太田述正コラム#1694(2007.3.17)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その1)>(2007.10.2公開)
1 始めに
まだ、最初のシリーズが完結していませんが、日本のアングロサクソン専門家によるアングロサクソン論の月旦に入ります。
2 渡部昇一
(1)始めに
最近、ある読者が、渡部昇一氏の『アングロサクソンと日本人』(新潮社1987年)を引用して投稿をされたことに触発されて、前から気になっていたこの本を読んでみました。
「今の北ドイツに住んでいたゲルマン民族の部族・・アングル、サクソン、ジュート族・・がイギリスに渡ってきて住みついた」(14頁)、「<だから、>昔のドイツ語と昔の英語の関係は、近代における英語とアメリカ語の関係にたいへん似ているといってもよかろうと思う。」(49頁)といったくだりは、もはや正しくない(コラム#1687)わけですが、1987年時点の本ですからそれは仕方がないとして、それ以外で私が若干違和感を覚えたことのいくつかを、以下に記します。
(2)英語は一時姿を消した?
最初は、いささか技術的なお話です。
渡部氏は、ノルマン公(Duke of Normandy)ウィリアム(William 1=William the Conqueror。1027~1087年)のイギリス征服によって、フランス語がイギリスの公用語になり、英語は300年近く・・正確には1066年から1362年まで・・姿を消した、と記しています(63~64頁)。
しかし、これは本来英語学者である筆者にしては、いささか雑駁に過ぎる記述です。
より正確なところをお教えしましょう。
まず、11世紀当時にはまだ標準フランス語は成立しておらず、ラテン語のガリア地方における方言であるガロ・ロマンス(Gallo Romance)語の、これまた各種方言が、後にフランスの版図となる地域等で並立して用いられており、その内の一つがノルマンディー地方にその100年ほど前に侵攻したノルマン人が用いていた言語でした(注1)。
(注1)ウィリアムの母方のいとこである、アングロサクソン朝最後の国王エドワード懺悔王(Edward the Confessor。1004?~1066年)は、9歳の時に彼の父のエセルレッド(Aethelred)が死去し、以後王位を継ぐまでノルマン公国で過ごした。だから、彼はアングロ・ノルマン語も身につけていた可能性が高い。
しかも、この言語には、かつてバイキングであったノルマン人のゲルマン系の単語が多数混入していました。
この言語は、後にアングロ・ノルマン語(Anglo Norman)(またはアングロ・フランス語(Anglo French))と呼ばれることになります。
イギリスを征服したノルマン人は、アングロ・ノルマン語を用い続けたのですが、300年経たずして、被支配者の言語である英語を、原住民のみならず彼等まで用いるようになります。
このことは、17世紀前後から始まる400年内外のイギリス(後に英国)による支配ですっかりアイルランド島から原住民のケルト系の言語が姿を消してしまい、アイルランド共和国が英国から独立してからもケルト系の言語が全く復活していないことと比べて、一見不思議に思えます。
しかし、これは不思議でも何でもありません。
第一に、ウィリアムは、イギリス王位の正当な継承者として、あえて大部分の布令をラテン語または英語で発布しました(注2)し、そもそも、イギリスの法制度に変更は加えたものの、ノルマンの法制度で置き換えたわけではなかったことです。
(注2)ただしその後、布令や法律、裁判の判決等が、ラテン語に代わってアングロ・ノルマン語で行われるようになる。
第二に、1066年以降のノルマン人のイギリスへの移住はせいぜい2万人程度であり、当時のイギリスの人口の1.3%に過ぎなかったことです。
そこで、13世紀初めにイギリス国王のジョン(John)がノルマンディー公国を失ったこともあり、その頃にはノルマン系貴族の間でもアングロ・ノルマン語はほとんど用いられなくなったのです。
そして、1362年には、行政(議会を含む)及び司法の場で話し言葉としては英語を用いなければならないとする法律が成立するのです(注2)。
(注2)しかし、この法律がアングロ・ノルマン語で書かれていたことからも分かるように、イギリスの行政及び司法の場における書き言葉としては、アングロ・ノルマン語、後には(15世紀に成立した)標準フランス語がその後も生き続け、司法の場でフランス語が完全に使われなくなるのは、実に1731年になってからだ。
むしろ、ノルマン系貴族の間で、かくも長く話し言葉としてアングロ・ノルマン語が用いられ続けたことの方が不思議だと言わなければならないのです。
アングロ・ノルマン語が用いられ続けたのは、一つには、ノルマン貴族が、なかなか原住民のイギリス人と通婚しようとせず、また、通婚するようになってからも、プライドにかけて、原住民の言語である英語を習得しようとはしなかった(注3)からであり、また彼等が、何世代にもわたってフランスにも領地を維持し続け、この間、日常的にフランスとイギリスとの間を行き来し、更にこれに関連して、フランスからイギリスへ住民の移住も行われていたからなのです。
(以上、
http://www.chass.utoronto.ca/~cpercy/courses/6361Heys.htm、
http://www.anglistik.rwth-aachen.de/de/lehrstuehle/anglistik2/projekte/middleages/articles/Language/french.htm、
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Norman_language
(いずれも3月17日アクセス)による。)
(注3)1066年から1120年頃までの間に、アングロ・ノルマン語から英語に採用された言葉は約900にとどまっているが、15世紀までには、約1万語のアングロ・ノルマン語や(後に標準フランス語となる)パリ地方のフランス語方言が英語に採用されている。こうして英語は古英語(Old English)から中英語(Middle English)へと変化した。ちなみに、アングロ・ノルマン語が使えない最初のノルマン朝の英国王はヘンリー4世(Henry 4。1367~1413年)だ。
(続く)
日本人のアングロサクソン論(続)(その1)
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