太田述正コラム#1767(2007.5.13)
<米国とは何か(続々)(特別編3)(その1)>(2007.11.13公開)
1 始めに
ローマの歴史は、伝説的にはBC753年に始まりますが、そこから数えれば、西ローマ帝国が滅びる476年まで12世紀余り続いたことになり、また、共和制ローマ成立のBC509年から数えても、10世紀近く続いたことになるわけであり、そのローマと1607年のジェームスタウン植民から数えて4世紀、1776年の建国から数えれば2世紀ちょっとの歴史しかない米国とを比較するなんておこがましい、という批判は覚悟で、私はこのシリーズで共和制ローマと米国とを比較してきたわけですが、このたび、ローマと現在の米国とを比較した、元雑誌The Atlanticの、そして現在は雑誌Vanity Fairの編集者であるマーフィー(Cullen Murphy)の’ARE WE ROME? --The Fall of an Empire and the Fate of America, Houghton Mifflin Company’が上梓されたので、その概要をご紹介し、私のコメントをつけることにしました。
(以下、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/05/13/books/review/Isaacson-t.html?ref=review&pagewanted=print、
http://www.theatlantic.com/a/transatl.mhtml、
http://www.newsday.com/features/booksmags/ny-f5196324may06,0,3024079,print.story?coll=ny-bookreview-headlines、
http://www.usnews.com/usnews/news/articles/070429/7qa_print.htm
(いずれも5月13日アクセス。以下同じ)による。)
2 マーフィーの主張
(1)ローマと米国の類似性
ア 自己例外視
共和制ローマの末期に生きたローマの政治家にして哲学者であったキケロ(Marcus Tullius Cicero。BC106~BC43年)は、「数ではスペイン人に劣り、体力ではガリア人に劣り、知力ではカルタゴ人に劣り、文化ではギリシャ人に劣り、抜け目ない常識では土着のラテン人やイタリア人に劣るのが自分達ローマ人であるが、ローマはこれらの人々を全て征服し巨大な帝国をつくった。それは、敬虔さ、宗教や全能の神々を尊敬する点でローマ人は他に抜きん出ていたからだ。」と述べた(注1)。
(注1)塩野七生は、少なくない史料が示すように、と断りつつ、キケロに言及することなく、「知力ではギリシャ人に劣り、体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣るのが自分達ローマ人である・・」と記している(塩野『ローマは一日にして成らず(上)』(新潮文庫20頁)。やはり、塩野のローマ人の物語シリーズは、歴史小説として読むべきなのだろう。(太田)
このような、自己例外視は米国にも見られる。
歴代の米大統領達は、プリマスに植民したウィンスロップ(John Winthrop)が、プリマスを「丘の上の都市にしよう」と述べた(コラム#372)ことを引き継いで、キケロの上述のような言葉で米国のことを形容してきたものだ。
イ 強大な軍事力と経済力と文化力
ローマも米国も、強大な軍事力と経済力を持つ。
ただし、貧富の差はどちらも甚だしい。
どちらの言語も、国境を超えて使われた。
どちらも他文化を貪欲に吸収する。ローマは宗教等を、米国は料理等を。
どちらも軍事力を実際に行使することなく、軍事力を背景に目的を達成することに長けている。
また、言語・文化・ノウハウ・贅沢品といったソフトパワーを駆使することにも長けている。
ウ ノーブレスオブリージュとその漸減
キンキナートゥス(Lucius Quinctius Cincinnatus。BC519~?年)は、BC460年にローマが外から脅威が迫り、独裁官就任を求められた時、就任後16日目にこの脅威を打ち破り、ただちに独裁官を辞任して農耕生活に戻った。BC439年に平民達の叛乱が起きて再び独裁官に就任した時も、同様だった。
ワシントン(George Washington。1732~99年)はキンキナートゥスの心酔者であったところ、米独立革命の時の植民地叛乱軍の司令官であった彼は、1783年に勝利が確定すると、ただちに辞任して農耕生活に戻り、またその後、米国の初代大統領に就任した時も、任期が終わると直ちに農耕生活に戻った。
(以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Cincinnatus
で補足した。なお、米オハイオ州シンシナティ市は、キンキナートゥスの複数形を英語読みしたものだ。塩野前掲書でもキンキナートゥスに言及はされている(於40頁)。(太田))
しかし、そのローマも、帝政時代ともなると、プリニウス(Gaius Plinius Caecilius Secundus=Pliny the Younger。63~113?年)のようなフィクサーやおべっか使いや役人的人物ばかりになってしまった(注2)。
(注2)米軍事戦略家のルトワク(Edward Luttwak)は、帝政ローマの後期になると、ローマ人は、軍団による前方防衛をあきらめ、国境を蛮族が侵すにまかせたため、都市は城壁で囲まれるようになり、軍事費が重くのしかかるようになったし、教育程度の高い上流階級を含むところの市民兵の理念も廃れ、軍団は雇用され、あるいは強制的に徴用された下流階級と移民によって構成されるようになったとしている(NYタイムス上掲)。(太田)
米国もそうなってしまったのではないか。
1956年に米プリンストン大学を卒業した750人はそのうち450人が軍務を経験したが、2004年の卒業生では1,100人中8人に過ぎない。
しかも、軍の機能はどんどん民間会社に下請けに出されてきている。
その上、現在のイラクでは、米国の行政官も軍人も民間会社員もほとんど現地住民のことを知らないで勤務している、ときている(注3)。
(注3)ローマ人はギリシャ人と比較して外国のことに関心を持たなかった。そのため、AD9年にヴァルス(Publius Quinctilius Varus。BC46~AD9年)が率いた三つの軍団がアルミニウス(Arminius)を頭目とするゲルマン人部隊によって、現在のドイツのオスナブルックの東で不意打ちを食らって全滅させられるというようなことが起きた。米国人一般も外国のことに関心がないし知識もない。エリートの間でさえ、この傾向が強まっている。アラビア語ができる者は少ないし、外国に送る特派員の数も減り続けている。
そして、ワシントンでは、アブラモフ(Jack Abramoff)のような、プリニウスでさえ真っ青になるような悪質なロビイストが暗躍している。
(続く)
米国とは何か(続々)(特別編3)(その1)
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