太田述正コラム#13200(2022.12.25)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その22)>(2023.3.22公開)
「・・・東南アジアで陸海軍が占領下油田の採油井約4800坑のうち、半数以上の約2700杭が破壊されていたが、ほとんどが修復可能だった。
1943年3月の段階では73.4%が、敗戦までには80.6%が復旧した。・・・
戦前の見通しでは、おおむね開戦1年目に30万キロリットル、2年目に200万キロリットル、3年目以降に450万キロリットルの内地への輸送を想定していた。
実際には、・・・製品も含めて1年目には155.3万キロリットル、2年目も274.1万キロリットルと、当初の2年間は計画より多くの量を内地に輸送していた・・・。
これは、油田・港湾設備の速やかな復旧だけでなく、内地への輸送タンカーの損失が少なかったためでもある・・・。
日本は英米との開戦前の1940(昭和15)年3月、・・・汪兆銘をトップとする新たな国民政府、いわゆる汪兆銘政権<(注38)>を南京に樹立した。
(注38)「汪兆銘政権を「傀儡政権」とみなす考え方は、・・・従来長きにわたって疑問視されることもなかったが、汪兆銘らは最初から「傀儡」ないし「漢奸」になるつもりだったのではなく、もし当初からそのつもりならば、日本との不平等条約解消を実現することもなかったであろうという指摘がある。これはむしろ、第二次世界大戦における日本の敗北という結果を前提にしたうえで、結果から遡及して日本への「抵抗」を善、「協力」を悪とする二項対立の図式によって歴史を描こうとするものだったのではないかという問題提起もなされている。近年では、カナダの歴史学者ティモシー・ブルックによる、汪政権下の地方エリートを主対象とした研究のように、そうした二項対立から距離を置いて、抵抗と協力の間の曖昧な部分に光を当てて当時の歴史の実相に迫ろうとする研究が現れるようになった。
明治大学の土屋光芳は、汪兆銘政権とほぼ同時期に「対独協力」を行い、戦後、その指導者たちも戦犯裁判で裁かれたフランスのヴィシー政権との比較を試みている。それによれば、ヴィシー政権は、当初、汪兆銘政権よりもいっそう敵国ドイツのイデオロギーに対する親和性や一体感が強く、大戦勃発前のフランス第三共和政の政治理念を否定する「国民革命」を掲げており、そこでは「労働、家族、祖国」のスローガンを唱えているが、政権後期に至ると「対独協力」が強化され、ナチス・ドイツへの従属の度合いをむしろ強めていった。それに対し、汪兆銘政権はヴィシー政権よりも日本からイデオロギー的に自立していたのみならず、対米英戦争に参戦したのちは「対日協力」を強めると同時に政権の自立性を維持・強化していき、不平等条約撤廃の実現という成果を挙げている。その意味では、両政権にはその特徴と成果においてきわだった違いがみられるのである。こうした違いが、なぜ生じたかについては土屋による詳細な研究があり、それによれば、上述した大亞州主義、東亜連盟運動、新国民運動といった汪政権の基盤強化の戦略が一定の効果を挙げたものと分析されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9
Timothy James Brook(1951年~)。「トロント生まれ。1973年、トロント大学卒業。1984年、ハーバード大学で博士号取得。アルバータ大学講師、トロント大学助教授・教授、スタンフォード大学教授、オックスフォード大学教授を経て、2004年から・・・ブリティッシュコロンビア大学教授。専門は、明朝の社会文化史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF
土屋光芳(1952年~)。「1974年、名古屋大学法学部卒業。1987年、明治大学大学院政治経済学研究科博士後期課程単位修得。2001年、論文博士(明治大学、政治学)。現在、明治大学政治経済学部教授(専攻、政治過程論)」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E5%85%89%E8%8A%B3_200000000566420/biography/
11月30日には日華基本条約を締結し、汪兆銘政権を中国の正式な政府とし、不平等条約を破棄する一方、治安維持を名目に華北および蒙疆への日本軍駐留を認めさせた。
また附属議定書で、中国領内での日本軍の戦争遂行の許可や資源開発への便宜を供与させた。
これは実質的に、日本軍が駐留し各分野で日本人が支配するものであった。
当時、経済が悪化するなか、汪兆銘政権への中国民衆の支持は低く、政治的な基盤は脆弱だった。」(108~109、118~119)
⇒安達は、「当時・・・脆弱だった」の典拠を示していません。
いずれにせよ、安達の、土屋はもとより、ブルックのような研究成果すら踏まえていない論述は手抜きではないでしょうか。(太田)
(続く)