太田述正コラム#13148(2022.11.29)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その38)>(2023.2.24公開)

「この頃から井上と米内の2人の間に、終戦へのプロセスに違いが見られるようになった。
 井上としては、敗北が明らかなこの戦を、1日でも早く終結すべきであると考えていた。
 したがって井上は機会あるたびに米内に対して、「手ぬるい。手ぬるい」と言って、終戦を急ぐべきことを督促した。
 一方の米内は、国体護持を図る中で終戦に持ち込むべきだと考えていた。
 何故ならば国体護持が図られないようであれば、陸軍側が終戦に同意しないことは明らかだったからである。

⇒この時点で国体護持(天皇制の維持)を本当に期していたのは昭和天皇や近衛文麿くらいで、陸海軍の首脳は、ホンネでは全くこだわっておらず、ただただ、昭和天皇に最も適切な時点で終戦させるための、良く言えば錦の御旗、悪く言えば小道具、として使っていただけだ、と私は考えるに至っています。
 閑院宮と伏見宮は、それぞれ、参謀総長、軍令部総長、として、杉山構想に従って、それぞれ、陸軍と海軍を対英米戦直前まで引っ張って行ったわけであり、対英米戦の結果は必然的に軍事的敗北がもたらされることも分かっており、そのまま両総長にとどまっておれば、確実に天皇制は終焉を迎えるので、それは避けたものの、だからといって天皇制が維持されるとは限らない、国体が護持されなくてもかまわない、と思っていたはずです。
 この2人はどちらも、天皇家の本家である伏見宮家の人間であること(コラム#省略)も思い出してください。(太田)

 これに対して井上は、戦争継続の結果、日本民族が消滅して何が天皇制の存続か、国体の護持かという訳である。・・・
 小磯内閣が危ないとの情報が井上の耳に入ったのは、昭和20年2月末の事であった。
 3月に入ると、高木を通じて「松平康昌内大臣秘書官長から、内閣更迭に関する情報が入るようになった。
 3月28日、井上は高木に対して次のような考えを述べて、松平秘書官長への伝達方を指示した。
 (一)、鈴木大将が総理になる事が最も望ましい。その場合同大将は政治的感覚なき故、助けるため米内大将再任の必要ありと思ふ。
 (二)、もし留任が難しいならば、米内大将軍令部総長となり、とにかく現役に残る事を海軍は望む。・・・

⇒木戸内大臣が松平康昌を通じて鈴木貫太郎に大命降下する話を井上、ひいては米内光政海相に流したということでしょうね。(太田)

 4月5日、鈴木貫太郎に組閣の大命が下ると、井上はすかさず高木を鈴木のもとにやって、「海軍の総意である」として米内の留任を招致させた。
 翌朝、次官室に現れた及川総長も、この井上案に同意した。・・・
 <その後、及川古志郎の後任として>豊田副武<が>5月29日付で総長に親補され、<井上成美の後任として>多田武雄<(注67)が>5月15日付で次官に任ぜられた。」(284~286)

 (注67)1890~1953年。海兵40期、海大に入学していない。「岩手県<出身。>・・・1919年(大正8年)4月、病気のため待命となる。1920年(大正9年)6月、・・・復帰。1922年(大正11年)・・・12月、井上良馨元帥付副官兼軍令部副官に<なって>・・・1924年(大正13年)12月・・・<まで務め>た。・・・
 海軍省人事局第2課局員<や>・・・人事局第2課長・・・を経て、・・・1944年(昭和19年)に入ってからは、航空本部総務部長、更に海軍省軍務局長に栄転。
 1944年9月5日、陸海技術運用委員会が設置され、佐藤賢了陸軍省軍務局長とともに副委員長を務めた。特殊奇襲兵器開発のために陸海民の科学技術の一体化が図られた。
 井上成美が大将に進級後、・・・井上の後任として米内光政海相は多田を海軍次官に、大西瀧治郎を軍令部次長にそれぞれ充てた。1945年(昭和20年)5月15日から11月20日まで海軍次官を務めたが、米内に鈴木貫太郎、東郷茂徳らが陸軍に感づかれないように密かに終戦工作を繰り広げていた中、穏健派だった多田は大西に焚き付けられ、豊田副武軍令部総長も含め最後は徹底抗戦派に与していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%AD%A6%E9%9B%84
 井上良馨(よしか。1845~1929年)。「薩摩藩士・・・の長男。・・・文久3年(1863年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾り、野津鎮雄(後に陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれ、弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。・・・
 明治7年(1874年)10月、艦長として「雲揚」に着任した。政府は朝鮮王朝に外圧をかけるべく、翌8年(1875年)5月に「雲揚」と「第二丁卯」を派遣した。征韓論者である井上は嬉々として釜山に乗り込み、示威砲撃訓練や無断測量などの挑発を重ねて朝鮮西岸へ進出した。同年9月15日、江華島砲台は遂に井上の挑発に屈して反撃し、「雲揚」が応戦して砲台を陥落させた。いわゆる江華島事件である。・・・
 軍政の中枢である軍務局長・軍令の頂点である参謀本部海軍部長を歴任し・・・明治40年(1907年)に子爵、明治44年(1911年)に元帥が叙せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%89%AF%E9%A6%A8

⇒多田武雄は、井上良馨の副官時代に、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者へと染め上げられたと思われます。(太田)

(続く)