太田述正コラム#13154(2022.12.2)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その1)>(2023.2.27公開)
1 始めに
アジア、ひいては非欧米世界、更にひいては全世界の救済のために(も)日本は先の大戦を戦った、というのが私のこのところの主張であるわけですが、それを否定する通説の立場に立った表記を取り上げるシリーズです。
なお、安達宏昭(1965年~)は、立教大文(史学)卒、同大院博士課程修了、同大博士(文学)、立教中学教諭、立教池袋中学・高校教諭、東北大院文学研究科助教授、准教授、教授、専攻は日本近現代史、戦時期政治経済史、
https://www.sal.tohoku.ac.jp/jp/research/researcher/profile/—id-46.html と奥付
という人物です。
2 『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む
「・・・<1941>年1月の帝国議会で東条英機首相は、戦争を遂行しつつ、大東亜共栄圏<(注1)>建設の大事業に邁進すると述べて、日本の方針を内外に示した。
(注1)「ドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けて<いる。>・・・
用語としては陸軍の岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、1940年(昭和15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話<(下出)>に使われてから流行語化した。公式文書としては1941年(昭和16年)1月30日の「対仏印、泰<(タイ)>施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて1938年(昭和13年)には「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F
「武藤章軍務局長は国策研究会を活用して、陸海軍、企画院官僚、「革新」派官僚の参加のもと1940年1月から半年かけて・・・「綜合国策基本要綱」・・・策定した・・・と考えられている。・・・武藤が夜遅くに密かに・・・荻外荘に・・・近衛を訪ねた際、陸軍の要望案として近衛に示して<これに>同意するように求めた・・・という。近衛はその内容に完全に同意し<、>・・・それが原案になっ<て>・・・第2次近衛内閣によって・・・基本国策要綱・・・<が>閣議決定された<。>・・・
<その>内容<:>・・・皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り<。>・・・皇国現下の外交は大東亜の新秩序建設を根幹とし先づ其の重心を支那事変の完遂に置<く。>・・・国体の本義に透徹する教学の刷新と相侯ち自我功利の思想を排し国家奉仕の観念を第一義とする国民道徳を確立す尚科学的精神の振興を期す<。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%AD%96%E8%A6%81%E7%B6%B1
そもそも大東亜共栄圏という語句は、東条首相による演説の約1年半前、1940年8月1日に第二次近衛文麿内閣の松岡洋右外相が「当面の外交方針は大東亜共栄圏の確立を図る」と記者会見で述べたのが初めである。
会見は前月に閣議決定した「基本国策要綱」を公表するものだった。
松岡外相による記者会見のおよそ2ヵ月後、1940年9月27日に日本は日独伊三国同盟条約を締結した。
この条約は独伊と日本がヨーロッパとアジアでそれぞれ新しい国際秩序をつくり、その指導的な地位に立つことを相互に認め尊重するというものである。
大東亜共栄圏とは、世界の再分割をめざす独伊の動きと連動し、東アジアから東南アジアの地域を、日本が盟主になり、政治的・経済的圏域として一つに統合しようとするものだった。
それは、日本が総力戦体制を構築するうえで必要としたからである。
では、大東亜共栄圏の範囲とは具体的にはどこを指したのか。
先の記者会見で松岡外相は、大東亜共栄圏の範囲について「広く蘭印、仏印等の南方諸地域を包含し、日満支三国はその一環である」と説明している。・・・
南方とは、現在の東南アジア全体と日本が委任統治領としていた南洋群島を指す。
ただし、南方についてはインドやオーストラリアも含めて考える場合もあった。・・・
なぜ、範囲があいまい<だ>・・・ったのか。
それは日本が資源を自給するために、インドの銅や綿花、オーストラリアの銅、小麦、羊毛などが不可欠だとの認識があったからだ。
このように大東亜共栄圏は、日本が経済的な自給を強く意識したものだった。・・・
大東亜共栄圏については、「八紘一宇」や「アジアの解放」といったスローガンとともに語られることが多く、近代日本のアジア主義の系譜から読み解くこともできよう。
⇒私はこの立場であるわけです。(太田)
しかし、大東亜共栄圏はそうしたイデオロギーではなく、経済的な自給確保こそが本質だった。」(i~ⅲ)
⇒安達にはマルクス主義の母斑が?(太田)
(続く)