太田述正コラム#13174(2022.12.12)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その11)>(2023.3.9公開)
「蘭印には、5月10日に駐日オランダ公使に対して、石油、ボーキサイト、ゴムなどの重要物資13品目について最低量の対日輸出の確約を求めた。
6月6日にオランダ亡命政府は輸出の保障を回答してきた(ただし石油については石油会社との契約が成立することを条件にしていた)。
さらに日本政府は、日本企業の進出制限の撤廃を求める交渉を始めた。<(注21)>・・・
(注21)第二次日蘭会商(1940 – 41)。「日中戦争の拡大、日米通商航海条約の破棄宣言(1939年7月26日、1940年1月26日失効)、ナチスドイツによるオランダ本国侵攻(1940年5月10日)などを受けて蘭印との経済関係の維持・確保に迫られた米内内閣は、5月11日に蘭印の現状維持を宣言するが、同月20日は蘭印に対して見返りとして重要物資13品目の輸出拡大を要請した。特に石油・ゴム・錫などの軍需物資の確保は日本にとって至上命令であった。
続く、第2次近衛内閣も前内閣の方針を継承して蘭印からの石油等の安定した物資供給の確約を得るべく、小林一三商工大臣をバタビアに派遣し1940年9月13日から交渉を開始した・・・。オランダ側は本土を占領されており、蘭印の統治は<英国>に設置された亡命政府がコントロールしていたが、会商団としてファン・モーク蘭印経済長官および現地石油会社役員・資本元のロイヤル・ダッチ・シェル・スタンダード・オイルからの代表が交渉にあたった。ところが、日本側は蘭印が大東亜共栄圏の一員であることを表明することやインドネシア人に自治権を付与することを期待する態度を示し、更に9月27日には日独伊三国同盟が締結されたことから、蘭印側の警戒感を一気に高めて日本を仮想敵視する動きを見せた。このため、10月22日に一旦小林商相を召還した。1941年1月15日には代表を元外務大臣の芳沢謙吉に代えて再交渉を開始するが、蘭印側は既にナチス・ドイツの同盟国である日本の侵攻を見越して<米英>に支援を求め、その一方で早すぎる決裂が日本側を早期開戦に踏み切らせないために強硬な態度を示しながらも決裂だけは回避したが、日本側の一方的な数値の引き上げが続いた。結果的には日本は、蘭印と石油200万トンの供給量で合意した。この量は、当初の希望量の2倍であった。
しかし1941年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した。現状の経済関係の維持と一部地域での石油採掘権の日本側への提供、再交渉の意思の相互確認のみを合意として、事実上の決裂のまま交渉は打ち切られた。だが、翌月の日本軍による南部仏印進駐をきっかけに蘭印側は日本との経済協定を破棄し、太平洋戦争開戦とともに日本軍の蘭印作戦を招くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%98%AD%E4%BC%9A%E5%95%86
基本国策要綱<が>・・・1940年7月26日に閣議決定<された>・・・後の8月1日、松岡洋右外相はこの要綱について説明する記者会見で、「当面の外交方針は大東亜共栄圏の確立を図ること」と述べ、その範囲を「広く蘭印、仏印等の南方諸地域を包含し、日満支三国はその一環である」とした。・・・
松岡が<ここで>大東亜共栄圏という言葉を用いたのは、翌日に予定されていたドイツのオット<(注22)>駐日大使との交渉で、この圏域を日本の勢力圏として認めさせるためだった。
(注22)Eugen Ott(1889~1977年)。「シュライヒャー<首相>が退陣してヒトラーが首相になっても、・・・陸軍少将<の>・・・オットは<ドイツ>国防省国防軍局長に留任した。しかしシュライヒャーの軍部内での勢力がなくなったことが明らかとなると、オットは1933年6月に日本軍の観察武官に左遷された。
翌1934年2月1日を以てオットは東京にあるドイツ大使館駐在武官に任命された。これと同時に、かつての上司シュライヒャーの身にナチスによる粛清の危険が迫っていると察し、日本を訪問して長期滞在するよう勧めた。「プロイセンの将軍は祖国から逃げたりはしないものだ」と断ったシュライヒャーはオットの危惧した通り、同年6月30日に「長いナイフの夜」で粛清された。オットも粛清リストに載っていたとされるが、日本に居たため難を逃れた。
当時ベルリン駐在武官の大島浩少将はナチスに心酔して日独同盟を主張しており、オットはそのドイツ側窓口として交渉を担当した。その結果1936年に日独防共協定が調印されるが、二重外交だったため、オットは日本の正式な指導者と交渉したことはついぞなかった。
駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクゼンが1938年3月に病気を理由に離職すると、日本との接近で外交成果の獲得を図るヨアヒム・フォン・リッベントロップ新外相の指名で、オットが後任の駐日大使となった。これはヴィルヘルム・カイテル元帥の推挙とされているものの、実際にはオットの能力を買ってというよりも、彼の交渉窓口である親独派の大島の格を高める目的のみの人事であったといわれる。すなわち、駐在武官であるオットを大使に昇格させることで、当時日本陸軍で構想されながら実現には至らなかった、ナチスに批判的な東郷茂徳駐独大使の更迭と、大島の大使昇格への動きを側面支援する目的があった。実際にこの8ヶ月後、大島は駐独大使に昇格した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88
松岡のねらいは、ヨーロッパでの戦争終結後に行われるであろう講和会議の開催前に、蘭印と仏印を日本の勢力圏に含めることをドイツに認めさせることにあった。
つまり、このときに用いられた大東亜共栄圏は、ドイツの勢力圏から東南アジアを除外させるために発案された実体のない外交スローガンだった・・・。」(32~33)
⇒安達は、大東亜共栄圏という言葉が使われたもう一つの、私見では、より本質的な文脈に触れていません。
「基本国策要綱<は、>・・・大東亜新秩序・・・の建設<を、>・・・国内の〈新体制〉確立とならぶ基本方針と<してい>た」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F-91667
ところ、この要綱の中で、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく、建国の意)の大精神に基」づくと<していた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87
ことです。(太田)
(続く)