太田述正コラム#2077(2007.9.21)
<退行する米国(続x5)(その1)>(2007.10.23公開)
1 始めに
キリスト教原理主義であるブッシュに対するBoston Globe誌のコラムニストであるキャロル(James Carroll)による批判を、適宜私の言葉を交えつつご紹介しましょう。
(以下、特に断っていない限り
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/II21Ak02.html
(9月21日アクセス)による。)
2 キャロルのブッシュ批判
米国の起源は世俗的なバージニア植民地と宗教的なマサチューセッツ植民地の二つ(コラム#1763)だが、後者の影響の方が大きい。
マサチューセッツ植民地を創ったピューリタン達は、米国は神に愛でられた特別な存在であると思っていた。いわゆる米国例外主義(American exceptionalism)というやつだ。
そのマサチューセッツ植民地には、コットン(John Cotton)やその同僚ウィンスロップ(John Winthrop)の宗政国家・・自分達流のキリスト教を住民に、そしてインディアン等に押しつけることを当然視する・・の考え方とウィリアムス(Roger Williams)の政教分離の考え方とがあった(コラム#485)。
ウィリアムスの考えは、180年後にジェファーソン(Thomas Jefferson)によって米国憲法に謳われることになる。
いずれにせよ、米国例外主義的な物の考え方は、米国人の間で脈々と受け継がれて行った。
リンカーン(Abraham Lincoln)大統領が米国を「人類の最後の望み」と形容したことや、米国による北米大陸の征服が、自由の民による自由の普及であって道義にかなったこととして正当化されたのがその現れだ。いわゆるマニフェスト・デスティニー(manifest destiny)だ。
自由(ないし民主主義)という言葉は、大方の米国人にとってはキリスト教による救済と同義なのだ。だから、自由(ないし民主主義)の普及、すなわちキリスト教の異教徒への普及は、大方の米国人にとって使命なのだ。
米国の保守派とリベラルの違いは、前者が自由(freedom)という言葉を使うのに対し、後者は人権(human rights)という言葉を使うことくらいだ。
だからソ連との冷戦もキリスト教対無神論の宗教戦争であると受け止められた。
アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)政権のダレス(John Foster Dulles)国務長官は、まるで説教のような講演をしたものだが、「共産主義」のことを必ず「無神論の共産主義」と言ったことで知られている。アイゼンハワー自身、物見の塔の棄教者であったところ、1953年に大統領就任12日目に長老派(Presbyterian)教会の洗礼を受け、1954年には大統領宣誓に「神の下で」という文言を加えることとし、更に「神を信じるものなり(In God We Trust)」という文言を1956年に米国家標語(motto)として採用し、1957年にはこの文言を米国紙幣に印字させた(
http://en.wikipedia.org/wiki/Dwight_D._Eisenhower
(9月21日アクセス)も参照)。
さて、20世紀初頭に原理主義(fundamentalism)という言葉が生まれる。
これは、聖書の文字通り受け止めるプロテスタントの宗派を指した言葉だった。
このキリスト教原理主義は、啓蒙主義と科学の否定の上に成り立っていた。
考えてもみよ。
イスラエルはユダヤ教徒の国だと思われているが、自称ユダヤ教徒が占める比率は75%に過ぎない。ところが、米国では自称キリスト教徒が占める比率が80%に達しているのだ。
キリスト教原理主義に冒されている者はその一部だとはいえ、米国はイスラエルがユダヤ教国であるという以上にキリスト教国なのだ。
現ブッシュ大統領は、このキリスト教国米国において、本来出自が異なるところの、米国例外主義とキリスト教原理主義を結びつけたのだ。
ブッシュの下で共和党は、米国憲法の政教分離原則に反し、積極的にキリスト教原理主義諸派と提携し、これら諸派の政治力を活用するようになった。
その結果として共和党の政治家達は、世界を善悪二元論的な色眼鏡で見るようになってしまった。
また、国防省内では、組織の上下関係を通じたキリスト教宣教活動が黙認されるようになった。
上官が祈祷会を兼ねた朝食に部下がやってくることを促し、やってこないと人事考課でx点をつける、といったことはザラだ。
ブッシュの側近の2人(Ted HaggardとJames Dobson)が画策して空軍士官学校をキリスト教原理主義で染め上げようとしたことも分かっている。
メル・ギブソン(Mel Gibson)の映画、キリストの受難(The Passion of the Christ)を同校内で上映し、学生全員に鑑賞することを強制したのはその一環だ。これが問題になり、結局校長は辞任し、空軍は遺憾の意を表した。
しかし、それで終わった訳ではない。
私が空軍の従軍牧師長(chief chaplain)にインタビューしたところ、彼は、自分には二つの任務があり、それは米国憲法の遵守とキリスト教の福音の説教であり、この二つは密接不可分の関係にあると語ったこと一つとってもそうだ。
私は空軍士官学校卒であり空軍にも在籍したが、その当時、こんなことを言う従軍牧師は一人もいなかったし、そもそも、キリスト教の福音の説教を行う任務があると思っている従軍牧師などいなかったのだ。むしろ、礼拝堂の外に出たら、そんなことは絶対兵士に対して行ってはならないと思っている従軍牧師ばかりだったというのに・・。
(続く)
退行する米国(続x5)(その1)
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