太田述正コラム#13170(2022.12.10)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その9)>(2023.3.7公開)
「英米は東亜新秩序声明に当然ながら厳しい反応を示し・・・た。・・・
アメリカは、<1939年>7月26日に日米通商航海条約<(注16)>の破棄(6ヵ月後に失効)を日本政府に通告した。
(注16)「日米通商航海条約とは、日本とアメリカ合衆国との条約で、以下の諸条約があ<った>。
1894年(明治27年)11月22日調印、1899年(明治32年)7月17日発効の通称「陸奥条約」。
1911年(明治44年)2月21日調印、同年4月4日発効の通称「小村条約」。・・・
陸奥条約<によって、>・・・英国に引き続き、米国>が日本に対し保有していた領事裁判権が撤廃された。ただし、この条約も、その第2条に「<米国>は日本人移民の入国・旅行・居住に対して差別的立法をなしうる」規定を有した。・・・
小村の条約改正のなかで列国中もっとも早く締結された通商航海条約で、日本は関税自主権を回復した。・・・
陸奥の改正した旧通商航海条約には日本人移民を<米国>政府が国内法で制約できる留保条項が設けられていたが、日本人移民は<米国>によるハワイ併合後の1900年以降さらに顕著に増加し、日本政府は移民に対する差別的法律が合衆国内で制定されるのを防ぐため、1907年(明治40年)および1908年(明治41年)に日米紳士協約を結び、自主的に移民を制限した。しかし問題は解決されなかったので、日本政府は日本人労働者の<米国>移住に関し過去3年間実施してきた移民の制限と取締りを今後も維持するため新しい通商航海条約を結び、関税自主権を完全回復することに成功した。<米国>は新条約批准にあたり、1907年のハワイにおける日本人移民の<米>本土への転航禁止令の有効性について日本側に確認を求め、日本は同意した。・・・
しかし、<米国>は1924年(大正13年)、ジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)により紳士協約を一方的に廃棄する。・・・
ジョンソン=リード法はヨーロッパ・アジアからの移民を厳しく制限、特にアジアについては移民を全面禁止する条項を設けて日系移民も排除されたため、日本では「排日移民法」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%80%9A%E5%95%86%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%9D%A1%E7%B4%84
⇒「注16」中に登場する「<米国との>1924年<の>排日移民法を頂点とする移民問題が太平洋戦争に直結しないものの,戦争勃発の多元的・重層的なメカニズムの一要因を構成している」(簑原俊洋)
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641199787
というか、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者達の中心メンバー達が、世論を軍縮/英米協調ムードを軍拡/アジア志向ムードに切り替えるのに大いに「貢献」したことを、注目すべきでしょう。(太田)
条約が失効すれば対日禁輸も可能になり、軍需物資をアメリカに依存する日本<(注17)>は戦時経済の維持に大きな不安を抱くようになる。・・・
(注17)「<当時、米国>はわが国の貿易相手国として輸入で第1位、輸出で第2位という重要な地位を占める国であった」
https://www.boj.or.jp/about/outline/history/hyakunen/data/hyaku4_2_4_1.pdf
1939年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。
当初、大きな戦闘はなかったが、日本の貿易に与えた影響は大きかった。
たとえば、1939年末にはイギリスはポンド<の>・・・ドルとの交換を停止する。<(注18)>
(注18)「第一次世界大戦後まもなく、<米>国内では保守主義が強まり、共和党が政権を獲得した。第一次世界大戦中に債務国から債権国に転換したにも拘らず、ほぼ1920年代にわたって共和党政権下で保護貿易政策が採られることになった。このことは、大戦によって<米国>に債務を負ったヨーロッパ諸国の負担をより深刻なものにさせた。
1929年、ニューヨークのウォール街における株式大暴落に端を発する大恐慌が起こった。この恐慌は各国へ広まり世界恐慌へと発展するが、当時のフーヴァー大統領(共和党)は、国際経済の安定より国内産業の保護を優先する姿勢をとった。こうした中で、[「<同>大統領が1930年6月、スムート=ホーリー法を制定し高関税による保護貿易主義に転じ、各国が対抗上保護貿易策をとって経済ブロックの形成に走った大きな転機となった。
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-026.html ]
一部の経済学者と歴史家はこの関税法が大恐慌の深刻さを拡大した、あるいはそれ自体を引き起こしたと主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%96%A2%E7%A8%8E%E6%B3%95
「スターリング地域</>・・・ポンド圏pound block・・・がもっとも明確な形となって現れたのは、1932年にオタワで締結された<英>連邦特恵制度によってであった。この協定にはイギリス連邦諸国が参加したが、ポンド圏には北欧諸国やアルゼンチンなど対英経済関係がとくに緊密な国々も含まれていた。第二次世界大戦が始まると、<英国>は米ドルを確保するために厳重な為替(かわせ)管理を実施し、カナダを除く<英>連邦を為替管理法上の指定地域として、地域内のドル資金をロンドンに集中したが、<英>連邦以外の諸国はポンド・リンクから脱落した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%9C%B0%E5%9F%9F-84029
⇒「注18」中に登場する米国の1930年のスムート=ホーリー法によって惹起された世界のブロック経済化が上述したところの、日本世論の軍拡/アジア志向ムードを過激化させ、杉山構想を概成させたばかりの杉山元らの背中を強く押したことも注目すべきでしょう。(太田)
そのため、イギリス圏向けに輸出して得たポンドをドルに換えてアメリカから輸入するという日本の決済構造が成り立たなくなる。」(29~31)
(続く)