太田述正コラム#1758(2007.5.6)
<米国とは何か(続々)(その3)>(2007.11.8公開)
共和制ローマも米国も、その歴史は膨張の歴史であったと言っても過言ではありません。
ローマは共和制時代に、エジプトとイギリスこそまだ領土化していませんでしたが、ほぼ帝政の絶頂期に匹敵する領土をもつ超大国になりますし、米国は太平洋と大西洋という両洋に面した大大陸国家へと変貌を遂げます。
そのプロセスはいかなるものであったのでしょうか。
まず、ローマから始めましょう。
共和制ローマは、貴族階級(patrician)と平民階級(plebeian)の対立を克服しつつ共和制の諸制度を整備するために成立後約100年を要しましたが、その頃になって、エトルリア系の王を追放した際に、エトルリア人に奪われた旧ローマ領を奪い返そうという気運が高まります。
それに成功すると、再びこの領土を奪い返されないためには、エトルリア人の最大の拠点を攻略すべきであるということになり、ウエイ(Veii )というローマ北方の都市の攻略を行い、それにも成功します(BC405~396年)(注7)。
(以上、
http://www.forumromanum.org/history/morey09.html
(5月5日アクセス。以下同じ)による。)
(注7)塩野前掲書は、ローマがエトルリア人領を浸食した理由に触れていない(57~58頁)
こうして北方を固めたローマは、今度は南方に向かいます。
南方にいたのはサムニウム(Samnium)人でした。
攻略のきっかけは、分派ができてサムニウム人が仲違いを始めたことです。
ローマは、サムニウム人達との間で不可侵条約を結んでいましたが、そんな条約は無視して分派への梃子入れを始め、戦争が起こります(注8)。
(注8)塩野前掲書は、やはり、ローマのサムニウム攻略の理由に触れていない(151頁)。
結局、サムニウム人との一回目の戦い(BC343~341年)は失敗に終わります。
(以上、
http://www.forumromanum.org/history/morey10.html
による。)
サムニウム人との二回目の戦い(BC326~304年)は、サムニウム人地域に入植したローマ市民とサムニウム人とのいざこざが発端となりました(注9)。今回はローマはサムニウム人を屈服させることに成功します。
(注9)塩野前掲書は、ローマのある同盟市のサムニウム人勢力への寝返りがきっかけになったとしている(159~160頁)が、勘違いがあるのではないか。私が拠ったこの一連の典拠は、ハーバード大学系の十分信頼できるサイトのものである(
http://www.forumromanum.org/about.html
。5月6日アクセス)ことを付言しておく。
その後、サムニウム人は、北方のエトルリア人やケルト人と連携して、ローマに最後の抵抗を試みます(BC298~290年)が、ローマは勝利し、イタリア半島中部はローマが制するところとなるのです。
(以上、
http://www.forumromanum.org/history/morey11.html
(5月5日アクセス。以下同じ)による。)
次いでローマはイタリア半島南部を目指します。
イタリア半島南部とそのむこうのシチリア島には、ギリシャの植民市がたくさんありました。
ここでも、ローマのつけ目はギリシャ植民市の間の内紛でした。
ローマに助けを求める都市の呼びかけに答え、ローマは半島南部にいくつか軍事駐屯地を築きます。
ギリシャ植民市のうち最大のターラント(Tarentum)は、ローマの脅威をひしひしと感じていたところ、ターラント港にローマ軍船5隻が闖入し、これはローマ軍船のターラント入港を禁ずるターラント・ローマ間の条約違反だとして、ターラントによって、これら軍船が攻撃され、乗員は全員殺害されるか奴隷に売られてしまう、という事件が起きます。
そこで、ローマとターラントは戦うことになるのですが、ターラントの助っ人として、ギリシャのエピロス(Epirus)の王ピュロス(Pyrrhus)がイタリアにやってきてローマと戦う(BC285~280)のです。
苦戦しながらも、最終的にこの戦いに勝ったローマは、やがてローマ半島南部を完全に手中に収めます。
(以上、
http://www.forumromanum.org/history/morey12.html
による。)
この後は、ポエニ戦争の勝利によるシチリア島やスペインや北アフリカの獲得、そして、ガリア等北方、或いはシリアやマケドニア等東方の攻略、そしてついには帝政の成立、とあいなるわけです。
以上だけからも、共和制ローマは、「本来の」ローマ領の回復をめざす、相手の内紛に介入する、相手の地域にいる自分の市民を「保護」する、軍事的挑発を行って相手に戦いの火ぶたを切らせる、といった手口で次々に戦争を始め、領土を拡大して行ったことがお分かりいただけると思います。
この共和制ローマとほぼそっくりの手口を使って領土を拡大して行ったのが米国です。
(続く)
米国とは何か(続々)(その3)
- 公開日:
「たかじん~」で拝見して以来非常に興味深く拝見させていただいております。
共和制ローマとアメリカの膨張の歴史、非常に面白いです。しかしアメリカは歴史から学ばなければその先にあるものは結局破滅なんだろうな、歴史は繰り返すのか、と思ったりします。
ところで話が変わるのですが
山田洋行元専務、宮崎氏が逮捕されましたね。
しかしニュースではやはり裏金、不正支出などが逮捕理由になっていますが天下り問題などもっと深い本質的な問題はこれから明らかになるのでしょうか?検察はどこまで突っ込んでくれるのでしょうか?
マスコミもそれに触れる気配はないようです。
小沢氏の(意図的な?)政治混乱のせいで
守屋氏の再度喚問もあるのかどうか怪しい状況です。
そこらへん明らかにしない限り何も変わらないと思います。
失礼しました。
これからも応援してます。
イラクに出征している兵の多くが,昨日今日アメリカに来た人々ですね。
果てはイラクから来たばかりで,イラクに送り込まれている人もいますね。
市民権取得のために。
軍役を努めることで市民権を与えるという点で,ローマと共通していますね。
しかし社会の支配層が軍人であったローマと,法人経営者であるアメリカとでは,当然その行動に違いが出てきますね。
ただ常に軍事的なニューフロンティアを必要とし,立ち止まることが許されない構造を持っていることは,確かな事実です。あの軍事国家に敵として名指しされることの恐ろしさは,先の戦いでこの国の人々には,深く浸透していると思います。
重要な拠点となる国家で独立を策すだけでも,反乱と見なされる可能性は十分にあるでしょう。
太田さんのように。
十分な情報分析が必要です。
生き残るためには。
私は日本はアメリカにとって安全保障上地理的(極東防衛)にも各種防衛上(資金力技術力)も決して欠くことが出来ない存在にもともとあると思うのですが?どうも其れを日本人は普段忘れているのかどうなのか?すぐにアメリカに捨てられたらどうするの?って思想に振り回されているように思うのですが?
そこのところどうなんでしょうか?
日本がアメリカとも世界とも対等に話が出来るようにするのは簡単ですよね。
核兵器を20個も独自で所持すればすぐ済むのに?
日本の技術ならば1年もすれば簡単なはずです。
実際には無駄な専守防衛の為に5兆円もの防衛費を使うくらいならば、半分にして残りで核兵器の開発所持、ミサイルの開発にまわしたほうが本当に日本国民の為になると思います。
核に対するアレルギーは実際には戦後生まれがこんなに増えたらもはやそれほど大きくは無くなっています。
ご意見伺いたく思います。