太田述正コラム#13182(2022.12.16)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その15)>(2023.3.13公開)

 「・・・商工省は、企画院の日満支への工業分散という考えに否定的であり、産業建設で国内を重視し、等政界への指導権の確立を図ろうとしていた。・・・

⇒どうして、そのような対立が生じたのかを安達は説明してくれていませんが、彼が、「企画院や陸軍の考え」(61)のように、陸軍の方針≒企画院の方針、と見ているようであることからすると、当時の陸軍=杉山元ら、ですから、杉山らの秀吉流日蓮主義/アジア主義的な考え方が企画院の方針にはストレートに反映されていたのに対し、商工省は陸軍に対してより独立していた、ということかもしれません。

 <また、>占領直後の占領地の帰属をめぐって南方軍と大本営・現地軍は対立する。
 南方軍が、独立に慎重で軍政施行を強く推進したのは、石井秋穂<(注29)>大佐の存在である。・・・

 (注29)あきほ(1900~1996年)。幼年学校、陸士34期(秩父宮除き4位)、陸大34期「山口県<出身。>・・・中佐に進級<後、1939>年8月、陸軍省軍務局軍務課員に就任した。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前には、日米交渉の陸軍省側主務者として、武藤章軍務局長の下、早期開戦を唱える統帥部側の横槍を排しつつ交渉妥結に尽力した。
 1941年(昭和16年)10月、陸軍大佐に昇進。翌月、南方軍参謀に発令され、同月27日に日本を出発。皮肉にもその日は、ワシントンでいわゆるハル・ノートが手交された日でもあった。その後、病気のため帰国、1943年(昭和18年)1月に陸大附となり1945年(昭和20年)8月まで入院、陸大教官への補職で第二次世界大戦終戦を迎える。同年12月、予備役編入。
 戦後は故郷の山口県で晴耕雨読の静かな生活を貫いた。石井の残した日記や回想録、証言は、開戦当時の国策決定の内側を知る上で貴重な記録となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E7%A7%8B%E7%A9%82

 石井は、開戦後の1942年1月にフィリピンに赴き、この後、軍政実施を定めた「比島政施行要領」<を>発し・・・た。
 さらに、石井は1942年4月にビルマに行き、第15軍の飯田司令官と面談、5月には佐藤裕雄(ひろお)参謀を派遣して状況を把握し、南方軍総司令部としては独立を尚早として軍政実施を決定する。
 石井はビルマでの軍政機構案を策定して、寺内寿一南方軍総司令官の決済を得て第15軍に示達した。
 その結果、BIAはビルマ防衛軍に改編されて日本軍の管轄下に置かれ、独立運動を支援していた南機関は解散させられ、鈴木大佐も更迭された。
 石井の考えを基本とした南方軍の方針によって、フィリピン、ビルマの即時独立は消え、日本軍司令官の下で軍政に協力する現地行政府が設置された。
 日米開戦前の国策の検討過程をつぶさに見て来た石井にすれば、日本の戦時経済の維持には、東南アジアの重要国防資源を確実に獲得し、内地に送ることこそが最優先にすべきことだった。
 また、石井は中国で中華民国維新政府や中華民国臨時政府などの傀儡政権を「内面指導」する現場にいた経験から、形式的な独立を与えても、結局、日本軍が干渉して民心獲得はできないと考えていた。
 そうであれば、効率的に南方全域の経済統制を行うためには日本軍政下、全域を掌握しておくことが重要と考えた。
 石井の考えは、東南アジアの初期占領方針である南方占領地行政実施要領に凝縮されている。
 南方軍はこの要領に記された方針を、最も厳格に実施しようとした。
 それは、・・・英米との戦争でイデオロギーとして唱えられる「東亜の解放」といったスローガンを抑制することにもつながった。」(64、85~86)

⇒石井秋穂「「自存自衛」と「大東亜共栄圏」という戦争目的は両立しないと<の>・・・批判」を行ったよう
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20211209/1638975600
であるところ、石井にはもちろんだが、彼が軍務課高級課員だった時の上司の武藤章、や、南方軍参謀だった時の上司の寺内寿一にさえ、杉山構想の全貌は教えられていなかったと私は見ている(武藤章についてはコラム#13020)わけで、石井は「自存自衛」を「先の大戦遂行」へと矮小化してしまっているために、それが「大東亜共栄圏」とは両立不可能、と判断し、寺内南方軍総司令官の下、独立ないし独立準備よりも戦争遂行資源の確保を優先させたのでしょう。
 (杉山らにとっては、自存自衛=対露(ソ)抑止+経済ブロック打破・・大西洋憲章を米英に実行させること・・と私は見ており、石井の「自存自衛」は余りにも矮小です。)
 もっとも、私に言わせれば、寺内も石井も、おかしいのであって、日本が軍事的には必敗というくらいの認識は抱いていたとすれば、どうせ負けるのならそれまでに何をすべきか、を考えるべきだったのです。
 南方軍隷下で、批判をものともせずに蘭印を慰撫的に占領統治した今村均第16軍司令官・・やはり杉山構想が開示されていなかったと見る・・、が行ったような軍政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87
を行うべきだったということです。
 そもそも、その方が、蘭印でそうなったように、「大戦遂行」にも効果的であった(注30)可能性が大なのですから・・。(太田)

 (注30)「戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告し、ジャワの軍政を賞賛した。」(上掲)

(続く)