太田述正コラム#13144(2022.11.27)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その36)>(2023.2.22公開)
「昭和20年4月5日、小磯首相は政戦両略の指導態勢の強化を図るため陸相兼任を要求したが、陸軍当局はこれを拒否した。
⇒「陸軍当局」などと書かず、杉山元陸相(と梅津美治郎参謀総長)と、具体的に書いて欲しかったところです。(太田)
このため小磯首相は、3月の繆斌工作の失敗とも併せて政権維持に自信を失い総辞職した。
4月7日、鈴木貫太郎内閣が、鈴木首相、東郷重徳外相、阿南惟幾陸将、米内海相の陣容をもって成立した。 統帥部は梅津美治郎と及川古志郎軍令部総長だった。
この6者が終戦を決すべき最高戦争指導会議のメンバーだった。
6月8日、木戸内大臣は、「わが国力の研究を見るに、あらゆる方面より見て、本年度下半期において戦争遂行能力を事実上喪失すると思はしむ。…以上の観点よりして、戦争の収拾につきこの際果断なる手を打つ事は今日わが国における至上の要請なりと信ず」とし、終戦を謳った「時局対策試案」<(注63)>を作成した。
(注63)時局収拾の対策試案。「国力の観点から7月以降は戦争継続は出来ず、国民生活の窮乏から人心の不安を惹起する恐れのあることを説き、天皇の「聖断」により戦局の収拾を図り、ソ連を仲介役として名誉ある講和によって終戦の極を結ぶというもの<。>・・・
その案を基に首陸海外相との調整を進めることで天皇の許しを得た木戸は6月13日に米内海相、同じ日に鈴木首相、6月15日に東郷外相から同意を得た上で、6月18日には「なんとなく気おくれがして居た」阿南惟幾陸相からも「あなたの考え方には大体賛成だ」という言葉を引き出すことに成功した。」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/63837/1/HokudaiHouseiJournal_No23-4.pdf
6月22日、天皇は最高戦争指導会議構成員の6名を召集し、席上「戦争完遂を謳った6月8日の御前会議の決定に捉われることなく、時局収拾についても考慮する必要があると思うがどうか」とする御下問があった。
鈴木首相は、「あくまで戦争完遂に務めるのはもちろんであるが、外交工作も必要である」と答えた。
続いて米内海相が対ソ交渉<(注64)>について説明すると、天皇は「時期を逸してはならない」と述べた。」(278~279)
(注64)「1945年4月鈴木内閣が成立するが、ほぼ同時にソ連は中立条約を延長しない旨通告してきた。しかし佐藤駐ソ大使は、不延長の通告は米英との間で生じつつある確執の緩和に目的があり、国交断絶や対日参戦につながるものではないとの判断を東京に報告しており、日本側に一層の期待を抱かせることになった。河辺虎四郎参謀次長は、「彼レ(スターリン)ノ対日好感、対米非共同心ヲ期待スルモノニアラザルモ、打算ニ長ゼル彼レガ今ニ於テ東洋ニ新戦場ヲ求ムルコトナ<カル>ルベシ」と判断していたのである.
一方、ソ連の中立条約不延長の通告は、5月のドイツの降伏とも相俟って、沖縄で激戦を戦っていた陸軍にとっては、予想されたとはいえ大きな衝撃であった。というのも、当時陸軍が計画していた「決号」作戦、すなわち本土決戦にとって、長期の経済封鎖による食料不足など国力の低下と共に、ソ連の対日参戦は、その前提を否定しかねない懸念材料であった。当時検討中の新たな戦争指導大綱の陸軍案においては、戦争完遂、本土決戦準備と共に、対ソ外交を強調しており、特に、「現下の情勢に於て戦争遂行を容易ならしむる為将又終戦導入の為帝国の外交施策としては対『ソ』外交の徹底強力なる施策以外に道なし」と、対ソ外交が最も緊急の課題であると訴えていた。
したがって、陸軍首脳は東郷外相に、「徹底強力なる」対ソ外交の「果敢な」展開を要望したのである。東郷外相は、この時点で対日参戦抑止の外交を行うのは時期遅れであり不可能であると認識していたが、陸軍が無条件降伏を拒否する以上、日本の国力がわずかでも残っている間に、こうした陸軍の希望を利用してソ連を介して戦争終結を模索することは好都合であり、まさに「天与の好機会」と考えたのであった。]
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2009/09.pdf
⇒私は、陸軍は、当初から、対英米戦末期におけるソ連の対日参戦を想定していたと見ている(コラム#省略)ところ、外務省と海軍がソ連に和平仲介をさせようとしたことに呆れつつも、杉山らは想定通りソ連に対日参戦をさせるためにも、この話に乗った形にすることにした、と見ている次第です。
河辺虎四郎(注65)には杉山構想は明かされていなかったと思われるところ、彼にはソ連駐在武官経験はあるけれど、「注64」に出てくる河辺の挿話は、参謀次長当時、梅津参謀総長が河辺を(恐らくその前任の秦彦三郎に対しても同様だったと思われますが、)枢機には関与させていなかったことを示すもの、と言ってよいのではないでしょうか。(太田)
(注65)1890~1960年。陸士24期、陸大33期(優等)。「柳条湖(溝)事件時は参謀本部作戦班長、盧溝橋事件時は参謀本部戦争指導課長という枢要なポストにいて、独断専行の現地陸軍部隊を時の上司(満州事変時は今村均作戦課長、日中戦争時は石原莞爾作戦部長)と協力して引留めようと努力した。とくに盧溝橋事件では、支那駐屯歩兵旅団長(少将)だった実兄の正三が現場責任者という皮肉な巡り合わせを経験している。また、作戦課長時代には戦争指導のため出張、<支那>大陸の部隊を訪れている最中に、戦争拡大を目論む勢力によって浜松陸軍飛行学校教官へ左遷されるという憂き目にあっている。それ以降は、陸軍中央からは遠ざけられており、河辺が再び参謀本部への復帰を果たすのは戦争末期の1945年(昭和20年)に入ってから<の>・・・4月・・・である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8%99%8E%E5%9B%9B%E9%83%8E
(続く)