太田述正コラム#13158(2022.12.4)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その3)>(2023.3.1公開)
(注4)1860~1916年。陸士:旧4期、陸大4期。「長州藩士・・・の二男<。>・・・
日清戦争には第1師団参謀として出征。参謀本部第2部員、兼軍令部第2局員を歴任し、日露戦争では陸軍省軍務局軍事課長をつとめた。1905年(明治38年)3月、陸軍少将。歩兵第22旅団長、参謀本部総務部長、歩兵第29旅団長、[寺内正穀の下で]軍務局長、陸軍次官・・[「軍部大臣現役武官制の維持」と2個師団増設の実現をめざしたが失敗]・・などを経て、1912年(明治45年)2月、陸軍中将に進んだ。
軍部大臣現役武官制改正問題では、次官でありながら木越安綱陸相批判の急先鋒となった。第3師団長を経て、1914年(大正3年)4月、[第2次大隈重信内閣で・・・陸大卒として・・・初の]陸軍大臣に就任し、上原勇作陸相以来の懸案であった2個師団増設を実現した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B8%82%E4%B9%8B%E5%8A%A9
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E5%B8%82%E4%B9%8B%E5%8A%A9-1061684 ([]内)
(注5)よしみち(1850~1924年)。大阪兵学寮入学。「岩国藩士・・・の子<。>・・・[藩の精義隊小隊長として戊辰戦争に参加。]
中佐として西南戦争に従軍する。戦後、広島鎮台歩兵第11連隊長、同鎮台参謀、大阪鎮台参謀長、中部監軍部参謀を経て陸軍大佐に昇進する。1885年(明治18年)フランス差遣を命ぜられ、翌年の1886年(明治19年)12月、陸軍少将・歩兵第12旅団長に昇進する。歩兵第12旅団長時代に、日清戦争に出征して旅順攻撃で戦功を立てる[が,その直後の市民大虐殺は拭い難い汚名を残した]。
1895年(明治28年)、軍功により男爵を授爵・・・。1896年(明治29年)6月、陸軍中将に進んで[桂太郎を継ぎ]第3師団長、1898年(明治31年)には近衛師団長。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などに善戦した。<日露戦争中の>1904年(明治37年)6月、陸軍大将に進級し、同年9月には韓国駐剳軍司令官に就任。[終戦後,朝鮮保護条約が結ばれ,伊藤博文が朝鮮統監になると,満州朝鮮政策に関して文武離隔が広がり,伊藤と長谷川が対立し,外国の新聞にも報道されるに至った。]
190<7>年(明治<40>年)・・・9月、子爵に陞爵。1908年(明治41年)の軍事参議官を経、1912年(明治45年)1月20日、参謀総長[に任命されたが政治能力に欠け,2個師団増設問題などで政党,海軍に対抗するには力不足とみられた]。1915年(大正4年)、元帥府に列せられる。
この間、伯爵に陞爵した長谷川は1916年(大正5年)10月16日、寺内正毅の後任として朝鮮総督に就任する。総督在任中の朝鮮で起こった三・一独立運動に対し、軍を動員して鎮圧したことなどが武断政治として[世界中から]批判を浴び、土地調査事業を完了させたものの、わずか3年で斎藤実に交替する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93-1101139 ([]内)
そもそも、幕府や諸藩が欧米式軍事を本格的に導入し始めた幕末の時点よりはるか前から欧米は総力戦体制・・その象徴が徴兵制でしたが、もともと、欧米諸国の場合殆ど全ての国家機構が戦争遂行のためのものでした(コラム#省略)・・なのであり、その後、第一次世界大戦までの間に何が変わったかと言えば、農業社会が工業社会に変わって、陸軍の兵站の対象が主として食糧/飼葉・弾薬であったのが工業製品を中心としたあらゆるものへと複雑化・総合化したという程度の話でした(典拠省略)。
そもそも、日本の維新政府のスローガンが「富国強兵」・・「富国」と「強兵」ではない!
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5-170472 (←この典拠中のブリタニカの解説参照。)・・だったことを思い出してください。
それに、岡市之助の陸大入学期間は、西欧諸国がイギリスに追い付け追い越せと工業化にしゃかりきであった1886~1888年であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
日本に1885~1888年の間滞在して陸大で教鞭を執ったところの、兵站を重視したメッケル、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB
から、工業化しつつある社会における「総力戦体制」の何たるかを学んだはずですし、長谷川好道は、ほぼ同じ時期の1885~1886年のフランス視察中に工業化しつつある同国社会における「総力戦体制」を学んだはずです。
この、どちらも広義の旧長州藩出身者であって、当然、山縣有朋の息のかかった2人の指導の下で、田中義一と小磯国昭が、欧米における、第一次世界大戦中及び直後の最新の欧米「総力戦体制」事情を調査した上で日本の「総力戦体制」をアップデートする方策を模索した、というだけのことである、と、我々は受け止めるべきでしょう。(太田)
(続く)