太田述正コラム#1648(2007.2.5)
<昭和日本のイデオロギー(その6)>(2007.9.14公開)
さて、では、荻生や安藤や本居はどう評価すべきなのでしょうか。
彼らのイデオロギー批判こそ、高く評価すべきだというのが私の見解です。
荻生徂徠は、幕府の公定イデオロギーとなった朱子学批判を、古文辞学と同じ儒教である陽明学とを援用して行った人物であり、そんな彼が老中柳沢吉保に見出されて幕府に仕え、8代将軍徳川吉宗の内命によって「太平策」「政談」を著し、将軍の政治上の相談役を勤めた(
http://blog.livedoor.jp/ijinroku/archives/cat_50012639.html
。2月5日アクセス)ことによって、朱子学、ひいては儒教そのものの公定イデオロギー性(注8)が空洞化したと言えるでしょう。
(注8)丸山は、「徳川幕府成立の当初は、・・・その発布する法令も武断的色彩が強く、儒教よりもむしろ法家的な傾向が支配的だった<。>例えば慶長20年<(1615年)>の最初の武家法度<はそうだったが、>寛永6年<(1629年)>の武家法度を境として<法家的な>言葉は姿を消し、寛永12年<(1635年)>12月の諸士法度には劈頭に「忠孝・・・義理・・・」<といった儒教用語が>掲げられるに至った」と指摘している(丸山上掲書15~16頁)。
次に安藤昌益です。
彼は、「君を立てるは奢の始め、萬悪の本なり、人慾の始め。」と忠を、また「聖人は仁を以つて下民を仁(めぐ)むと云う。甚だ私失の至り笑ふべきなり。」と仁を全面否定し、更に、「・・父母を養ふとも名を立て家を起すとも耕やさずして貪食するときは道を盗む故に孝に非らず。」と孝の絶対視を否定する、という具合に儒教をラディカルに批判します。
彼はまた、「女は地道・・人倫相続の本を為す。然るに五障三従と賤むるは失(あやまれ)り。」と仏教の女性差別思想を弾劾するとともに、「釈迦・・妻子を離れ愛子の念を断(き)り、父母の妙徳を無みし、出家して独身と為り、不耕貪食して虚談の弁口を以つて渡世を為す。・・其の行ひは金銀を持てる者を誑かし精舎と名づけて寺を立て美を賁り、己は袈裟を衣、美服を賁りて衆を誑かし心施を貪食し、高座に登り、説法と号して自然に之無き三界三世十界を説き、・・」と釈迦の出家を全面否定し、空海を罵り、「浄土宗を始めたる源空(<法然>)も弥陀を看板にして地獄の業を営む。盗人罪人の同類なり・・法華宗を弘めたる日蓮は正気の者に非らず狂乱者なり。何とならば他宗は無得道、法華のみ成仏すと云へり。・・・一向宗始めて繁栄し、肉食妻愛、世俗に同じ。是れ終に仏法滅却して自然の世に帰るべき前表なり。」と仏教のあらゆる宗派をなで切りにする、激しい仏教批判を展開します。
神道については安藤は、「・・古事記、日本記の・・<二>書は、自然の神道に非らず。・・皆仏法に迷はされ是の如し。」と仏教等と混淆した神道は排斥するものの、「然らば日本の神社神法は皆無益有害なるか。然らず。神社神法は神に私欲の妄願を祈らず、唯慎んで神を敬ひ己れが業を守る、必ず神徳の幸ひ有り。」と神道そのものには敬意を表します。
安藤において、儒教や仏教を否定し、神道を基本的に肯定させたゆえんは、前者のイデオロギー性にあったと考えられるのです。
最後に本居宣長です。
彼は、「すべて神の道は、儒佛などの道の、善悪是非をこちたくさだせるようなる理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなえりける。」、「或は此天地の道理はかようかようなる物ぞ、人の生るるはかようかようの道理ぞ、死ぬればかようかようになる物ぞなどと、実は知れぬことをさまざまに論じて、己が心々にかたよりて、安心をたて候は、皆外国の儒佛などのさかしらごとにて、畢竟は無益の空論に候。凡てさようのことは、みな実は人の智を以てはかり知べきことにはあらず候」、と儒教、仏教批判を行うとともに神道を礼讃します。
これは、安藤のそれと驚くほど類似した、激しいイデオロギー批判です。
(以上、荻生、安藤に係る引用はコラム#52、本居に係る引用はコラム#50による。)
このように見てくると、荻生、安藤、本居は、いずれも、織田信長が仏教に対し、そして豊臣秀吉等がカトリシズムに対し、武力で行ったイデオロギー壊滅作戦を、江戸時代において、筆の力で継承し、完遂した人々であったことが分かります。
(続く)
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<太田>
江戸期朱子学の評価。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/18/20070318000000.html
に以下のように書いてありました。
「日本政治思想研究の大家・丸山真男は、江戸時代の朱子学的思考方式の解体過程を日本近代化の自生的萌芽ととらえた。丸山は、江戸時代初期に朱子学が学問の主流として盛んになり、その後の国学や古学、神道論のような多様な脱朱子学的思考を通じ、日本は近代化の基盤を築いたと主張した。 しかし、丸山の弟子でもあり東京大法学部教授の・・渡辺宏・・は、こうした師匠の主張に反旗を翻した。江戸時代初期の日本では韓国や中国とは異なり、朱子学が正統思想とはされなかったというのだ。林羅山、山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂来などの儒学者らは少数派に過ぎず、朱子学は被支配階層の自発的服従を誘導し、秩序を維持する役割を果たせなかった。そのため、江戸時代の思想史における朱子学の変遷過程は、近代化に向け解体される過程ではなく、朱子学の日本的受容と変遷の過程を示していると著者は主張する。」
渡辺教授の指摘は、私が、丸山真男の『日本政治思想史研究』批判を行ったコラム#1644~1648(いずれも未公開)を裏付け、補完する指摘であるようです。
昭和日本のイデオロギー(その6)
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