太田述正コラム#13180(2022.12.15)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その14)>(2023.3.12公開)

 「南方作戦地域は従来各種の物資を相当に輸入し居(お)るところ、我方においてこれを占領したる場合、これらの輸入は杜絶すべく、従てその経済を円滑に維持するがためには我方において物資の供給をなすを要すべきも、我国はそのために充分の余力なきを以て、相当長期の間、現地一般民衆の生活を顧慮するの暇(いとま)ほとんど無し、従て現地の物資労力等を獲得するため、軍票その他通貨的性質のものを我方において発行するも、その価値維持は困難なりといわざるべからず〔中略〕通貨価値の下落等およびこれより来たる現地経済の混乱は一応これを度外視してあくまでも邁進すること必要なり。もっとも現地は住民の文化低く、かつ天産比較的豊富なるを以て、その民生の維持は支那等に比すれば容易なるものと認めらる。(『杉山メモ<(注26)>(上)』・・・)

 (注26)「1940年(昭和15)から44年にかけての参謀総長杉山元(はじめ)による筆記。内容は御前会議や大本営政府連絡会議の審議状況や上奏時のようすなどである。杉山自身が書いた現物は焼却されてしまったが、戦争指導班長が杉山の伝達を受けた際の筆記が残っており、これが『杉山メモ』(1967・原書房)として刊行された。『杉山メモ』の史料的価値は、天皇が太平洋戦争開始に向けて、主体的判断を下していったことを明らかにした点にある。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E3%83%A1%E3%83%A2-1551357

⇒杉山は、杉山メモで、自身の言動は消し去りつつ、自分以外のことは正確に記し(伝え)ているはずだ、という趣旨のことを何度か申し上げて来ています(コラム#省略)が、「注26」中の「天皇が太平洋戦争開始に向けて、主体的判断を下していったこと」については、例えば、1941年(昭和16年)1月の日・タイ軍事協定案についての杉山参謀総長と伏見宮博恭軍令部総長の上奏や南部仏印に対する作戦準備の上奏に関する記述から、「天皇<が、>南進政策の強化という基本方向には、はっきりとした同意を与えた上で、英米との関係を急速に悪化させ対米英戦争を誘発する可能性の強い軍部、特に陸軍の独走に対しては、強い警戒心を示した」こと
https://books.google.co.jp/books?id=K_9wlFbPVd0C&pg=PA80&lpg=PA80&dq=%E6%9D%89%E5%B1%B1%E3%83%A1%E3%83%A2&source=bl&ots=sYOPKgmAuM&sig=ACfU3U2aialY7GB2sMqq-UMtszcCzU4sPg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjJ34H97Pr7AhWmwosBHWhrC1g4UBDoAXoECCgQAw#v=onepage&q=%E6%9D%89%E5%B1%B1%E3%83%A1%E3%83%A2&f=false
が記されています。(太田)

 1941年1月に企画院が提出した「人口政策確立要綱」が閣議決定された。・・・
 <この>要綱が定めた目標や諸政策は、人口問題研究所調査部長だった中川友長<(注27)>の推計による。

 (注27)「中川友長は,東京帝国大学経済学部を卒業後,内閣統計局の統計官に着任するが,その後有澤広巳の検挙・休職に伴う後任として東京帝国大学経済学部の統計学担当教授となった。
 中川は,大学時代,土方成美に指導を受けたこともあり,家計調査,国富統計,国民所得統計などの作成に携わり,日本における草創期の経済統計の作成と体系化に尽力した点が顕著な業績とし
て評価されることが多いが,・・・<最新の>数理統計学<の輸入>に関する業績も看過することはできない」
http://www.jsest.jp/wp-content/uploads/taikai/2016/2016proceedings.pdf

 中川は、日中戦争開始以後の出生率をもとに日本の総人口は1965年頃に1億人を超えるが、2000年の約1億2274万人をピークとして減少に転じ、25年頃には少子高齢化が進行した状態としていた。<(注28)>

 (注28)「この見通しは、昭和初期の人口論争における高田保馬の警鐘を思い起こさせる。昭和初期の日本の論壇を席巻した人口論争において、かかわった論者のすべてが日本人口の急増の脅威を前提としてその原因と対策を論じようとした。これら支配的論調に対し、高田は全くの異端者であった。問題は人口増加ではない、と高田は断じた。真の問題は、欧米に始まりやがて我が国にも襲い来るであろう出生減退の危機である、と喝破したのである。中川の推計は、意図は別として、その十数年前の高田の警鐘を将来人口推計という形で具体化するものでもあった。」
https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/BD00012414_001_cover._?key=HRPSVD

 現在を予見するものである。
 いずれにせよ、要綱が定めた政策は、中川の推計を踏まえ、人口減少に向かう傾向に歯止めをかけて、人口増加を目論むものだった・・・。」(55)

⇒私は、杉山らの生めや増やせやの人口政策が杉山構想ほぼ完遂のための戦争が終わってから後の相当先の日本のことを見据えて取られたものである、との認識であった(コラム#省略)ところ、それが、はるか先の21世紀の日本を見据えたものであったとは驚きです。
 いずれにせよ、杉山らは、この戦争によって、百万人を優に超えるであろう、生産年齢の男性を中心とする日本人が従軍や空襲によって死亡すると見ていて、この人口減を戦後急速に回復するためにも、対英米戦開始より前から生めや増やせや政策を取る必要があると考えていたのでしょうが・・。(太田)

(続く)
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