太田述正コラム#13202(2022.12.26)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その23)>(2023.3.23公開)
「・・・1942年12月21日、御前会議では新たな対中国政策を決定する。
「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」・・・である。・・・
それは汪兆銘政権の政治力強化をねらったものだった。
<同>方針では「自発的活動」を促進させる、治外法権や租界を撤廃、経済で日本の独占を避け、<支那>の官民の責任と創意に任せるなどを列挙し、政治経済のあらゆる分野を汪兆銘政権に委ねようとした。・・・
1943年1月9日、汪兆銘政権は英米に宣戦布告し、日本とともに戦争を遂行するという「日華共同宣言」<(注39)>を発表した。
(注39)「南京政府の政治力強化と抗日の重慶政府覆滅を目指した「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」・・・を実施したものであり,両国が<米英>に対する共同の戦争を完遂するために,軍事,政治,経済上完全に協力することを宣言している。同時に「租界還付および治外法権撤廃等に関する日華協定」が調印された。同日,汪政権は<米英>両国に宣戦を布告した。これに対して<米英>両国は蒋政権との間に新条約を締結,在華特権を放棄して対処した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E8%8F%AF%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80-109778
同時に、日本の専管租界の返還、治外法権撤廃について話し合う協定が結ばれた。・・・
重光葵駐華大使・・・の主張<したこの方針の策定>・・・が政府・軍中央に受け入れられた要因は二つある。
第一は、1942年後半からの戦局悪化である。・・・
第二は、1942年10月に英米が蒋介石国民政府に対して、中国内の治外法権撤廃の声明を出したことである。
戦争終結後の治外法権撤廃をすでに英米は表明していたが、連合国内の世論や蒋介石国民政府の強い希望によって発表された。」(119~122)
⇒汪兆銘政権が、日本の対米英戦開始と同時に、自分達の参戦を希望し、爾後も、機会あるたびにこの希望を表明するも日本側が言を左右にし続けた経緯がある
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiqqrjy6Zb8AhW3t1YBHVUhAS8QFnoECAUQAQ&url=https%3A%2F%2Faichiu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D7818%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3OUWAinnhlEBYV6ANUyQJZ
ことに触れて欲しかったですね。
なお、当時、支那派遣軍総司令官だった畑俊六(注40)は、その後、この「「対支新政策」が実行できないのは、海軍の「無誠意」、日本大使館の「微力」だけではなく、新政策に関わる制令も行なわない「国府」すなわち汪政権の能力上の問題としている」(上掲)ところです。
(注40)「米内内閣<の時、>・・・日独伊三国同盟締結に絡<み、>・・・当時の参謀総長閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、・・・単独辞職<し、>・・・米内内閣瓦解の原因となった。・・・
1941年(昭和16年)に支那派遣軍総司令官となり在職中の7月に、ドイツ軍の対ソ攻勢に呼応して関東軍特種演習が発動されて対ソ戦が企図されると、畑は野田謙吾総参謀副長及び松谷誠参謀を参謀本部に派遣し、「目下は鋭意支那事変解決に専念の要あり」と具申させ、対ソ戦発動中止の一因を作った。また、太平洋戦争の開戦に際しても、土橋勇逸総参謀副長と松谷参謀を再度参謀本部に派遣し、前回同様支那事変解決を優先すべきと意見具申したが、塚田攻参謀次長より「支那事変解決のためには米英の対蒋援助を遮断する必要がある」と反論され、具申は通らなかった。1944年(昭和19年)に元帥となる。畑は日本陸海軍で最後に元帥府に列された軍人となった。
太平洋戦争では、太平洋やビルマの戦いで日本軍が劣勢になる1944年末に、中国戦線において大陸打通作戦を指揮、中華民国軍と<米>軍に大勝利を収め<ている。>・・・
1945年(昭和20年)4・・・月、本土決戦に備えて第2総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)が設立されると、その司令官となる。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下・・・直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
この指摘は、恐らく全て当たっているのであって、海軍は政治音痴だったし、外務省は無能だったし、汪兆銘政権は阿Qの集合体だった、のでしょう。
なお、「注40」等を踏まえ、畑には、杉山構想が、第2総軍総司令官就任時に初めて、恐らく(同時に第1軍総司令官に就任した、陸士・陸大同期の)杉山元から直接明かされた、と、私は見ているところです。(太田)
(続く)