太田述正コラム#13206(2022.12.28)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その25)>(2023.3.25公開)
「ビルマの独立については、2月上旬から「ビルマ独立指導要綱」の検討が政府・軍で始まった。
ここでは独立後の大使のあり方が対立を生む。
大きな対立点は、専任の大使を置くか、軍司令官が兼任するかだった。
外務省は文官大使の派遣を主張し、現地軍は軍司令官兼任を求めた。
陸軍内でも大使への命令・指示を参謀本部が行うのか、陸相が行うかで対立していた。
海軍の岡敬純軍務局長は、会議で大使を置かないですむ方法はないかと発言し、独立自体に消極的だった。
⇒当時の海軍省は、及川古志郎海相-岡敬純軍務局長時代とは違って、次官の沢本頼雄がスルーされている点こそ同じでも(コラム#13183)、嶋田繁太郎(コラム#13183)海相-岡敬純軍務局長時代というよりは、実質岡一人が切り回していた時代だと私は見ており、岡は、どうせ、日本は軍事的には敗北して、汪兆銘政権は永久に、また、ビルマの現地政権は一旦は、連合国によって取り潰されるであろうことから、汪兆銘政権への自主性付与や、ビルマ現地政権の樹立、など取り止め、杉山構想概ね完遂まで戦い抜くこれまでの体制を引き続き維持しておればよい、と考え、どちらについても、海軍省として消極的姿勢を打ち出していたのでしょうね。(太田)
結局、専任大使の派遣と決まるが、軍事や軍政で処理する案件は軍司令官が担当し、それ以外を大使が扱うことになった。
外務省は大使に権限を与え、ビルマ独立を自律的なものにしようとしたが、参謀本部はビルマが連合国軍との前線であり、現地軍が行動しやすいことを優先し日本の実質的な支配に重点を置いた。・・・
<駐支大使の>重光を外相に据えた東条首相<だったが、>・・・重光は回想で・・・東条・・・が新政策の実行を指導したのは、主としてこれが天皇の意思に副うものと思ったからである。とともに、彼の新政策に対する理解は、軍の首脳部および軍人政治家として現れた人々の他の何人に比較しても、最も深いものであって、彼が少くとも戦争目的を公明正大な立派なところに置こうと努力したことは、大東亜会議その他の彼の言動に見て明らかである。・・・<と>述べている。
対支新政策は昭和天皇の望むものだった。
1943年5月13日に重光は、昭和天皇に外交状況や政策を上奏した。
このとき昭和天皇は、大東亜新政策について「深く首肯あらせられ」、中国問題での新政策の徹底遂行と、後戻りさせてはならないと繰り返し述べたという・・・。
天皇への忠誠心が人一倍強かった東条は、その意思をなるべく実現しようと考えていたことは間違いない。
⇒重光、ひいては安達のこのような理解は私に言わせれば誤りなのであり、大東亜共栄圏構想そのものにしても、その中の対汪兆銘政権政策にしても、杉山構想に拠ったものであって、昭和天皇は、同構想のこの部分を東條等から聞かされ、それには賛同していた、ということでしょう。(太田)
その後も重光の推進する大東亜新政策を支援した。
しかし、東条は前年に大東亜省の設置を決定した閣議では、「大東亜地域に肇国(ちょうこく)の大理想を顕現し、道義に立脚する新秩序を樹立」するためには、「大東亜地域の諸外国に関する関係は他人行儀のものでなく」と述べたように、家父長的な階層的国際秩序の考えを持っていた・・・。
大東亜省の設置を審査した枢密院での東条の発言を、枢密顧問官だった深井英五<(注42)>は「東条総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱うの底意をここに暴露したり」と記している・・・。」(125~126、132~134)
(注42)1871~1945年。「経済的に恵まれず師範学校進学を断念。そんな中、新島襄が外遊中にブラウン夫人から託された奨学金の受給者に選ばれ、明治19年(1886年)に晴れて同志社英学校普通科に入学する。同志社在学中は抜群の成績で特に語学力は群を抜いていたという。明治24年(1891年)卒業。
徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、その後『The Far East』(英文版『国民之友』)の編集を任される。日清戦争中は、一時、大本営嘱托を務めた。同誌が廃刊に至るに伴い、国民新聞社を退社。蘇峰の推薦で大蔵大臣・松方正義の秘書官に転じるが、3ヵ月後に松方の大臣辞任により失職する。
1年間の浪人生活を経て松方の推薦により明治34年(1901年)、日本銀行に入行する。明治37年(1904年)2月から同40年(1907年)5月まで、数度の帰国を挟み、副総裁・高橋是清の外債募集のための海外出張に同行した。
営業局長(深井の前任者が小野英二郎)、理事などを経て昭和3年(1928年)、副総裁に昇格。昭和10(1935年)、第13代総裁に就任。昭和6年(1931年)に金輸出再禁止政策が採られ管理通貨制度に移行したことにより国内でインフレが進行する厳しい経済状勢の中、円滑な金融政策の実行に努める。昭和11年(1936年)に勃発した二・二六事件後の金融界の動揺も巧みな舵取りによって抑えた。しかし、昭和12年(1937年)の軍事費増大による赤字国債増発に抗しきれず辞職。貴族院議員を経て枢密顧問官となり、昭和20年(1945年)8月15日の枢密院の会議には病躯を押して出席して、日本の敗戦を見届けた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E4%BA%95%E8%8B%B1%E4%BA%94
⇒「大東亜地域に肇国の大理想を顕現し、道義に立脚する新秩序を樹立・・・する」は、「 40年第2次近衛文麿内閣が「基本国策要綱」で東亜新秩序の建設を掲げるにあたり,「皇国の国是は八紘一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べ,以後東亜新秩序の思想的根拠として広く唱えられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87-115006
ことを踏襲した表現であり、「基本国策要綱」が「成立直後の第二次近衛文麿内閣の閣議で決定<され>た」
https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%AD%96%E8%A6%81%E7%B6%B1-51570
際、やはり陸相に就任直後であった東條も署名しており、この基本国策要綱の文言を、大東亜省設置決定閣議での発言で変更することを、重光や深井が東條に求めるのはおかしいというものです。
もとより、重光らが、対外的にそれをどう表現するかは工夫の余地があったことでしょうが・・。(太田)
(続く)