太田述正コラム#13146(2022.11.28)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その37)>(2023.2.23公開)

「・・・井上の大将就任話<について。>・・・
 <1回目は、>昭和19年3月7日、岡田啓介が熱海に伏見宮元帥を訪ね、米内大将の現役復帰<と海相就任>について進言した際、・・・岡田が「今の海軍の多くの人の意見として…現役大将では満点とはいえぬが、まず豊田副武であろう。<大将以外の者、すなわち、>中堅から<大将に昇進させることを前提に>選ぶとすれば、兵学校の井上ではないかと申しております」と・・・したのに対して、伏見宮は「井上はいかぬ。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦の時、敵をさらに追撃すべき時に虚しく引き返した」と述べた。・・・

⇒最後まで、伏見宮が海軍首脳の人事権を握っていたことがよく分かります。
 なお、伏見宮の井上評は当たっていると言っていいでしょう。(太田)

 <2回目は>昭和20年1月10日<だ。>・・・
 『高木海軍少将覚書』に<よれば、>・・・「米内様(通常は米内さんと呼んだ)は冗談のように、『後は貴様がやれ』と言われるが、井上が『鰻上りに上るのは絶対にいかん。これは理屈ではなく貫禄の問題』…大臣がどうしても残られぬ場合は、長谷川様(清、大正、軍事参議官)にでも<海相を>やってもらうほかあるまい」<とある。>・・・
 井上は、昭和20年1月20日付「大将進級に就き意見」の中で、次のように記している。
 「・・・現在の海軍大将が部内から大いに尊敬を受けていないのは、数年来の大将人事が極めて遺憾であったし、そうした人事によって大将になった人物が、三代(吉田善吾、及川古志郎、永野修身を指すと見られる)も続いたためであろう。先般の大将(永野修身を指すと見られる)を元帥にしたのは、悪政の極みである。第一線で、神風隊のような無謀な作戦をさせているが、これは国力不足に無智で、驕兵を起こした開戦責任者の大罪である。・・・」・・・

⇒当初においては、カミカゼ攻撃は、軍事的な効果は十分あった(コラム#省略)のであり、確かに戦いの帰趨に影響を及ぼすわけではなかったけれど、遅滞作戦としては有効でした。
 井上には「遅滞」させて日本が得られるものはないと考えていたわけですが、それが井上の「無智」の悲しさってやつです。
 どうして、カミカゼ攻撃的なものを、よりにもよって伏見宮が促した・・「1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した。この「特殊な兵器」は特攻兵器を指したものであるとの主張もある[誰によって?]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
・・か、を井上は真剣に考えたことさえなかったのでしょうね。(太田)

 <3回目は、>昭和20年3月中旬のことであった。
 「<米内海相いわく、>大将にするぞ!」「<井上応えていわく、>誰のことですか?」「塚原(二四三<(注66)>(にしぞう)・・・と君の2人だ」「戦敗れて大将ありですか!・・・」・・・

 (注66)1887~1966年。海兵36期、海大18期。「1942年12月1日、航空本部長に就任。
 1944年(昭和19年)3月1日、兼軍令部次長 兼軍事参議官。陸軍の参謀本部に倣って軍令部の次長が2人に増員されたことに伴い、塚原は軍令部次長を航空本部長と兼任した。もう一人の次長は伊藤整一中将が務めた。しかし、次長の経験は伊藤が長いにもかかわらず、塚原が兵学校の先輩にあたることから混乱もあった。また、東条政権崩壊のために参謀本部・軍令部の次長2人制度そのものが崩壊した。1944年(昭和19年)7月29日、航空本部長 兼軍事参議官。
 1944年(昭和19年)9月15日、横須賀鎮守府司令長官に就任。1945年(昭和20年)5月1日、軍事参議官に就任。
 1945年5月15日、・・・井上成美<と共に>・・・大将に親任される。大日本帝国海軍に於ける最後の大将親任となった。
 米内光政海軍大臣はかねてより、豊田副武大将を軍令部総長に、小沢治三郎中将を連合艦隊司令長官に据えた状態で、終戦を実現することを望んでいた。末期の連合艦隊司令長官は、支那方面艦隊・海上護衛総隊・各鎮守府・各警備府をすべて指揮する「海軍総隊」の司令長官を兼ねていた。しかし、海軍では「後任者が先任者を指揮することはできない」と定められていた(軍令承行令)。兵学校37期の小沢を海軍総司令長官に任じるには、1期先輩である塚原・横須賀鎮守府司令長官と沢本頼雄・呉鎮守府司令長官が大きな障害であった。塚原と沢本は説得を受け入れ、軍事参議官に身を引いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E4%BA%8C%E5%9B%9B%E4%B8%89

 歴代の海軍大将の中で井上が「一等大将」として評価するのは、山本権兵衛(2期、海相、首相)と加藤友三郎(7期、海相、首相、元帥)の2人だけであった。
 吉田善吾、及川古志郎、嶋田繁太郎などは開戦責任があるとして「三等大将」の評価であったし、さらに末次信正などもロンドン海軍軍縮の批准をめぐる統帥権干犯問題の当事者であるとして「三等大将」どころか「国賊」であるとまで断言していた。・・・

⇒「国賊」として真っ先に挙げなければならない伏見宮に言及しないのは、いかに戦前の人間とはいえ、井上も臆病なことです。
 いずれにせよ、こんな井上の言を山本や加藤(友)が聞いたら、井上をどやしつけたことでしょう。
 (どうしてかは、次回東京オフ会「講演」原稿で・・。)(太田)

 井上が大将昇進に自ら反対する真意<の一つは、>・・・次官は中将ポストであることから、大将への昇進は自動的に次官の辞職を意味していた<ことがある>。」(281~284)

(続く)