太田述正コラム#13204(2022.12.27)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その24)>(2023.3.24公開)
「・・・中国への政策が転換した直後、東南アジアへの政策も動きだす。
1943年1月4日の大本営政府連絡会議で、東条首相はビルマ、フィリピン、インドネシアの独立について具体的な道筋を明らかにしたいと検討を求めた。・・・
<これは、>やはり戦局悪化からだった。
陸軍内では、独立の時期を連合国軍の本格的反攻前にすることで一致した。
連合国軍の反攻に備えるためには、圏内諸民族の戦争協力が必要だった。
独立は民心掌握を促すと考えられていた。・・・
1943年1月14日、大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定する。
これにより、ビルマとフィリピンの独立が決まった。
この案では、独立の条件として両国には軍事的に共同防衛を約束させる、日本軍の駐屯と軍事基地使用を認めさせ、外交・経済では緊密な提携や協力をさせることが明記された。
日本の強力な指導下に置く独立だった。・・・
⇒「戦局悪化」は関係ないだろう、という話は繰り返さないとして、「ビルマとフィリピン」を「日本」、「日本」を「米国」、に置き換えれば、戦後日本と米国との関係と同じですね、と安達に言いたいところです。(太田)
蘭印についても事務レベルで協議したが、陸軍内で意見が一致できず大本営政府連絡会議への提案は見送られた。・・・
ビルマ独立は、インド民衆の反英独立運動を刺激しイギリスを弱体化させる効果があるとし、まずビルマが先行する。
占領地帰属腹案を協議した同じ会議で「大東亜戦争完遂のためのビルマ独立施策に関する件」も決定し、1943年8月1日までの独立が決まる。
そこでは、独立後は対英米戦争への協力を徹底させるため、戦争必需物資の供出、治安維持の強化、交通の円滑化を実行させるとした。
一方、フィリピンはフィリピン人が日本への協力の実績を積めば、速やかに独立させるとして時期は決めなかった。
<1943年>1月28日、帝国議会の演説で東条首相は、ビルマとフィリピンについての決定を明らかにし、東南アジアは独立の方向に向かっていると内外にアピールした。
日本の新しい政策は、中国には対支新政策に沿ってなるべく干渉を避け自主的活動をさせ、東南アジアには日本の強力な指導下で独立を一部の地域で認めるという、二つの異なる対応だった。・・・
⇒別段異なる対応とは思えないのであって、単に、(ポリティカルコレクトネスの観点からは使わない方がよさそうですが、)それぞれの地域の当時の民度(注41)に応じて、自立を促して行く、ということだったのではないでしょうか。(太田)
(注41)「ある集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー、行動様式などの成熟度の程度を指す。・・・
言葉の起源は不明であるが、戦前から存在しており、1934年8月9日付『京城日報』に記述がある。・・・<支那>に概念が輸出され、「(国民)素质(日:素質)」とし、中<共>政府含めた官民問わず使われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6
中国では、陸軍の各現地派遣軍が掌握していた権限の多くを大東亜省に委譲する。
各派遣軍の代表は難しいと訴えたが、参謀本部は中国に駐留する兵力の他地域への転用を可能にするとして委譲に積極的に協力し、支那派遣軍の任務から「治安の維持」を削除し「作戦及警備」に限定する。
この方針で、中国の各派遣軍の機構改革や大東亜省などの業務は大きく変わり、汪兆銘政権の自主活動を側面から支援する体制に移行した。
とはいえ、各地の治安状況は一様ではなく、汪兆銘政権の行政能力が浸透していない場所は、支那派遣軍が介入できる余地を残していた。
⇒杉山構想の観点からすれば、これは、日本軍の占領地域に中国共産党勢力を招き入れ、近い将来における、彼らの支那権力の掌握、の基盤を醸成させる狙いもあった、ということになりそうです。(太田)
この対支新政策に最も消極的だったのは海軍だった。
海軍は、対支新政策に限らず自主性付与そのものに消極的な姿勢を取っていく。
それは、海軍がこの戦争を日本の「自存自衛」のための戦争と捉え、占領地域への自主性の付与が資源の獲得を困難にして作戦を阻害し、戦争遂行の妨げになると考えていたからだった。」(122~125)
⇒ここで、安達は、日本政府において、海軍以外は、この戦争が「大東亜共栄圏」構想実現のための戦争でもある、つまりは、私の言う人間主義的な目的のための戦争である、と、本当に考えていたことを認めてしまっています!(太田)
(続く)