太田述正コラム#13168(2022.12.9)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その8)>(2023.3.6公開)
「・・・北支と中支(中国の華中地域)を占領した日本は、すぐにその地の経済開発に乗り出した。
特に北支については、日本・満州の経済と緊密に結合させようとした。
1938年4月には、北支那開発株式会社<(注11)>法・中支那振興株式会社<(注12)>法が成立し、[漢口<(注13)>陥落に対応した]同11月には両会社が設立された。
(注11)「華北の経済開発を目的とする国策会社は、既に南満洲鉄道(満鉄)子会社の興中公司(十河信二社長)があったが、華北の膨大な資源開発には同社のみで対応することは困難であった。また、興中公司を使って華北の資源を独占しようとする満鉄への内地財閥企業の反発もあり、陸軍省軍務課が音頭を取るかたちで新会社の設立が準備された。・・・
初代総裁は貴族院議員で前拓務大臣の大谷尊由<(コラム#12833)>だったが急逝したため、第2代総裁に賀屋興宣、第3代津島壽一、第4代八田嘉明が就任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%94%AF%E9%82%A3%E9%96%8B%E7%99%BA
(注12)「華中占領地区の復興,資源開発などを目的に日中合弁で設立された・・・児玉謙次を裁とする・・・国策会社。・・・
1939年9月の第二次世界大戦勃発は直ちに日本の経済政策に大改変を来たし中支那振興株式会社をはじめ関係会社(子会社)に対する資金,資材の供給は多く困難を蒙り,このため関係会社設立当初の計画はほとんど一時遂行困難となった。しかし,上海を中心とした華中経済の特性から自由市場を利用する現地調達の方法により,或いは経営の合理化などにより苦境を脱して華中経済の中心力として発展したという。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%8C%AF%E8%88%88%5B%E6%A0%AA%5D-857127 (本文中の[]内も)
児玉謙次(1871~1954年)は、「香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。
会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AC%99%E6%AC%A1
(注13)「日中戦争で南京陥落後,一時,臨時首都となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%A2%E5%8F%A3-48693
⇒大谷尊由(宗教界)や児玉謙次(経済界)からの起用は興味深いですね。
まさに、総力戦ここにあり、です。(太田)
北支那開発株式会社<も>・・・中支那振興株式会社も・・・、資本金の半額を日本政府が出資した日本の特殊法人だった。
1938年12月には内閣に興亜院<(注14)>が設置され、対中政策の統一を図るため各省の担当機関が移管される。
(注14)「興亜院は、昭和13年(1938年)12月16日に開設された日本の国家機関の一つ。日中戦争によって中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えたため、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するために第1次近衛内閣で設けられた。
長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された(副総裁は陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣・大蔵大臣の兼任であった)。現地に連絡機関として華北・蒙疆・華中・廈門に「連絡部」が設けられた。華北連絡部には出張所が置かれ、後に大東亜省に改編されたときには青島総領事館となった。占領地では軍政を行うため興亜院の幹部も主に陸海軍の将校で占められた。興亜院の設置は外務省の対中外交に関する権限の縮小につながり、宇垣一成外相の辞任の一因となった。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。
後に内閣総理大臣となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務していたことがある。1939年6月から1940年10月まで、大平正芳は蒙疆連絡部経済課主任、課長を歴任した。その任官中、興亜院が主導する阿片政策をその重用な職務のひとつとして遂行した・・・。大平内閣の閣僚でもあった大来佐武郎、伊東正義、佐々木義武もまた官僚時代、興亜院勤務で大陸に渡っていた。このため、自民党内からは「興亜院内閣」と揶揄されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2
以後、中国の経済政策は興亜院経済部が担当することになった。・・・
漢口・広東占領後の1938年11月3日、近衛文麿首相はいわゆる東亜新秩序<(注15)>声明を発する。
(注15)声明それ自体は転載しないが、「反共主義によるもの(抗日容共な国民党政府の否定、大日本帝国・満州国・中華民国3カ国の連帯による共同防共の達成)と、汎アジア主義によるもの(東洋文化の道徳仁義に基づく「東亜に於ける国際正義の確立」、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化を融合した「新文化の創造」)の両方を含む。ただし、東洋文化については日本文化をますます醇化発展させ、中国文化その他に新生命を吹き込んで更生再建させる所に「新文化の創造」の要諦があるとされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%96%B0%E7%A7%A9%E5%BA%8F
⇒東亜新秩序声明中の反共主義は、反ソ(露)主義と読み替えられなければなりませんし、新文化の創造は、工業化社会における人間主義文化創造という趣旨だと受け止めなければならない、というのが私の見解です。(太田)
ここでは、日本の戦争目的は「東亜新秩序の建設」にあるとし、これに賛同すれば国民政府も受け入れるとした。
それは、国民政府部内でも反共の立場から日本と妥協を求める勢力、特に重鎮であった汪兆銘一派との提携を促すねらいもあった。
また、この声明は日満支三国の提携や互助、経済結合も謳っていた。」(27~29)
(続く)