太田述正コラム#13156(2022.12.3)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その2)>(2023.2.28公開)

 「・・・総力戦体制構築<を念頭に、>・・・日本ではまず、1918(大正7)年に軍需工業動員法を制定して、戦時に必要な資源の拠出を定めた。
 この法律を機に戦時経済統制の準備が始まる。
 この時期、農商務大臣であった仲小路廉<(注2)>は、総力戦には原料の自給自足が必要であると主張し、特に工業用基礎原料の自給自足を唱えていた。

 (注2)なかしょうじれん(1866~1924年)。「周防国徳山藩下士・・・の二男として生まれる。大阪府立中学を経て、府立開成学校卒業後、1887年(明治20年)に高等文官試験司法科の前身である判事検事登用試験に合格。そののち東京控訴院検事兼司法省参事官などを経て、行政裁判所評定官を務めた。こののち逓信省に転じて[後藤新平大臣の下で]大臣官房長を務め、内務省に出向して土木局長、警保局長を歴任した後、1910年(明治43年)逓信次官となり<、>・・・退官後の1911年(明治44年)8月24日、貴族院勅選議員に勅任された。1912年(大正元年)に第3次桂内閣の農商務大臣として初入閣を果たすが、この内閣は2か月間の短命に終わっている。1916年(大正5年)の寺内内閣で再び農商務大臣となり、この時は約2年間にわたってこれを務めあげている。
 1923年(大正12年)9月26日には枢密顧問官を拝命し、同年10月27日に貴族院議員を辞任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%BB%89
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%B2%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%BB%89-1096628 ([]内)
 「農商務大臣の時には米騒動の鎮圧策「暴利取締令」の交付に尽力。」
https://aysa.jp/img/kenkoufukushi/2018/201901.pdf
 「鈴木商店<の>・・・金子直吉は、大戦勃発時、ソーダ類の輸入途絶に直面した政府・農商務大臣仲小路廉の要請を受け、ソーダ自給を目指して、世界市場を席巻していたブラナモンド社(現・ICI)と満州にて工場建設を計画するも不調に終わる。」
http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat2/cat7/

⇒第一次世界大戦によって、ソーダ類等の輸入杜絶に直面したことにより、仲小路廉農商務大臣が、原料、就中、工業用基礎原料の自給自足、を提唱したわけです。(太田)

 陸軍は、1917年の段階ですでに『帝国国防資源』<(注3)>のなかで、・・・自前で軍需産業を維持することと、そのための原料を確保できる経済自給圏が必要との認識<を打ち出してい>た。」(4~5)

 (注3)「いち早く国家総力戦に関する本格的研究に着手したのは陸軍である。陸軍は、[岡市之助陸相の下、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ]一九一五(大正四)年九月、四一名の臨時軍事調査委員を各省部の定員外の委員として任命し、交戦諸国の陸軍の状況や国家総動員に関する具体的調査を開始した。
 同委員は、ただちに調査をはじめ、一七(大正六)年一月には「参戦諸国の陸軍に就て」と題する報告書を発刊し、その後も研究成果を刊行しつづけた。
 当時陸軍のなかで総力戦のための国民動員の必要性をもっとも深く認識していたのは田中義一である。かれは、「良兵即良民」主義の立場から平時における軍隊と国民の結合をはかるため、一九一〇(明治四三)年一一月、帝国在郷軍人会を結成して指導にあたり(一四年一一月から海軍が参加)、一五年九月には大隈内閣にはたらきかけて団員約三〇〇万と号する青年団の全国的再編成に成功した。
 その結果、それまで構成員や性格がばらばらであった青年団は、義務教育修了から二〇歳までの男子をメンバーとする「修養団体」と規定されるにいたった。かれが在郷軍人会と青年団の組織化を重視した理由は、「今後の戦争は、軍隊や軍艦のみが戦争するのではなく、国民全体があらゆる力を傾け尽して、最後の勝敗を決するのであって、即ち国家総力戦であると云うこと」を深く理解していたことによる。さらにかれは、一七年には労働者対策として国営・民営各工場内に在郷軍人会の工場分会をつくるとともに、中学校・師範学校その他の一年志願兵認定学校に現役の将校と下士官を派遣して軍事教育と教練を実施することを強調している。要するに田中構想の狙いは、軍部の主導のもとに義務教育青年団兵役在郷軍人会のルートをつかって国民の統制と動員をはかることにあり、田中は激化しつつある労働運動やデモクラシー運動などにたいする対決点を、このようなルートによる天皇制イデオロギーの普及と浸透のなかに見出していたのである。そして山県や寺内に密着していた田中の構想は、なんらかの形で山県や寺内らの「挙国一致」構想に影響をあたえ、国民動員についての具体的イメージをかれらに提供していたと思われる。
 〈長谷川好道参謀総長の下
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 〉一五年一〇月、参謀次長に就任した田中は、参謀本部第一課(編成動員)の森五六大尉に各国の総動員計画の実情調査と日本における具体的な総力戦計画の立案を命じた。森大尉の起草した文書は、一七年九月、『全国動員計画必要ノ義』(7)と題し、参謀本部から「秘」扱い文書としてひそかに配布されたが、それはおそらく日本における最初の総力戦計画案であった。内容はつぎのとおりである。まず日本の国防政策は、「神速ナル決戦ヲ主義ト為シ且戦争持久ニ至ルモ我耐久性ヲ完全ナラシムル」ものでなければならないとの前提にたち、日本の工業力の脆弱性(軍需生産の軍工廠と外国への依存・軍工廠と民間工場との連繋の不十分さ・軍需生産と一般工場との没交渉など)、労働力確保と兵力動員の矛盾解決の必要性などを指摘し、広範多岐にわたる動員計画の実施を指導する「統一機関」の常置を主張する。「統一機関」は、首相または元帥を委員長とし、閣僚・参謀総長・海軍軍令部長その他関係親任官または親補職にある者を委員として構成され、決議事項の実行のため委員長のもとに行政各部の事務官または技術官をおき、「軍需当局ト協同処理セシムルヲ要ス」と規定されている。このプランは、軍部の主導のもとに国務にたいする統帥優位の方向で総力戦体制をつくりあげようとするものであった。
 同じ一七年春、「参謀本部第五課(支那課)兵要地誌班長であった小磯国昭少佐は、ドイツの戦時自給経済に関する文献をよんでショックをうけ、当時の陸軍の戦争準備が大規模な大陸作戦を前提としながら統帥上の業務しか考えず、総力戦的配慮をまったく欠いていることを反省し、班の全力をあげて研究にとりかかった。(8)研究は九月に完成し、田中参謀次長に提出されたのち、『帝国国防資源参謀本部』と題し別に「小磯少佐私案」ということわり書きをつけて印刷され、民間の会社銀行などへも広く配布された。それによると、まずドイツの三ヵ年にわたる戦争経験を参酌し、満一五歳から五〇歳までの男子総数約二、七〇〇万人のうち三分の一にあたる九〇〇万人を総動員兵数とする。そして国民の生存と動員兵数維持のために必要な食糧・衣料その他の生活必需品ならびに軍需品の数量を算出したのち、戦時中の生産減退を見越しつつ国内生産力の限界を算定し、戦時所要数量から国内生産力の限界数量を控除して絶対不足量をもとめ、この不足量は日本と大陸の諸資源の開発・代用品の作成・物資の平時貯蔵などによって補うことを提唱する。そのためには総力戦計画の立案が必要であるばかりでなく、社会政策の強化・労資協調体制の確立・文教施設の改善・各企業組織や金融組織の改組などを断行しなければならない。さらにまた安全な大陸との補給路を確保するため、総工費一〇億円、二〇年継続事業として九州の名護屋-壱岐-対馬-朝鮮間に海底トンネルを開通させるという壮大な構想のものである。なお小磯少佐は、当時陸大教官を兼任しており、兵要地誌の講義のなかで「国家総動員機関」の設置と国民精神総動員の必要を強調したという。このような小磯プランの特徴は、第一に国内生産量の増大を国家の統制によって達成しようとすることであり、第二に日本と大陸(満州と中国)とを一体とする経済圏構想のうえにプランがたてられていることであり、それはあたかも後年の日満支経済ブロック論のはしりともいうべきものをふくんでいたのである。」(木坂順一郎「軍部とデモクラシー–日本における国家総力戦準備と軍部批判をめぐって」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1969/38/1969_38_1/_pdf/-char/ja
 木坂順一郎(1931年~)は、京大文入学、法学部へ転部して卒業し、名大院法学研究科、同大助手、龍谷大経済学部講師、同大法学部助教授、教授、名誉教授。「政治学や国家論の視点を加味しながら、大正デモクラシーや日本ファシズムなどの研究を進めた。また、「大東亜戦争」「太平洋戦争」などの従来の呼称は昭和期の戦争の性格を捉えきれないとして、「アジア・太平洋戦争」という呼称の普及に努めた研究者として知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%9D%82%E9%A0%86%E4%B8%80%E9%83%8E

⇒安達は『帝国国防資源』に係る人名を掲げておらず、また、「注3」でその論文を紹介した木坂は、田中義一と小磯國昭の名前を出しつつ、(私が「注3」中で補いましたが、)その時の岡市之助(注4)陸相や長谷川好道(注5)参謀総長に言及していません。

(続く)