太田述正コラム#13196(2022.12.23)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その20)>(2023.3.20公開)
しかし、辻は、「二・二六事件後の1936年(昭和11年)4月に、・・・関東軍参謀部付とな<り、>兵站を担当する第三課に配属され、満州事変の経過や戦術を詳細に解析している。満州国協和会の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で戦争指導課長を務めていた石原莞爾と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1 前掲
という挿話から、辻と石原との間に(一方的?)ケミストリーが生じていたようであり、しかも、彼が導師
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8E%E5%B8%AB-103603
なる仏教用語を石原の敬称に用いたこと、も、辻が日蓮宗信徒であった蓋然性を高めるものだと思うのです。
なお、杉山らは、石原は途中で斬り捨てたけれど、辻は最後まで使い続けたわけであり、その差をもたらしたものは、両者の杉山構想的なものへの、共感度ないし感受性、の違いだったのではないでしょうか。
その上で、どうして、「1次的実質的責任は起案者たる朝枝」繁春にあると私が考えるかですが、華僑粛清は、第25軍の作戦(軍令)マターではなく軍政マター・・しかも、25軍が統制できるが隷下にはないところの、憲兵、が実施する軍政マター・・なのであって、軍政マターに関しては、山下司令官から「華僑粛清」について起案せよと命じられ、迅速な成案化と実行が求められた以上は、担当者として指名された浅枝の裁量に基づく具体的な起案内容が、直系上司である、辻参謀、高級参謀2名中の1名、参謀副長、参謀長、及び山下司令官、のめくら判が押され、そのまま25軍の決定事項になったとしても不思議ではありません。(私の役人時代の経験による。)
(これが、作戦(軍令)マターであれば、たとえ、迅速な成案化と実行が求められた場合であっても余程特殊な作戦でない限りは、全参謀の判子を取りつける必要があったことでしょう。)
しかも、この浅枝、陸士時代の操行が赤点だった上、戦後、ソ連のスパイを務めた人物ですからね。
山下奉文(注36)司令官は、終戦後、別件でとはいえ、死刑に処されているのに、朝枝が何の咎めも受けることなく天寿を全うしたのは、甚だ遺憾なことです。(太田)
(注36)「1938年(昭和13年)7月15日に 北支那方面軍参謀長を拝命した<山下は、>・・・横行していた日本軍兵士による略奪や強姦に厳しく対処して、違反した者は銃殺するとの布告を出した。一方で、抵抗する中国人に対しては治安維持の観点から厳しく対処しており、1939年(昭和14年)4月には「治安粛清要綱」を作成している。この要綱によれば、抗日ゲリラとみなされた者は裁判などの手続きを経ることなく、「現地処分」や「厳重処分」などと称して殺害することとなっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87
「八月十四日夜、ポツダム宣言受諾を知った山下司令部では、参謀たちが、虜囚の辱(はずかしめ)をうけず、また敗戦の責任を負って軍司令官は自決すべきかどうかで、議が闘わされた。
しかし山下は淡々として言った。
「私はルソンで敵味方や民衆を問わず多くの人びとを殺している。この罪の償いをしなくてはならんだろう。祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、私がひとり先にいっては、責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。だから私は生きて責任を背負うつもりである。そして一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい。そして祖国再建のために大いに働いてもらいたい」
山下はその言葉どおり、ルソン作戦中にたびたびあった住民虐殺の責任を負い、マニラのアメリカ軍戦犯法廷で絞首刑を宣告される。」
https://books.bunshun.jp/articles/-/7346
「その後、日本軍はマレー半島の各地でも同様に「粛清」を行い、抗日ゲリラに通じていると嫌疑をかけた村や集落などで多くの華僑を虐殺した・・・。」(94)
⇒これについては、まさに必要悪というやつであり、ゲリラ(不規則部隊)との戦いにおいては多かれ少なかれあらゆる国の軍隊が行ったのに対し、マレー半島の「都市では、このような皆殺しはできないので、家宅捜索をおこなって「敵性容疑者」を選別し、検挙・虐殺をし・・・た」
http://hayashihirofumi.g1.xrea.com/paper21.htm
というのですから、シンガポールでのケースと同じです。
「シンガポールでの粛清をやりながら、第二十五軍は二月の末に再びマレー半島側に戻ってい<く>。久留米で編成された第十八師団がジョホール州を担当し、広島城のなかに司令部があった第五師団がジョホール州以外のマレー半島全域に分散<する>。そして第二十五軍の山下奉文司令官の命令にもとづいて、一九四二年三月のほぼ一ヶ月間、マレー半島各地で華僑粛清作戦がおこなわれ・・・た」(上掲)というのですから、マレー半島の都市でシンガポールと同様のことが行なわれたのは当たり前ですが、こちらの方は余り問題にされていませんね。(太田)
(続く)