣発足。小磯は総理大臣就任時には予備役となってから6年も経っており、「日本はこんなに負けているのか」と口走るほど戦況に疎かった。また予備役のまま総理に就任したことで、戦局を検討する大本営の会議にも規則により出席できなかった。1945年3月16日、天皇の特旨によって大本営に列した。
 そこで小磯は陸海軍の指揮系統を一本化し和平を促進するため、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長の上に最高幕僚長を設置する案を推進したが、これには軍令権が事実上陸軍に吸収されるとして海軍が猛反発。陸軍側は最高幕僚長を海軍から出すことを提案し、昭和天皇は米内にこれを打診するが固辞、結局この案は実を結ばなかった。代わりに最高戦争指導会議を設立し、首相が陸海軍を統制する事で決着したが、小磯がその指導会議で発言しても、秦彦三郎陸軍参謀次長に「近代的作戦用兵を知らない首相は口出しするな」とたしなめられたりするほどで、とても指導力を発揮しているとは言えない状況だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD

⇒小磯内閣は、杉山元陸相と梅津参謀総長という杉山構想コンビ(それぞれが陸相、次官だった時あり)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
の傀儡内閣だった、と言ってよいでしょう。
 なお、この期に及んで、なお陸海軍の事実上の統一に反対した米内もまた、結局のところ、海軍のセクショナリズム的発想から自由ではなかった小人物、と言わざるをえません。(太田)

 28日夜、井上は<呼ばれて>米内を訪ねた。・・・
 「・・・政治の時は君は天井を向いていればいいよ」「政治のことは知らん顔をしていいのなら<次官を>やります。部内に号令する事なら、必ず立派にやります。ご心配はかけません」・・・
 井上の進言を入れた「米内人事」によって、8月2日付で及川は海上護衛総司令部司令長官から軍令部総長に転じることになった<(注61)>が、その及川は井上の次官就任に反対した。

 (注61)「軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の小磯國昭と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。・・・
 米内の現役復帰を画策した岡田啓介は、「米内を円満に海軍へ復帰させるには、海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要がある」との声を受けたため、岡田は藤山愛一郎の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に努め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。末次信正と米内の関係は、過去に宴席で五・一五事件に対する責任などで口論となるなど険悪であった。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対等のためにそれっきりとなってしまった。「軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうか」と米内に勧める者もいたが、米内は応じなかった。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『昭和天皇独白録』には「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次のことを調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。ただし、復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており、末次の総長人事には熱意を持っていた。結局軍令部総長には及川古志郎が就くこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF

 この辺のことについては井上も知っていた。
 「昭和19年7月、内閣更迭前後事情 左近司中将(28期、当時衆議院議員)談話要点(井上次官誌)」という書類の中に、次のような記述がある。
 「米内大将は井上を次官にと考えしも、一部には井上は及川をやり込めたことあり(*昭和16年1月の井上の「新軍備計画論」を指す)。及川総長の『井上不適』とか[井上は往年軍令部の制度改正に反対せし人物なり。当時の総長たる熱海(伏見宮博恭王)が御不満ならん』等相当の非難ありしも、米内大将之を断行せり」」(274~276)

⇒そんなことではなく、米内は、(次のオフ会「講演」原稿で説明しますが、)及川としては、自分が杉山構想ほぼ完遂を期している人物であって、相容れない人物であることに気付いていない米内なら杉山らが懐柔可能だ・・但し、岡敬純は強い懸念を持っていた・・が、井上は懐柔できない、と考え、反対したのでしょう。
 (なお、末次信正の評価についても、上記原稿に譲ります。)(太田)

(続く)