太田述正コラム#1660(2007.2.15)
<丸山真男小論(その2)>(2007.9.17公開)
3 私の丸山批判
(1)丸山の存在の大きさ
丸山真男は、私の東大法学部在籍当時、まだ法学部教授をしていましたが、病気がちであったために直接謦咳に接することは出来ませんでした。(私が卒業した1971年に丸山は退官しています。)
しかし、丸山に強い影響を受けた政治学者としてウィキペディアが挙げている、京極純一(政治学:教養学部時代)、篠原一(政治学:法学部時代(以下同じ))、福田歓一(政治思想史*)、坂本義和(国際政治)、三谷太一郎(政治外交史*)各教授には、いずれも講義か売店で購入した講義録(*)でお世話になりました。
丸山は、このように戦後の東大の政治学に大きな影響を与えただけではありません。亡くなった現在なお、日本の政治学界全体や言論界等における丸山の崇拝者、信奉者は数限りないのであって、彼は、まさに戦後日本を代表する知識人であると言えるでしょう。
(以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
(2月1日アクセス)による。)
しかし丸山の場合、吉田茂とは違って、戦後史に及ぼした功罪中に「罪」はあっても「功」はなかったと言えそうです。
しかも、丸山の存在が大きかっただけに、彼の「罪」もまた大きい、ということになりそうです。
(2)丸山批判
ア 原理的反軍・反戦論者丸山
慧眼な読者は、まずもって、丸山が、欧州の戦後の反再軍備論的世論を持ち上げ、それに従わない仏独両政府を批判する一方で、日本の戦前の排外主義的世論に眉を顰め、それに従った当時の日本政府を貶めていることに、論理的一貫性がないと思われたことでしょう。
要するに、丸山は原理主義的な反軍・反戦論者なのであって、それだけで政治学者としては疑問符がつくところですが、その上丸山は、民主主義政体における世論と政府の関係について、政治学的な客観的かつ具体的な考察を加えることなく、戦後の仏独両政府は反軍・反戦論の世論に逆らったので批判し、戦前の日本政府は、軍国主義的世論に従ったので批判するという具合に、すべてを自分自身の主観的価値基準のみに照らして裁断を下す、という政治学者としてあるまじき人物なのです。
(客観的かつ具体的な考察とは、先の戦争によって疲弊しきっていて再軍備に消極的な仏独世論、しかし、そうは言ってもソ連の脅威に対して備えなければならない仏独両政府、その仏独両政府が、再軍備に消極的な世論に藉口して米国にできるだけ防衛負担を押しつけ、自らの防衛負担の軽減を図ろうとしている、といった考察です。)
イ 極東裁判での被告証言を読み誤っている丸山
また丸山が、ニュルンベルグ裁判や極東裁判のような、裁判の形をとったところの、戦争の勝者の敗者に対する言葉による公開リンチの場において、ドイツ人や日本人はいかなる言動をとるものなのか、といった背景分析を抜きにして、ナチ最高幹部達と日本の指導者達の証言ぶりを取り上げて比較対照し、後者を貶めているのにも呆れてしまいます。
さすがに、丸山もこのような批判を気にしてか、「問題は、私が抽出したような行動様式の特質が、もつぱら極東裁判の被告に立たされたために特殊な一回的現象として出て来たものかどうかという点にかかつている。私はむしろこの裁判の強烈なフラッシュを浴びて、平素はあまりに普遍化しているために注目を惹かない日常的な行動様式の政治的機能が浮彫のように照し出されたと解釈するのである。」(『現代政治の思想と行動』巻末の注 506頁)と弁明していますが、そうではなく、「日常的な行動様式・・・が浮彫のように照し出された」部分もあれば、そうでない部分もある、というのが正しいのではないでしょうか。
そうでない部分の方からいけば、極東裁判の(A級戦犯たる)被告達は、例外が全くないとは言いませんが、彼らは、基本的に極東裁判の正当性を認めておらず、かつ天皇の責任を回避することに努めていたことから(典拠省略)、ウソを交えた歯切れの悪い証言に終始せざるをえなかったと思われるのであって、ナチの最高幹部達の証言の「明快さ」と比較して日本の指導者達の証言ぶりを貶すことはナンセンスであると言うべきでしょう。
ウ 法の支配や民主主義の何たるかが分かっていない丸山
逆に、「日常的な行動様式・・・が浮彫のように照し出された」部分こそ、日本の指導者達に共通していたところの民主主義と法の支配へのコミットメントです。
私に言わせれば、「下克上」こそ民主主義の核心であり、「権限への逃避」こそ法の支配の核心なのです。
まさに、「下克上」と「権限への逃避」があったからこそ、大正期に確立した日本の自由・民主主義は、日本の敗戦の1945年まで基本的に維持されえたのであり、「下克上」と「権限への逃避」がなかったドイツは自由・民主主義が根付いていなかったということであり、だからこそドイツはファシズムに屈し、ヒットラーによる独裁を許してしまったのです。
(おかげで、日本は支那等において、どちらかと言えば下からの自然発生的な、数百、数千、ないしは1~2万(?)の虐殺事件は引き起こしたが、ドイツにおけるような、上からの命令に基づく何十万何百万単位のホロコーストに相当するような虐殺事件は引き起こしませんでした(?!)。)
結論的に申し上げれば、丸山が「日本的ファシズムは矮小」だったと言うのは、むしろ丸山の政治学者としての矮小さを示すものなのであって、当時の日本は、ファシズムとは全く無縁の民主主義的国家であった、ということです。
日本の悲劇は、民主主義が確立したばかりの時に戦争をしかけられたところにあります。
古典ギリシャ時代のアテネが、(奴隷制と並立していたものの)民主主義が確立したばかりの時に戦争をしかけられ、衆愚政治に陥り、無謀な戦線拡大をしたためにペロポネソス戦争に敗れ、スパルタの軍門に下った(コラム#908~912)(注1)(注2)ように、日本も衆愚政治に陥り、無謀な戦線拡大をして先の大戦に敗れ、米国の軍門に下ったのです。
(注1)ソクラテス(紀元前469?~同399年)は、ペロポネソス戦争(紀元前431~同404年)におけるアテネの敗戦直後に、大衆の偏見に基づき若者を惑わすとして「下克上」的に訴追され、「権限への逃避」をした裁判員らによって死刑宣告を受け、逃げることができたのに、慫慂と毒をあおいで死んだ(プラトン『パイドン』岩波文庫)。
(注2)アングロサクソン文明が反民主主義的であること(コラム#91)を想起されたい。
ですから、丸山による(戦争当時の)日本の指導者達のバッシングは著しくバランスを失している、と私は思います。
衆愚政治下の古典ギリシャのアテネにおいて、ペリクレスら、古典ギリシャ史における最も有能でスケールの大きい指導者群を見出せるように、衆愚政治下の戦前の日本にだって、日本史全体に照らしても傑出して有能でスケールの大きい岸信介や石原莞爾らの指導者達(拙著『防衛庁再生宣言』日本評論社 233頁~)がいた事実から、どうして丸山は目をそらすのでしょうか。
(続く)
丸山真男小論(その2)
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