太田述正コラム#13150(2022.11.30)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その39)>(2023.2.25公開)

 「・・・「米内大臣は、一度何処かで米軍を一叩きした後、和平に持って行ってはどうかと考えておられたが、それはとても望ないと思っていた。それでは沖縄を取られたら日本はどうすべきかという事になるが、私は大臣に、『ソ連とは万難を排して手を握る事。アメリカが日本に上陸する前には、どんなことがあっても降伏しなければならない。敵は沖縄から本土の何れの方面に来るか解らないが、日本国民性から見て、敵が上陸したら最後、日本の法秩序は滅茶苦茶になって、国民は散りぢりばらばら、代表も何もあったものではない』との意見は申し上げておいた」・・・

⇒この段階における国体護持にせよ一撃講和にせよ、米内が本気で言っているわけではない可能性に井上は全く思いを致していないようですね。
 実際、これは、井上が次官を辞めさせられた5月15日(※)の直後のことですが、阿南陸相と議論をする場では、「<1945年>5月31日に首相官邸にて・・・6相懇談会<が>開催<されたが>、会議は阿南と米内の激しい論争となり、阿南が「敵を本土に引きつけて一撃を加えた後に有利な条件で講和すべき」という一撃講和論を主張したのに対して、米内は「その1戦の勝算の見込みなく、全面降伏は必然であり、一日も速やかに講和に入るべき」とする即時講和論を互いに主張して譲ら<ず、>阿南はさらに「このままで講和を求めれば大幅譲歩を必要とするため、国民を納得させられないばかりではなく、陸軍の中堅層を制御するのも不可能であり、何としてもここでもうひと踏ん張りは必要である」と主張すると、米内は「もう踏ん張りはきかない、やがては国体護持さえできない結果となる」と反論するなど、3時間余りの議論が行われた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
ところです。
 他方、井上は、本気で「ソ連とは万難を排して手を握る事」と主張していたというのですから、当時の陸軍からすれば、井上はバカなので無視するだけだったのに対し、米内については、実は陸軍に通じているくせに、昭和天皇や近衛文麿にはそうでないようないい子ぶりっこしていて、軽蔑、憤激の対象だったのではないでしょうか。
 阿南陸相が割腹直前に「「米内を斬れ」という発言<を>している」(上掲)のはそういうことだ、と、取敢えず、私なりに想像しています。(太田)

 昭和20年初め、井上は米内に対して、「独立という事だけが図れれば、他のどんな条件でもよいから戦を止めるべきである。米軍の本土上陸前に講和をしなければ、日本人の国民性から考えると、米軍に対して徹底的に抗戦し、ついに和平する母体まで消滅させてしまうであろう。それを防ぐためには(スウェーデン、スイスなどの)中立国や、ソ連を介して速やかに交渉を開始すべきである」と意見具申していた。

⇒ソ連に対するノーテンキ評価はすぐ先程引用した文章中のものと同じですが、本土決戦における日本人の抗戦性についての見解は、正反対ですね。
 とにかく、井上は、頭脳が極め付きに明晰ながらも、半知半解、その時の気分、勢いに左右されて見解を口走ってしまうという、科学的思考ができない、まことにもって困った人物です。
 なお、昭和天皇は、日本の独立よりも国体護持(天皇制維持)を重視し、「独立という事・・・が図れ<た>」終戦だったというのに、戦後日本は独立を失った状態のまま現在まで推移してしまっているわけです。(太田)

 期日は定かではないが、かつて井上は、「5月に終戦のチャンスはあった。もちろん米内や私は殺されたであろうが…」と語ったことがある。
 ポツダム宣言が発表された7月26日から8月15日まで、天皇制の護持をめぐって20日間も終戦が遅れたことについても、井上は「天皇制が認められないとしても、終戦をすべきであった。そうすれば、広島、長崎の悲劇は起きなかったはずだ」と言って悔やんだ。
 昭和20年5月15日<に>・・・大将<に昇任し、>・・・軍事参議官に親補された・・・<井上にも>副官が配属された。
 井上の副官は、金谷善文<(注69)>大尉(機48期)だった。

 (注69)「金谷善文大尉が、井上成美の娘婿であった丸田吉人について述懐している<。>・・・
 「少年のころ、金谷の家と丸田家とは同じ世田谷奥沢ですぐ近かった。而も彼の父は予備役主計中将の金谷隆一、丸田吉人の父親が予備役軍医少将の丸田幸治、似た境遇の家庭同士よく往き来していたし、今でも両親が折にふれて丸田一家の話をする・・・。」(阿川弘之著「井上成美」より孫引)
https://ameblo.jp/gayasan8560/entry-12487780243.html

 金谷はかつて、同期の萱沼洋や権藤安行らと、米内暗殺を含む海軍首脳刷新を企てた事があった。
 萱沼沼と権藤がその支援を頼むべく岡田啓介を訪ねたことから、この企てが発覚して、菅沼は船山列島へ、権藤は稚内に飛ばされた。<(注70)>」(288~289)

(注70)「戦後、もと海軍法務官であった島田少将に会ったとき、こんな話を聞いた。二十年の春頃、横須賀工廠長に、海軍将校の暴発計画を密告してきた者があり、工廠長からそれを伝達してきたので、本省に報告して対策を練ったが、その首謀者として、萱沼洋、権藤安行の名があった、云々。
 そうなると、私の方<(小山寛二留守宅)>・・二階の書棚の裏には、萱招が預けていった拳銃が隠してあった・・に起きた憲兵隊投書事件までは、やはり内容はアヤフヤだったことになる。投書した人物は、自分の投じた一石が効果を示さないので、次の手段として、個人的関係のある工廠長に、秘密を守る条件で訴えて出た。これで初めて海軍は計画の全貌をつかみ、萱沼、権藤の中核分子を流刑に処して、巧妙に事件を隠蔽し、残余の者には監視をつけた。このやりかたには、一味の内情に通じた密告者の入れ智恵も働いているように思われる。密告者は最後まで姿を現わさなかった。が、頭脳の明敏なインテリであったにちがいないと想像されるのだ。なぜなら、私も終戦後、中馬中佐と当時のことを語り合ったとき、「あの投書は文字も文章もなかなか巧みであったが、自分の名は書かず、作意の跡が歴然としていた」と言っていたからである。」
http://rinkiouhen.jugem.jp/?eid=85
  小山寛二(1904~1982年)。「熊本県八代市出身<。>・・・早稲田大学中退。クロポトキンの影響を受け、アナキズム、左翼運動家の道を歩むが、1928年(昭和3年)、転向する。三上於菟吉に師事し、大衆文学などを執筆した。作品に、1934年(昭和9年)に映画化された「明暦名剣士」、宮崎滔天を主人公とした「波浪の歌」、細川忠興の妻ガラシャを描いた「細川ガラシャ」、「曠野の父」、「風雲万里」、「江南碧血記」などがある。随筆雑誌「騒友」主宰。1982年(昭和57年)、東京にて没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%AF%9B%E4%BA%8C

⇒確かに、米内も井上も、海相、次官時代には命が危なかったわけです。
 なお、「注70」に出てくる容疑者達を密告したのは、投書先が工廠長であったこともあり、機関将校であった金谷善文・・ちなみに丸田吉人海軍医少佐は1944年10月比島沖海戦で戦死している・・
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwir-YOOsdX7AhUQRd4KHSFBC88QFnoECAoQAQ&url=http%3A%2F%2Fwww6.plala.or.jp%2Fguti%2Fcemetery%2FPERSON%2FA%2Finoue_shi.html&usg=AOvVaw0z8o0Eu7yJjfZtB_2Cycpe
ではないではないでしょうか。
 その金谷を井上の副官にしたのは、もちろん、「注69」から分かるように、彼が井上の女婿だった丸田の友人だったからでしょうね。(太田)

(続く)