太田述正コラム#2091(2007.9.28)
<ミャンマー動く(続x3)(その1)>
1 序に代えて・・長井さんの死
9月27日、ヤンゴンで日本人の映像ジャーナリストの長井健司さん(50)がミャンマー軍治安部隊の兵士に至近距離から撃たれて殺害されました(
http://news.livedoor.com/article/detail/3324126/
。9月28日アクセス)。
この種の事件について、安全な所にいて云々することは本来控えるべきでしょうし、長井さんにはまことにお気の毒なことではあるけれど、私は、彼が無謀であったという印象を拭いきれません。
そもそも、ミャンマーでは原則、ジャーナリストの入国を禁止しており、長井さんも観光ビザで入国している(ライブドア上掲)のですから、取材活動を行ったことは違法である上、当局が26日1500を期して、反政府活動に関する情報や映像をアップロードしたウェブサイトやブログへのアクセスをブロックしたり、インターネットカフェを閉鎖したり、僧院や反政府政治家や学生運動のリーダー達への電話線や携帯電話の通信を遮断した(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-myanmar27sep27,0,1356818.story?coll=la-opinion-leftrail
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7016238.stm
(どちらも9月28日アクセス))という情勢に鑑みれば、銃を構えて接近してくる兵士に対して正面からビデオ撮影を続けるなど、自殺行為に等しかったと思います。
今や、映像は銃に匹敵する武器であること・・たまたま映像を撮ることも銃で撃つことも英語では同じshootだ・・に思いを致すべきでしょう。
幸か不幸か、長井さんの死は、その光景を密かに撮影した何枚かの写真が世界中に配信されたことによって無駄死ににはなりませんでした。
最初から長井さんが、このような形での盗撮に徹しなかったことが残念でなりません。
2 強硬弾圧へ
それまではほとんど手出しをしなかった治安部隊が、26日に、威嚇射撃をしたり僧侶達を拘束したりし始めました(ロサンゼルスタイムス上掲)。
翌27日未明には、治安部隊が少なくともヤンゴン市内の5つと郊外の2つの僧院に侵入し、乱暴狼藉を働き、僧侶達を殴打した上で、数百人を逮捕・拉致しました。
このため、同日のデモは前日より規模がかなり縮小したのですが、なお10,000人程度が参加しました。
これに対し、治安部隊は、催涙弾を使ったり、警棒を振るったり、威嚇射撃をしたり、更に時折水平射撃をしたりしてデモの弾圧に努め、この過程で当局発表によっても長井さんを含む9名が死亡しました。
(以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/27/AR2007092700358_pf.html
(9月28日アクセス)による。)
3 今後の展望
(1)今次反政府運動は成功するか?
インドネシアのかつての軍事政権とミャンマーの軍事政権とを比較してみましょう。
インドネシアとミャンマーはどちらも大きな熱帯の国であり、様々な民族と文化から成り立っていて、先の大戦後、混乱状況の中で植民地支配を脱したという共通点があります。
また、根強い分離主義運動を抱えている点でも両国は共通しています。
更に、軍が強力であり、国の統一を保持できる唯一の組織である点や、将校達がビジネスや政治に大いに関与している(注1)点でも共通しています。
(注1)約10年前に開館したヤンゴンの軍事博物館の展示の中心は軍事より経済であり、ダム・飛行場・鉱山・刑務所・ホテル・観光業・ビーチリゾートなどが登場する(
http://www.nytimes.com/2007/09/26/world/asia/25cnd-generals.html?ref=world&pagewanted=print
。9月26日アクセス)。
いずれも独裁者であったところの、インドネシアのスハルト(Suharto)も、ミャンマーのネウィン(Ne Win)も、貧しい家庭に育ち、迷信深く、かつ日本の占領下に日本によってつくられた軍事組織のメンバーあがりです(注2)。
(注2)インドネシア建国の父スカルノ(Sukarno)やミャンマー建国の父アウンサン(Aung San)も、スハルトやネウィン同様、日本の軍事組織のメンバーあがりであり、これらの人々がいなければ、両国は独立することも、独立後の国の統一を維持することもできなかったということであり、これは良かれ悪しかれ、日本による占領の影響の大きさを示すものだ。
ところが、スカルノを倒したスハルトは開放的な開発独裁路線を採ったのに対し、アウンサンの死後しばらくして権力を掌握したネウィンは、一貫して閉鎖的な社会主義路線を採り続けました。
このため、インドネシアには欧米諸国や日本が経済援助と投資を行い、インドネシア経済は成長を続けて中産階級が育ったのに、ミャンマーでは経済が停滞し、中産階級が育ちませんでした。
冷戦が終わった頃には、中産階級がスハルト政権の腐敗と人権抑圧に反発を強め、欧米諸国もそれに同調します。
こうして、中産階級の手によってスハルト政権は倒れるに至るのです。
ミャンマーの現在の軍事政権は、1990年代に入ってから、遅ればせながらインドネシア流の開発独裁路線への切り替えを図ったのですが、既に冷戦は終わっており、欧米諸国は、この軍事政権が腐敗(注3)と人権抑圧を止めない限り、経済援助や投資を行おうとはしませんでした。
(注3)軍事政権の最高指導者のタンシュウェ(Than Shwe)大将の娘が昨年結婚式をあげた際、彼女がダイヤがちりばめられた豪華な衣装をまとい、(ミャンマーの一人当たり所得が年200米ドルだというのに、)5,000万米ドル相当の結婚祝いをもらったという話が映像付きで全世界のインターネット上に流れたことは記憶に新しい(NYタイムス上掲及び、
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,2178992,00.html
(9月28日アクセス))。
しかし、ミャンマーでは中産階級が育っていないため、軍部に対抗する勢力がありません。
だからこそ、中産階級に代わって、いわば根無し草であるところの、学生や僧侶達が反政府活動の矢面に立たざるを得ないということであり、だからこそ容易にミャンマーの軍事政権は倒れないのです。
(以上、特に断っていない限り
http://www.ft.com/cms/s/0/11908dfe-6d22-11dc-ab19-0000779fd2ac.html
(9月28日アクセス)による。)
(2)鍵を握っているのは中共とインド
(続く)
ミャンマー動く(続x3)(その1)
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