太田述正コラム#13381(2023.3.25)
<皆さんとディスカッション(続x5483)/陸軍以外の杉山構想協力諸組織・・海軍等・・について(続)>
<太田>
安倍問題/防衛費増。↓
なし。
ウクライナ問題。↓
<そういうことよね。↓>
「東部要衝で「ロシア弱体化」=ウクライナ軍司令官「好機」主張・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%9D%B1%E9%83%A8%E8%A6%81%E8%A1%9D%E3%81%A7-%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%BC%B1%E4%BD%93%E5%8C%96-%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E8%BB%8D%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98-%E5%A5%BD%E6%A9%9F-%E4%B8%BB%E5%BC%B5/ar-AA18YVTb?ocid=msedgntp&cvid=c89f27262a2e4f36a682425d0e587587&ei=15
<中身ゼロ記事。ゼレンスキーさん、お時間をとってごめんなさい。↓>
「鋭い目つきのゼレンスキー氏、水も飲まず語り続けた58分…列車の一時停車中には物売りが接近・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/world/20230325-OYT1T50112/
<そんなにICC加盟国多かったんだー。↓>
The war crimes charges against Vladimir Putin brought by the International Criminal Court mean that the Russian leader, in theory, is unable to travel to two-thirds of the globe without risking arrest in the 123 countries that are parties to the United Nations treaty underpinning the court’s operations and therefore obligated to detain him.
In practice, the situation is more complex — with some ICC member states condemning the arrest warrant, and others having set a precedent of flouting the court’s orders.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2023/03/24/putin-arrest-war-crimes-travel/
それでは、その他の国内記事の紹介です。↓
やっぱ。↓
佐々木八郎は正しく、住吉住吉胡之吉は間違っていた。↓
「・・・佐々木八郎は、1922年(大正11年)3月7日生まれ、第一高等学校を経て経済学部に入学しています。彼の手記は「“愛”と“戦”と“死”─宮沢賢治作『烏(からす)の北斗七星』に関連して─」と題されていて、「僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人」の短編について述べたものですが、烏の大尉が敵の山烏との戦いに勝利しながらも、その遺体を手厚く葬りながら、「マヂエルの星」(大熊座、北斗七星)に向かって「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまいません」と祈る場面に深い感銘を受けたことが、率直な筆致で書かれています。 ———- 我々がただ日本人であり、日本人としての主張にのみ徹するならば、我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの、宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持なのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動のための空念仏(からねんぶつ)としか響かないのだ。そして正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心驕れるものに対しては、敵味方の差別なく憎みたい。好悪愛憎、すべて僕にとっては純粋に人間的なものであって、国籍の異るというだけで人を愛し、憎む事は出来ない。もちろん国籍の差、民族の差から、理解しあえない所が出て、対立するならまた話は別である。しかし単に国籍が異るというだけで、人間として本当は崇高であり美しいものを尊敬する事を怠り、醜い卑劣なことを見逃す事をしたくないのだ。
卒業式から1週間後の10月1日には、例外的にこの年2度目となる入学式が挙行されています。そこに出席して平賀総長の式辞を聞いていたと思われるもうひとりの学生が、終戦間近な1945年5月6日に記した日記から── ———- 灰燼(かいじん)の中から新たな日本を創り出すのだ。国体を云々する輩のため日本は小さな跼蹐(きょくせき)たる世界に齷齪(あくせく)していた。新緑の萌え出るような希望と明るさ、生命の躍動した日本を。日本の今までの国がわれわれの希望であったことは否定出来ぬ。また万世一系の皇統を云々する心微塵もない。だがその皇統、国体のゆえに、神勅あるがゆえに現実を無視し、人間性を蹂躙し、社会の趨くべき開展を阻止せんとした軍部、固陋(ころう)なる愛国主義者。彼らが大御稜威(おおみいつ)をさまたげ日本を左右して来たのが最近のありさま。宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい。本当に感謝し、隣人を愛し、肉親とむつび、皆が助け合いたい。 ———- ■終戦3カ月前というところで戦災死を遂げた 「宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい」などは、当局に見つかれば逮捕間違いなしの言葉に満ちた、歯に衣着せぬ反天皇制・反軍国主義の内容ですが、人間性と隣人愛への純粋な志向は佐々木八郎と共通しています。書き手は住吉胡之吉(このきち)、1921年(大正10年)2月15日生まれで、1942年10月、平賀総長が主導して戦争に役立つ人材の育成を目的に千葉市の弥生町に新設されたばかりの第二工学部電気工学科に入学した学生です。彼は理系学生だったので、翌年の学徒出陣の対象にはなりませんでしたが、1944年末から航空研究所に動員され、この日記を記してまもない1945年5月24日、自宅に戻っていたところで家族6人とともに戦災死を遂げました。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b9585aa10ed918d613b517133ad5b2833183c278
日・文カルト問題。↓
<ストーキングの最終回?↓>
「15歳の大谷翔平が考えた人生の「運」・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/03/24/2023032480023.html
<抑えて抑えて。↓>
「米メディア発表の「MLBトップ100」、ナンバーワンは大谷…韓国人選手はゼロ–ESPN、大リーグ開幕前に100人選定しランキング発表–2位はトラウト、3位はジャッジ・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/03/25/2023032580020.html
<・・・。↓>
「韓国野球界が日本に定期戦を打診=韓国ネット「面白そう!」「日本の野球ファンは歓迎する?」・・・韓国・スポーツ朝鮮」
https://www.recordchina.co.jp/b911326-s39-c50-d0191.html
<もういいよ。↓>
「WBC日本優勝、「世代交代で世界制覇」と韓国紙・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911283-s25-c50-d0059.html
<脳死日本政府は何しとんの?↓>
「北朝鮮「福島沖・・・に怪魚出現、奇形児出生デマを流せ」…韓国内のスパイ組織に反日感情刺激を指示・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/03/24/2023032480058.html
<報道していただき・・。↓>
「日本、相次ぐ北朝鮮の挑発に独自制裁2年延長へ・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302469
<はいはい。↓>
「韓国統一部長官「日本と疎通チャネルを作って拉致者の情報など交換提案」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302465
<文カルト健在?↓>
「韓国・尹大統領、「反日」の動きを改めてけん制、野党側は原発処理水や佐渡金山に範囲広げ攻勢・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911281-s39-c100-d0059.html
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<人民網より。
「国際社会」?↓>
「日本の原発汚染水海洋放出計画に国際社会は引き続き反対・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2023/0324/c94474-10226977.html
<ここからは、レコードチャイナより。
ドイツはともかく、インドは大歓迎だよ。↓>
「危うい日本のGDP世界3位の地位、ドイツとの差縮まりインドも猛追・・・中国網・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911278-s25-c100-d0059.html
<ご愛顧に感謝。↓>
「映画「すずめの戸締まり」、中国公開初日から記録更新!=前売りだけで22億円・・・中国のエンタメメディア・捜狐娯楽・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911360-s25-c30-d0052.html
<モチよ。↓>
「日本車が衰退?そうとは限らない・・・中国のポータルサイト・新浪・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911327-s25-c20-d0193.html
一人題名のない音楽会です。
Julia Fischerのモーツァルト特集の掉尾を、ヴァイオリン協奏曲ならぬ、彼女がヴァイオリンを受け持つところの、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲、で締め括ることにしましょう。
Sinfonia Concertante, K364(注a) です。
(注a)「1777年から1778年にかけてパリを訪れ、マンハイム楽派の影響を受けたモーツァルトは、1778年にパリで、当時彼らの間で流行していた協奏交響曲を書いている[1]。
その後、1779年にザルツブルクに戻ってから書かれたもう1曲の協奏交響曲がこの曲である。
協奏交響曲は、独奏楽器がオーケストラと渡り合う協奏曲とは違う性格を持ち、複数の独奏楽器がオーケストラと協調的に響きを作る性格を持つ。しかしこの協奏交響曲の独奏パートは高く評価され、今日ではヴァイオリン・ヴィオラの名手による二重協奏曲として演奏される傾向にある。
この曲では、モーツァルトは独奏ヴィオラは全ての弦を通常より半音高く調弦すること(スコルダトゥーラ)を指定している。独奏ヴィオラのパート譜は変ホ長調の半音下のニ長調で書かれている。弦の張力を上げることにより華やかな響きとなり、更にヴィオラが響きやすいニ長調と同じ運指になることで、地味な音色であるヴィオラがヴァイオリンと対等に渡り合う効果を狙ったのである。
華やかに上昇するヴァイオリン、静かに深い世界へ向かうヴィオラという2つの楽器の性格はうまく使い分けられ、華やかながらも必ずどこかに陰影を帯びたモーツァルトの芸術性がうまく表現されている。
すでに作曲された5曲のヴァイオリン協奏曲と異なり、第1楽章と第2楽章にモーツァルト自身のカデンツァが残されている<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%8D%94%E5%A5%8F%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
「マンハイム楽派(マンハイムがくは)は、18世紀のドイツ南西部マンハイムに宮廷を置いたプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドール(1724年 – 1799年)の宮廷楽団を中心に活躍した作曲家達を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E6%A5%BD%E6%B4%BE
ヴァイオリン:Julia Fischer ヴィオラ:Nils Mönkemeyer 指揮:Thomas Søndergård オケ:London Philharmonic Orchestra 34:05分
https://www.youtube.com/watch?v=k34zCzpvOJw
–陸軍以外の杉山構想協力諸組織・・海軍等・・について(続)–
4 弁護士界
5 広義の宗教教団
(1)全般
[桓武天皇構想再訪]
[後宇多天皇と日蓮]
[神祇官・神祇省・教部省]
(2)日蓮主義
6 海軍補論(海軍の教育)
(1)始めに
ア 部隊編成権の所在
イ 平時における陸海軍の完全分離
ウ 感想
(2)海軍における幼年学校の不存在
[府立一中/日比谷高校・物語]
[帝大/東大・物語]
(3)海軍における教育総監部の不存在
ア 教育総監部について
イ 海軍における教育総監部の不存在
ウ 結論
7 文系学者
(1)京都学派
[西田幾多郎について]
(2)昭和期東大法学部
ア 筧克彦(1872~1961年)
イ 上杉慎吉(1878~1929年)
ウ 結論
8 文学者
(1)始めに
(2)徳富猪一郎(蘇峰)(1863~1957年)
(3)与謝野晶子(1878~1942年)
(4)斎藤茂吉(1882~1953年)
(5)高村光太郎(1883~1956年)
(6)武者小路実篤(1885~1976年)
[支那における縄文的弥生人の創出]
[1920年前後の三つのアジア主義]
一 新アジア主義
二 大アジア主義
三 アジア主義
《周作人》
《毛沢東》
《宮崎滔天》
《近衛篤麿》
《備考》
[『藤野先生』–縄文人(人間主義者)と君子]
(7)菊池寛(1888~1948年)
(8)尾崎士郎(1898~1964年)
(9)林芙美子(1903~1951年)
9 エピローグ
4 弁護士界
「明治時代には検事正の監督下にありました。このような制度的制約から、各地の弁護士会では司法制度や弁護士制度の改善には不十分と認識し、1897(明治30)年には、全国的な弁護士のつながりとして日本弁護士協会が設立されました。この日本弁護士協会は、任意団体であり、加入を強制されるものではありませんでした・・・
日本弁護士協会は、設立以来唯一の全国的弁護士団体でしたが、東京弁護士会が分裂した影響で、1923(大正12)年に帝国弁護士協会が誕生しました・・・。同年からは、各地の弁護士会(強制加入団体)と、全国的な任意団体として日本弁護士協会、帝国弁護士協会が存在していたことになります。・・・
日本弁護士協会や、帝国弁護士協会は、1938(昭和13)年ころまでは、反対の意見を述べることができていたが、その後は戦争協力の姿勢に転じ、1941年の太平洋戦争開始とともに戦争翼賛体制に移り、1944(昭和19)年には、大日本弁護士報国会が設立されるなど戦争協力体制に組み込まれていったと<され>ています。」
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/e35390ae06c4b3743728b3a7602ef37f
「<反対の意見を述べた事例は次の通り。>日本弁護士協会が<1938年の>「国家総動員法」を憲法違反として反対の意見を表明したり、あるいは国家保安法案<(注53)>に対して、刑事手続を軽視したり検察官等の職権濫用を正当化するなどの理由で反対したりしていた。又、昭和17(1942)年の裁判所構成法戦時特例等戦時立法に関しては日本弁護士協会と帝国弁護士協会双方から強い反対意見が出された。」
https://www.yu-shin.gr.jp/datafiles/about/history/history4-1.html
(注53)不詳。国防保安法のミスプリか。「国防保安法<は>・・・1941年3月7日公布。国家機密の漏洩防止を目的とした法律。すでに軍事上の機密保護に関しては,軍機保護法(1899公布),軍用資源秘密保護法(1939公布)などの法規が存在し,軍事以外の事項の機密保護に関しても,出版法(1893公布),新聞紙法(1909公布),国家総動員法(1938公布)中の諸規定などが存在していたが,日中戦争の長期化に伴う戦時体制強化のため,政治上の機密事項の漏洩を取り締まることを目的として・・・制定された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E4%BF%9D%E5%AE%89%E6%B3%95-64205
「<しかし、1931年の>満州事変のときに、日本弁護士協会も帝国弁護士会も、これを自衛権の発動であるとして、国際連盟に抗議電報を打っ<ているし、>」
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/e35390ae06c4b3743728b3a7602ef37f 前掲
「1934年には・・・帝国弁護士<協>会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行<っている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
⇒ネット上に情報が少なかったが、弁護士界は、世論の動向とシンクロする形で、杉山構想完遂に協力し続けたと言えそうだ。(太田)
5 広義の宗教教団
(1)全般
以下、特に断っていない限り、鵜飼秀徳(注54)『仏教の大東亜戦争』より。
(注54)1974年~。「京都市右京区嵯峨野の浄土宗正覚寺に生まれる。成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科卒業。ドトールコーヒーで朝日新聞入社試験の履歴書を書いているところを加藤弘士に声をかけられ、報知新聞社に入社。その後、日経BP社に移籍。日経ビジネス記者、日経おとなのOFF副編集長などを歴任。『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』(日経BP)、『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(文藝春秋)はベストセラーに。2018年、退社。同年、一般社団法人良いお寺研究会代表理事に就任。寺院を「社会資本」と捉え、地域創生に結びつける活動を続けている。凸版印刷などの企業顧問も務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E7%A7%80%E5%BE%B3
「日本仏教界が一体となって戦争に協力したのだ。
いや、「協力」などという、生やさしいものではない。
各宗門の宗教的トップ(法主(ほっす))自らが、天皇制の下での仏教ファシズム(皇道仏教<(注55)>)を先導する役割を担っていたのだ。」(9)
(注55)「「皇道仏教」は、天皇を絶対的な存在として仰ぐ思想である。「天皇教」とも言うべき天皇帰依の姿によって、無条件に国策に随巡し、大陸布教を行う大義名分を確たるものへと導いた。そして、「皇道仏教」の特徴は次の三点にある・・・。まず、仏教を日本で完成させたという理解である。これは、仏教を庇護した聖徳太子の業績を最大限に評価し、皇室を中心とする「日本文化」と仏教が結びついたがゆえに「完成した仏教」になったと捉える史観「である。この思想によって、「不完全な仏教」を持つ<支那>の地に日本仏教を「逆輸入」する必要がある、という発想につながった。次の特徴は、神道の論理を補完する仏教についてである。仏教と「皇道」とを同一の思想と見なした「皇道禅」は、無我観の境地と惟神が同じ宗教性を持っていると説いた。天皇に帰一することによって悟りが得られると説くまでに至った「皇道禅」は、天皇を崇拝する滅私奉公の思想を獲得するプロセスに仏教の無我が寄与すると主張した。最後の特徴は、「戦時教学」の存在である。真俗二諦論は、仏教と天皇というダブルスタンダードの教えを同時に持つことを可能にする論理であるとともに、戦争反対から肯定へと転換させる根拠でもあった。しかし、「戦時教学」の結論が真俗二諦論ではなく、「真俗一諦論」であったことが明らかになった。「真俗一諦論」は、真俗二諦論を放棄して、真諦と俗諦とを一つの「真実」として理解する論である。「真俗一諦論」という語は筆者による造語であるが、阿弥陀仏と天皇とを一つの信仰対象として融合させる思想は、このタームを用いなければ表現できない。そして、この「真俗一諦論」によって、揺るぎない天皇崇拝が確立されたのである。」(新野和暢「皇道仏教と大陸布教–十五年戦争期の宗教と国家–」より)
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/data/h24/128887/128887-abst.pdf
「新野和暢<は、>・・・大検取得、同朋大学文学部卒業。同朋大学大学院文学研究科博士前期課程中退。法政大学大学院政治学研究科修士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)。博士課程修了。<東大>学術博士、政治学修士。『中外日報』編集部記者、仏教伝道協会職員などを経て、名古屋大谷高校宗教科講師。真宗大谷派教学研究所嘱託研究員、同朋大学仏教文化研究所客員研究員、名古屋教区教化センター研究員など」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%96%B0%E9%87%8E%E5%92%8C%E6%9A%A2_200000001070109/biography/
上掲論文は、新野の東大博士論文だ。
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/data/h24/128887/128887-sinsa.pdf
⇒私の結論を先回りして書いておこう。
「注55」中の、「仏教を庇護した聖徳太子の業績を最大限に評価し、皇室を中心とする「日本文化」と仏教が結びついたがゆえに「完成した仏教」になったと捉える史観」は、日蓮の史観、従って恐らくは日蓮宗の史観とは微妙に異なる。
その傍証と言えるのかどうかはこれまた微妙だが、日蓮主義はさておき、日蓮宗そのものの先の大戦への関わり方は、日本の他の仏教諸派に比して微温的だった(後述)。
というのも、まず、日蓮は、「<日本の>仏教の祖、『法華経』の伝持者とみてい<て、太子が>・・・『法華経』の意に順じているかどうか・・・疑問を呈し<つつも、太子を>・・・讃仰<はしていた>」
https://www.totetu.org/assets/media/paper/k008_024.pdf
だけだからだ。
また、日蓮は、「一二六二・・・年二月十日、・・・四十一歳の・・・時、配流の地である伊豆で著<した>・・・教機時国抄」の中で、以下のように主張した。
「法華経は一切経の中の第一の経王であり、これを知る者を教を知る者という。・・・
日本国は一向に大乗の国であり、大乗の中にも法華経の国である。・・・
日本国の一切衆生は、桓武天皇以来、一向に法華経・純円<(注56)>の機である。
(注56)立ち入らない。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/35/2/35_2_791/_pdf
[日本国の]当世は[、如来の滅後二千二百一十余年、]後五百歳に当たって妙法蓮華経広宣流布の時である。これを知るを時を知るという。」
http://monnbutuji.la.coocan.jp/gosyo/kaisetu/101-150/127.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE ([]内)
と主張しており、これを、私の解釈で言い換えれば、こうなる。
「法華経は仏教の教えの核心は人間主義の実践と普及であると説いている、最高の仏典である。
日本では、かねてより、人間主義が実践されており、日本は法華経を現実化した国であると言ってよい。(注57)
(注57)本覚思想。「本覚とは、「本来の覚性」の意で、一切の衆生に本来的に具有されている悟りの智慧を意味する。如来蔵や仏性をさとりの面から説明したものとも考えられる。大意としては、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、人間はもともと仏性を具えているということである。・・・
島地大等や宇井伯寿ら仏教学者によって・・・鎌倉仏教は天台本覚思想の発展と・・・唱えられ<、>・・・とくに島地は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている。
村上重良<によれば、>・・・鎌倉時代中期、浄土宗系の著しい発展のなか、当時の比叡山は本覚思想の教えがさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえした(この項資料必要。一般には、浄土教に本覚思想に上に成り立っていると解される)が、(したがって以下の記述のように、この土台で、浄土教と対立したのではないとする見方が大半である)日蓮は、天台教学のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意したといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A
日本では、桓武天皇以来、人間主義の国である日本を守るために武士を生み育てて来た。
その日本に、今や、この武士を先頭に世界に人間主義を普及させるべき時機が到来している。」
注目すべきは、日蓮には、桓武天皇への言及こそあれ、「天皇を絶対的な存在として仰ぐ」姿勢など見られないことだ。
なお、この桓武天皇への言及部分について、日蓮正宗の法華講連合会の機関紙「大白法」
https://myoshinji.net/2020/07/07/%E5%A4%A7%E7%99%BD%E6%B3%95%E3%82%92%E8%B3%BC%E8%AA%AD%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86
の執筆者は、「「機を知る」とは、機根を知ることです。つまり衆生が仏の教えを受け止めようとする心の状態や、教法に対しての衆生の能力を知ることです。本抄では、舎利弗が弟子の機根を弁えずに法を弘めた結果、一分も覚らず、かえって邪見を起こし一闡提(信不具足の者)となったことを挙げ、機を知ることの大切さを教示されています。末法は五濁悪世の時代であり、謗法によって貪・瞋・癡の三毒強盛の衆生が充満する時代です。したがって、機根の低い衆生が充満する末法においては、熱益や脱益の仏法ではなく、下種仏法、すなわち大聖人様の三大秘法以外に衆生を救う法はありません。このことを知ることが「機を知る」ことなのです。」
http://monnbutuji.la.coocan.jp/gosyo/kaisetu/101-150/127.html
とだけ書いて、解説するのを回避してしまっているけれど、日蓮が鎌倉幕府によって伊豆に流刑に処せられていた時に書いた『教機国抄』中の記述なのだから、日蓮は、平氏たる北条得宗家の祖である桓武天皇を持ち出した、と考えるのが自然であり、そうであるならば、日蓮は、「北条得宗家よ、お前達の御先祖様である桓武天皇は、お前達を含む武家を創り出し、日本が武家が牛耳る国となった暁には、日本という人間主義社会の守りは万全となるので、世界に人間主義を普及させる機が訪れる(注58)、と考えておられたというのに、お前達は人間主義を普及させようとしていない、けしからん」、という趣旨でこのくだりを書いた、と解さなければならないのだ。
(注58)「教機時国抄「日本国の当世は、如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当たって妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。是れ時を知れるなり・・・日本国は一向大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国為る可きなり・・・教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし。先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
(日蓮の六老僧
http://amigokamakura.sakura.ne.jp/ishibumi/606-nichiren-amagoi/deshi/deshi-keizu.html
の筆頭の日昭は、摂政近衛兼経の猶子(コラム#12103)であり、桓武天皇の意向を受けて、藤原氏が、まずは地方に赴き武家化活動を行い、その上で、桓武平氏の武家化活動を支援させられた、という歴史を、日蓮は、この日昭から聞かされていたはずだ。
なお、六老僧中の日朗は、この日昭の甥(コラム#12103)であり、日朗も、こういった歴史を知っていたはずだ。)
また、日蓮は、神道に対し、(日蓮正宗から分離した創価学会はそうではないが、)好意的な評価こそしている(注59)けれど、「仏教<が>・・・神道の論理を補完<してい>る」などと考えていたはずがない。
(注59)「日蓮は、法華経に基づく正しい仏法が行われる場合には、天照大神と八幡大菩薩を筆頭とする日本の神々がこの国を護持し、正しく仏法が行われない場合にはこれらが日本を去るという「神天上法門」を主張しました。日蓮は法華経に対する絶対帰依を言いましたが、その法華経による正しい仏法が行われている場合、神道の神々がこの国を守ると主張したわけです。
さらに、日蓮の弟子である日像は日蓮の神道思想をさらに発展させて「法華神道」を提唱するに至りました。熱田神宮を筆頭とする三十の神々が一月で日ごとに交代しながらこの国を護持するという「三十番信仰」を取り入れ、法華経に基づく正しい仏法が行われているのならば、この三十の神々が国を守ると主張したのです。・・・
日蓮の最終的に目指すところは、乱れた現実社会を正しい仏法の社会へと改革して民衆の利益とすることであり、現世を「末法」として最初から諦め、念仏により来世での極楽浄土への往生を目指す真宗や、極めて高度な形而上学的哲学を展開した曹洞宗は、受け入れられなかったのです。そのようなことから、日蓮は「真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊」と、他宗派を批判するいわゆる「四箇格言」を残しました。」(稲千代「日蓮宗と法華神道 日蓮が浸透を崇敬した理由とは」より)
http://nippon-seishinbunka-kenkyujo.blog.jp/archives/6420455.html
稲千代(2001年~)は、國學院大學神道文化学部学生。
http://nippon-seishinbunka-kenkyujo.blog.jp/archives/5538262.html 及び上掲
ちなみに、「日蓮宗系の法華経を三十番神が守護するという信仰形態(法華神道)があるが、日像が日蓮宗に採り入れたとされる<ところ、この日像の「<最初の師は>兄<の>日朗<(上出)えあり、>・・・その後、日蓮の直弟子〈になった〉・・・だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F
この「この日像<は、>・・・後醍醐天皇より<京に>寺領を賜り、妙顕寺を建立し<、同寺は、>1334年・・・後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。」(上掲))
日蓮が攻撃したのは、「注59」でも指摘されているように、真言宗と曹洞宗と浄土宗/浄土真宗と真言律宗、なのであって、それは、真言宗と真言律宗は呪術的要素が強く、曹洞宗/浄土宗・浄土真宗は武士/庶民に普及した、からであり、尊師筋にあたる天台宗、及び、公家や上級武士の尊崇を受けていた臨済宗、は激しい攻撃の対象にはしなかった、と考えられる。
なお、日蓮の思想について、より詳しくは、22回にわたる『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』シリーズ(コラム#13306~#13348)(未公開)参照。(太田)
[桓武天皇構想再訪]
「第一に、聖徳太子が、・・・ガタガタになった日本の軍制を、蝦夷と支那から学ぶことで、抜本的に立て直さなければならない、という、私の新たな命名によるところの、聖徳太子コンセンサス、を形成したこと、と、第二に、桓武天皇が、この聖徳太子コンセンサスを具体化する、同様私の新たな命名によるところの、桓武天皇構想、を樹立するとともにその実現に着手し、以降の数代の諸天皇がこれを引き継ぎ完遂したこと、のおかげで、日本は、アジア随一の弥生性を確立することができたのです。」(コラム#11164)というのが、桓武天皇構想の初出であるわけだが、改めて考えなければならないのは、日本の軍制が立て直されたされたとして、守るべきものは、日本の領域・・天皇の支配の及ぶ地域・・だけだったのか、だ。
ヒントになるのは、厩戸皇子(聖徳太子)が、私の言う人間主義の実践を説く法華経について、『法華経義疏』を残しているほか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
「世俗と世俗に関わることを肯定し、・・・困難を抱える人びとが苦しんでいる限り自分の幸せはない」としたとしたところの、人間主義とは何ぞやを論じた維摩経について、『維摩経義疏』を残したとされていること
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000818872022.html 及び上掲
であり、桓武天皇が、最澄を唐に派遣して、法華経を根本仏典とする天台宗の日本導入を図っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
ことだ。
(「<同じ>第18次遣唐使一行<であることは同じでも、>・・・空海はまったく無名の一沙門だった<のに対し、>・・・すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて<いて>、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
これは、桓武天皇が、厩戸皇子が人間主義を、日本が守らねばならないものとして、領域と共に、いや、恐らくは、領域よりも重要視していたに違いないと考え、人間主義の理論化、と、この守りの担い手として自分が日本において生み出そうとしているところの、縄文的弥生人(武士)の毀損されるであろう人間主義の修復手段、とを探し出してくれることを、最澄に期待したものである、と、見たらどうだろうか。
そして、日蓮もそのように理解していたのではないか、と。
その傍証となるのが、「唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向<が>奈良時代・・・から進行していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96
ことだ。
そして、「仁明天皇の治世に相当する、承和年間(834年 – 848年)の派遣が最後となった<ところの、>・・・遣唐使停止<が>日本文化の国風化を加速させる要因<となったこともあり、>・・・平安時代は日本史上最も女性の感性が大切にされた時代<とな>り、王朝文化が醸成していく過程で・・・女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映され<、>内裏では調度を整えるにあたり、公式な場やハレの場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、ケの場では和風に誂えるという使い分けを<するようになった>」(上掲)ところだ。
この「国風」は、私の言う人間主義に相当する、と、見るのが自然ではなかろうか。
(通説では、「大和魂<は、>漢才、すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能を意味することばとして・・源氏(1001‐14頃)乙女「才を本としてこそ、やまとたましひの世に用ひらるる方も」・・・に現れているが、いまは日本民族固有の精神をさすことばとして通用している。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82-144215
とされているが、国風と大和魂のもともとの意味は異なっていたのが、江戸時代に、本居宣長らによって大和魂=国風とされてしまった、というのが私の仮説だ。)
[後宇多天皇と日蓮]
「弘安4年<(1281年)>、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。」・・・
これについては、鎌倉幕府が、武力を用いての人間主義の世界への普及事業に乗り出す可能性なしと見放し、朝廷のイニシアティヴでこれを行っていただけないか、と受け止めて欲しい内容の直訴を日蓮が朝廷に対して行ったところ、何と、時の天皇・・大覚寺統二代目にして後の後醍醐天皇の父親の後宇多天皇・・・ ・・がこの直訴の趣旨を的確に理解した上で、機会を見てそうしようと返答した、ということだと私は受け止めている。」と記したことがある(コラム#13348)ところ、後宇多天皇(1267年12月~1324年。天皇:1274~1287年)は、当時、わずか13歳だったわけだが、「賛否両論の晩年を入れても総合評価として英主という評は不動であ<る>」(上掲)人物であっこと、そして、「亀山天皇<(1249~1305年)は、>・・・院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮と熊野三山で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉った。父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
ということ、からして、少なくとも13歳の時には自身で物事を判断する能力は十二分に有した、と考えてよかろう。
その後宇多天皇は、この1281年に蒙古が二度目の来襲をした翌月、「十日間、百僧を以って法華経一千部を石清水八幡宮に読誦せしめられ・・・た。また、・・・<日蓮>聖人は予言の的中と国恩に報ずべく、長さ六尺五寸、幅五尺五寸の「日・月の大曼荼羅」をご染筆になり、使者に授与され・・・筑紫・・・進発・・・総師宇都宮貞綱は、この大曼荼羅聖旗を奉じて博多湾頭に飜し・・・た。」
http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_28.html
ともされているところだ。
(この曼荼羅の話は、江戸時代には真実と思われていたよう
https://1000ya.isis.ne.jp/1805.html
だが、元寇のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
中に、宇都宮貞綱は一切登場していないこともあり、伝説の域を超えないところ、日蓮が積極的に元寇対処にコミットした旨の伝説が成立したことが重要だろうし、後宇多天皇の岩清水八幡宮の事績の方は事実ではなかろうか。
ところが、本件を含め、後宇多天皇の日蓮や法華経との関りは、同天皇のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
には、一切、登場しない。
これは、織田信長の旗印に「南無妙法蓮華経」の小旗が付けられていた
https://www.touken-world.jp/tips/43247/ (コラム#省略)
ことが、上掲中、彼の旗印のイラストで見て取れるのに解説では言及がなされず、また、彼のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
では、この小旗の話が完全に無視されていることを思い起こさせる。
「亀山天皇は法華経のご信仰が篤い方であ<っ>た」
http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_28.html 前掲
ともされているから、後宇多天皇の天皇時代に治天の君であった亀山上皇は、後宇多天皇の日蓮や法華経との関りに好意的だったのだろうし、後宇多天皇の子の後醍醐天皇もまた、日蓮宗に好意的な姿勢を取ったのだろう。
(「そもそも関東を拠点にしていた法華宗(日蓮宗)は、京都においては新興の宗派といってもよい。その京都法華宗(妙顕寺(みょうけんじ))に対し後醍醐天皇から綸旨が発給された。足利尊氏を倒すための祈祷命令である。後醍醐天皇は南朝の勢力拡大のために京都周辺の伝統ある寺院ばかりでなく、こうした新興勢力にも文書を発給した。」
https://www.second-academy.com/lecture/MSN13663.html
という話・・上掲の後段は余計な一言というべきか・・や、「『太平記』<が>、後醍醐が「玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄ハツネニ北闕ノ天ヲ望マント思フ」と遺言し、左手に『法華経』巻の五を抱き、右手に剣を握って大往生を遂げたと記している」こと、
https://1000ya.isis.ne.jp/1223.html
もまた、後醍醐天皇のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
では完全に無視されている。)
私は、後宇多天皇を、大覚寺統の祖である父たる亀山天皇と建武の中興の主である子たる後醍醐天皇を繋ぐリンチピンとして、この3名の中で最も、私の史観に照らし、最重視するに至っている。
「無差別の殺戮を伴う戦争に、仏教教団は直接的・間接的にかかわった。
そこで、殺生を戒める仏教がなぜ? という疑問が沸き上がる。
⇒無差別的だろうが差別的だろうが、仏教の不殺生戒は、「第一の戒は、衆生の命を奪うことを禁じたものである。これはある者が意図的に、それは衆生であると理解しており、その実行に努めることで衆生を殺すことに成功した場合に該当する。外傷を与えることはその理念・・・には反するが、技術的には、この戒を破るものではない。この戒には、動物、小さな昆虫の命を奪うことも含まれるとされる。この生命を奪うことの重大さは、その生物の大きさ、知性、得られる利益、スピリチュアルな発達度に依存するともされている。大きな動物を殺すことは、小さな動物を殺すことよりも悪いとされる(大きいほど多くの努力を要するため)。精神的に完成した存在を殺すことは、別の「より平均的な」人間を殺すことよりも厳しいと見なされる。そして人間を殺すことは、動物を殺すことよりも厳しい。しかし、すべての殺害は非難される。この戒が示す美徳は、生ける者の尊厳への尊重である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%88%92
である以上、同じ重みの破戒だ。
戦争において戦闘員以外を意図的に殺害することは近代国際法で禁じられているが、それは別の話だ。(太田)
この矛盾を正当化したのが、日清戦争以降に構築された「戦時教学」と呼ばれる論理だった。
それは国家神道体制のなかで生き残りをかけた、仏教側の方便といえるものだった。・・・
⇒鵜飼は、自身が先に登場させた皇道仏教、と、ここで登場させた戦時教学、との関係を明らかにすべきだった。
いずれにせよ、戦時教学は、「戦時下の真宗教学者における教学的営為は「戦時教学」形成の一点に集約され、またそれに基づく諸活動もその戦時教学の大衆的普及という一事に尽くされた」とする龍渓章雄(注60)の「戦時下の真宗教学」中の指摘
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/33/1/33_1_266/_pdf/-char/ja
が正しいとすれば、鵜飼は、「仏教側の方便」を、「浄土真宗側の方便」と限定的な記述にすべきだった。(太田)
(注60)たつだにあきお([1951年~])。「龍谷大修士、龍谷大学 文学部 真宗学科 教授(兼任)文学研究科 真宗学専攻(兼任)実践真宗学研究科 実践真宗学専攻」
https://researchmap.jp/read0100953
http://shinshu-gakkai.omiya.ryukoku.ac.jp/kyoju/tatsutani/prof.html ([]内)
但し、上出の「戦時下の真宗教学」執筆当時は龍谷大講師。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/33/1/33_1_266/_pdf/-char/ja 前掲
日蓮宗僧侶で活動家の井上日召はその思想に染まり、テロ集団を率いて政財界の要人を暗殺した「血盟団事件」を引き起こしたことで知られている。
石原莞爾ら多くの軍人も、仏教の戦時教学に影響されていく。」(10)
⇒だから、浄土真宗(だけ)の戦時教学と井上日召のような日蓮宗僧侶たる日蓮主義者(注61)や石原莞爾のような国柱会会員たる日蓮主義者を結びつけるのは無理筋というものだろう。(太田)
(注61)http://www.isobekaikei.jp/pages/756/
「・・・1868(慶応4)年の神仏分離令<(注62)>は、それまで習合していた仏と神とを、明確に切り離せという命令だった。
(注62)「仏教伝来以来、神道は1000年余にわたって徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合(神仏混淆)の時代が続いた。近世になると儒学や国学の排仏思想によって、神道から仏教色を排除する動きが出現し、水戸藩(茨城県)や岡山藩、会津藩(福島県)で地域的な神仏分離が行われた。この排仏意識は幕末に至っていっそう強まり、水戸藩や薩摩藩(鹿児島県)では過激な寺院整理が行われた。また石見国(島根県)津和野(つわの)藩でも最後の藩主亀井茲監(これみ)によって独自の神社・寺院改革が行われ、維新政府の宗教政策の青写真となった。
維新政府は神祇官を再興して祭政一致の制度を実現しようと、この津和野藩藩主亀井茲監や福羽美静(ふくばびせい)、大国隆正(おおくにたかまさ)を登用し、最初の宗教政策ともいえる神仏分離を全国的に展開させた。まず1868年(慶応4)3月17日、神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形(そうぎょう)の別当・社僧に復飾(還俗)を命じ、ついで28日太政官は神仏分離令(神仏判然令)を発して、(1)権現などの仏語を神号とする神社の調査、(2)仏像を神体とすることの禁止、を全国に布告した。これ以後全国の神仏混淆神社から仏教色がすべて排除されるが、近江(滋賀県)日吉(ひえ)山王社のように過激な神仏分離が多発したので、太政官は同年4月10日には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じた。しかし、政府の威令がいまだ行き届かず、苗木(なえぎ)藩(岐阜県)や富山藩などの各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏棄釈とよばれる事態が1874年(明治7)ごろまで続いた。・・・
[宮中において<は、>即位灌頂・大元帥法・御斎会をはじめとする仏教儀礼の導入が行われる一方で、斎宮の忌み詞を始め神仏隔離・神事優先の原則が古代より一環として守られている分野が存在しており、公家社会においても仏事と神事の間では神事優先の理念が強かった]<ところ、>法親王は還俗し,宮中からいっさいの仏像や仏具は取り払われ,天皇家と仏教は完全に無縁となった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2-538886
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2 ([]内)
維新政府としては、天皇を中心とする純然たる国家神道体制を樹立する<(注63>ためには、仏教と混じったままではまずかったのである。
(注63)「明治3年1月3日(1870年2月3日)に明治天皇の名により出された詔書<である>・・・大教宣布詔(だいきょうせんぷのみことのり)<によって、>・・・天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。・・・
だが、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、更に欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって神道国教化の動きは不振が続き、明治5年3月14日(1872年4月21日)の教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止によって大教宣布は見直しを迫られることとなり、大教宣布の路線の再建・強化を目指した大教院が翌年に設置されることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%95%99%E5%AE%A3%E5%B8%83
これまで幕藩体制下における寺請制度では、仏教界は過剰に庇護されてきた。
一つのムラに一つの寺院を設け(一村一寺)、村人はすべて寺の檀家になった。
そして、全国民が宗門(宗旨)人別改帳に記載され、「国民皆仏教徒」の体制ができあがっていった。
・・・寺は、貧しい人々に高利で貸付けを行い、返済できなければ田畠を取り上げて小作人とするなどした。・・・
仏教界は著しく堕落し、「衆生救済」からは遠ざかっていた。
人々の仏教界にたいする失望は膨らみ、新時代に切り替わった瞬間に鬱積したエネルギーが爆発した。
そして、各地の寺院への破壊行為へと発展したのである。
廃仏毀釈により、江戸時代に全国に9万ヵ寺あった寺院は半減した。
なかには殺害された僧侶もいた。・・・
<更に、>1871(明治4)年と1875(明治8)年の二度にわたって、上知令が布告され<、>全国の寺領が、・・・主要な境内地を除いて、ほぼすべて召し上げられたのである。・・・
寺院自ら開墾あるいは買得した土地は寺院の所有を認められ、領主から寄進された所有(占有)権<は>・・・否認されたのである。・・・<そして、>従来無税の地で民有の証拠のないものは、すべて官有地・・・に編入されたのである<。>・・・
浄土宗、天台宗、真言宗、臨済宗といった、幕府権力に迎合して拡大していった大教団へのダメージは大であった。
一方で、門徒や檀信徒のムラ百姓の集まりを基盤に派手な動きをみせなかった真宗(浄土真宗)や曹洞宗、日蓮宗への影響は軽微であったといわれている。」(23~24)
「・・・冷静に時流をよみ、したたかに勢力を拡大していったのが真宗の東西本願寺であった。・・・
<とりわけ、>西本願寺の第20世門主大谷光沢(広如)・・・は、<幕末において朝廷に累次の献金をすた上、>1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦いにおいて、僧侶や門徒衆を、御所の警備に当たらせるなどしている。
同年3月、明治天皇が大阪における本願寺派津村別院の書院を仮御所(安在所)にした時、広如は天皇を接遇。
物理的にも精神的にも、朝廷との距離を縮めていく。
⇒東西両本願寺は、江戸時代を通じて、近衛家との関係を深めてきており(コラム#12833)、「時流をよみ」と言うよりは、近衛家と共に、倒幕・維新を成し遂げ、その後も維新政府への積極的協力を続けた(同上)、と見るべきだろう。(太田)
広如は・・・真俗二諦<(しんぞくにたい)(注64)>の法義<が>・・・記された・・・遺言『御遺訓御書』を<残し>て、遷化・・・した。・・・」(27~29)
(注64)しんぞくにたい。「仏教で絶対的悟りと相対的悟りを区別していう用語。・・・<支那>,南北朝期にとくに三論宗の教義の中心として論議された仏教教理概念で,・・・真諦は勝義諦・第一義諦ともいい,謬(あやまり)のない絶対的真理をいう。俗諦は世俗諦・世諦ともいい,世俗人の執着するままを容認する相対的真理をさす。真俗二諦は種々に解されているが,大乗仏教では,真諦を説くにも世俗の言語や思想をもってせねばならず,世俗諦によらねば真諦へは至れぬとして,真俗二諦は不二と説く。真宗では仏法を真諦,王法(世俗の道徳)を俗諦と・・・して相依相資の関係にあると・・・する特殊の真俗二諦説をとっている。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6-82163
「親鸞は・・・末法の時代には、真の仏道(真諦)を行じうるものは一人としていない。そのような世で、国家が仏教の教えに従って国を治める(俗諦)ことなどありえ<ず、>・・・<だからこそ、>念仏者<が>・・・弾圧<されるのだ、とした上で、>・・・この末法の、世俗の法のみが支配する世の中にあって、凡愚の仏果に至りうる道は、ただ阿弥陀仏の他力による、回向法のみである<、とした>。」
https://ganshoji.net/sub22.htm
このように、「親鸞聖人は「末法の世では、仏教が意味する真俗二諦は成り立たない」と言っておられ<たわけだが、>・・・覚如上人<や、>以後<の>・・・存覚上人・蓮如上人<といった>方々<は、>・・・真宗教団という、ひとつの世俗の場での念仏者の組織を形成して、その中でこの世を歩もうとされた<ため、>・・・国家の法とどうかかわるかということが最大の関心事にな<り、>・・・真俗二諦<という>・・・文言を<用いるようになった。>・・・
<広如門主は、この>覚如上人・存覚上人・蓮如上人の文言を取り入れ、・・・近代感覚にかなう、全く新しい真宗の思想を打ち立てた<のだ。>」(西本願寺直営サイトより)
https://kokotomo.net/2011/04/1189
https://www.facebook.com/HonguanjiNalanda/
この・・・「真俗二諦の法義」・・端的にいえば、我々はこの世では天皇に、あの世では仏に帰依せよということになる。・・は、国家が行う戦争行為と、不殺生を重んじる仏教徒の矛盾を埋める新理論として広まっていった。・・・
⇒鵜飼は、「真俗二諦の法義」が、浄土真宗に昔からあった、と断る必要があった。
というか、真宗教団は、かつて、殺生戒などなんのその、(戦争行為を伴ったところの)一向一揆を頻発させたり、(戦闘行為を当然視するところの)戦国大名化して織田信長と覇権を争ったりした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
以上、その類の「法義」を持ち合わせていなかったはずがないのだ。
また、1570~1580年の石山合戦の講和が、正親町天皇の勅命を最終的に門跡の顕如が受け入れる形で成り、更に、1582年には、顕如、と、戦後対立するに至っていたところの、嫡子で新門跡の教如、は、朝廷の仲介により和解しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
顕如と(東本願寺の祖となる)教如が、「天皇に帰依」するに至っていたのは明らかである以上、現在の西本願寺・・鵜飼も事実上同じだ・・が、広如が「真俗二諦」という「文言を取り入れ」つつ、「全く新しい真宗の思想を打ち立てた」と主張するのは無理があろう。
(もとより、江戸時代を通じての近衛家との関係の深まりを通じて、東西本願寺の両門主家が秀吉流日蓮主義信奉家になっていたという意味では、真宗ならぬ両門主家の「思想」が変容していたことは否定できないわけだが、それはまた別の話だ。)(太田)
東西本願寺の新政府にたいする秋波は、献金・・・だけではな<く、>・・・<様々な>忖度とロビー活動<が行われた。>・・・」(27~30)
「対照的に真宗以外の教団は出遅れた。・・・
1868(慶応4)年1月に「延暦寺(天台宗)が新政府に米と金銭を献金」<、>1869(明治2)年4月10日に「永平寺(曹洞宗)が新政府に1000両を献金」したくらいである。・・・
<さて、>西本願寺<派の>・・・僧侶、島地黙雷<(注65)>・・・は<、>国家神道への切り替わりと、キリスト教進出の間で仏教の生き残りを模索した人物として知られる。
(注65)1838~1911年。「肥後(熊本県)光照寺の原口針水・・・に師事して真宗学、仏教学を学んだ。]
1868年(明治元年)、京都で大洲鉄然や赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの西本願寺の改革を建白し、改正局を開いて末寺の子弟教育に注力した。
1870年(明治3年)に、西本願寺の参政となった。
1872年(明治5年)、西本願寺大谷光尊からの依頼によって、仏教徒として初めてヨーロッパ方面への視察旅行を行った。使節団一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対して一等書記官福地源一郎が派遣され、同国の裁判制度などを研究させたが、黙雷はこれに同行している。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊での布教にも尽力した。また、女子文芸学舎(現:千代田女学園)を創立するなど、社会事業や女子教育にも功績を残した。
1888年(明治21年)、雑誌『日本人』の発行所である政教社の同人となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E9%BB%99%E9%9B%B7
https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E9%BB%99%E9%9B%B7-18451 ([]内)
原口針水(1808~1893年)。「1862・・・年,長崎へ赴き宣教師よりキリスト教を学ぶ。明治17(1884)年,西本願寺第22世大谷光瑞の真宗学指南となる。・・・
明治5年大教院の教導職となり,キリスト教を排撃した。24年西本願寺大学林(現竜谷大)総理事務取扱。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E5%8F%A3%E9%87%9D%E6%B0%B4-1102491
大洲鉄然(おおずてつねん1834~1902年)。「同地同派の勤王僧月性の薫陶をうけた。1863年・・・僧侶数十人と義勇隊に入り,翌年真武隊を編成。65年(慶応1)寺を継ぐ。翌年護国団を組織して幕府の長州再征と戦い,また藩に真宗風紀改正を建議した。・・・江戸時代に浄土真宗禁止政策がとられていた鹿児島での開教や海外布教でも活躍した。・・・21年本山の執行(しゅぎょう)長。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B4%B2%E9%89%84%E7%84%B6-1060366
赤松連城(1841~1919年)。「加賀国金沢出身。・・・28歳で周防国徳山の徳応寺を継ぐ。・・・
明治5年(1872年)から宗門大谷光尊の命で島地黙雷とヨーロッパに留学し、イギリスなどの教育制度を学んだ。帰国後は宗門の教育制度を改革するとともに東京奠都に伴う寺務所の東京移転計画を阻止<。>・・・後に大学林綜理(後に「仏教大学」と改称、現在の龍谷大学)・執行長などを歴任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E9%80%A3%E5%9F%8E
⇒大洲鉄然は武器を取って戦っている!(太田)
黙雷は同郷の木戸孝允ら岩倉使節団の外遊に少し遅れて参加。
これを機に政府・仏教界(真宗教団)は一気に接近することになり、近代日本における国家と宗教の関係性が構築されていく。・・・
黙雷は維新政府との渉外担当になると、同郷長州の木戸孝允や伊藤博文、井上馨ら政治家とのパイプを活かして、様々な宗教政策に関わっていく。
この時、黙雷とともに本山改革に同調したのは、同じ周防国の徳応寺の赤松連城と、覚法寺の宇都宮黙霖<(注66)>であった。
(注66)宇都宮黙霖(もくりん。1824~1897年)。「安芸国(広島県)賀茂郡の僧の子に生まれる。3歳の年養子に出され,21歳の年病により耳と発声に障害を受けた。翌年・・・浄土真宗本願寺派・・・の僧籍に入り・・・諸国を巡歴,徹底した尊王論者となる。・・・1856・・・年8月萩に至り,文通によって吉田松陰・・・に倒幕論への思想転換の機を与えた。。・・・安政の大獄,第1次幕長戦争の際に投獄される。[吉田松陰や頼三樹三郎、梅田雲浜などと交わって勤皇をとなえたとして、幕府の大老、井伊直弼による安政の大獄に連座するが、僧籍にあったため唯一釈放されている。]・・・慶応2(1866)年に還俗。・・・1869年(明治2)大阪府貫属となり,・・・明治4(1871)年勤王の功により士族に列せられ終身3人扶持を与えられ,同6年湊川神社,次いで・・・男山八幡宮・・・の神官に任命されるが程なく罷免され,のち故郷の呉に隠棲して・・・大蔵経の和訳にあたった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%BB%99%E9%9C%96-34928
https://www.suganami-co.com/kure-history/note033.html ([]内)
鉄然は勤王僧で知られた月性<(注67)>に師事し、長州征伐の際に僧侶隊を率いて幕府軍と戦った筋金入りの傑僧として知られている。」(32、36)
(注67)げっしょう(1817~1858年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%80%A7
「幕末の真宗・・・本願寺派・・・の勤王僧。周防国大島郡遠崎村(山口県大畠町)妙円寺住職。・・・1843・・・年「男児志を立てて郷関を出づ,学若し成る無くんば復た還らず,骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地,人間到る処青山有り」の詩を残し京畿,北陸,関東を歴遊,・・・吉田松陰、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、僧黙霖(もくりん)<ら>と意気相投じた。[32歳の時に開いた私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」は、「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称され、多くの門人を輩出している。久坂玄瑞も一時期、ここで学んだ。]つねに国家の前途を憂い、海防の必要を論じたため、人は彼を海防僧とよんだ。・・・1856・・・年,本願寺に招かれ東山別院に寓居。梁川星巌,梅田雲浜ら在京の志士と尊王を語り合い,吉田松陰と詩を応酬した。<1857>年紀伊に海防急務策を遊説し<、>・・・また、幕府の蝦夷(えぞ)経営に本願寺開教僧として赴こうとしたが<、>・・・病を得て翌年没した。・・・
著書に『仏法護国論』がある。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E6%80%A7-59611
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%80%A7 ([]内)
梁川星巌(1789~1858年)。「美濃国安八郡曾根村(岐阜県大垣市)に富農の家に生まれる。・・・1807・・・年江戸に出て・・・古賀精里,山本北山に学び,22歳で再び・・・山本北山の奚疑塾に入り儒学と詩文を学び,・・・14年帰郷し私塾梨花村舎を開く。・・・1820・・・年詩人紅蘭と結婚。・・・1834・・・年江戸神田お玉が池に住し玉池吟社を起こし,江戸詩壇の盟主として名声高まった。その間<水戸学の>藤田東湖<、や>佐久間象山と交わり時事への関心を深め,・・・1845・・・年玉池吟社を閉じ帰郷し,翌年より京都に定住,ペリー来航後は・・・梅田雲浜らと・・・政治活動に深入りし尊王攘夷を主唱す。・・・1858・・・年<、>安政の大獄の直前<の>・・・秋京都に流行したコレラに罹り没<す>・・・る。[頼三樹三郎ら門弟に看取られての最期であったという。]・・・5000首におよぶ作品を残し,詩人としての評価は頼山陽より高い。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A2%81%E5%B7%9D%E6%98%9F%E5%B7%8C-143851
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%B7%9D%E6%98%9F%E5%B7%8C ([]内)
頼三樹三郎(1825~1859年)。「父の山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者の後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の墓所である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
1853年に・・・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。・・・同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の阿部家福山藩邸において幽閉され・・・、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E4%B8%89%E6%A8%B9%E4%B8%89%E9%83%8E
⇒真宗本願寺派は、秀吉流日蓮主義を継受した、(藤田東湖→梁川星巌→頼三樹三郎→)月性→宇都宮黙霖/大洲鉄然、のライン、と、秀吉流日蓮主義の一要素であるところの反キリスト教意識に根ざした、原口針水→島地黙雷→赤松連城、のライン、が、合体して、秀吉流日蓮主義家化していたところの、(室が九条尚忠の養女・祥子(鷹司政煕息女)の)大谷広如20世宗主、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A6%82
(その子で、実母は祥子ではないが)、大谷光尊21世門主、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A
及び、(妹に九条武子がい<て>妻は大正天皇の皇后・九条節子の姉・籌子(かずこ)の)大谷光瑞22世門主
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E
を補佐しつつ、秀吉流日蓮主義の普及、実践活動を行った、と見てよかろう。
(なお、月性と毛沢東との因縁について、後述。)(太田)
「・・・黙雷は洋行中、木戸孝允に報告書をあげ、そこで「宗教」という言葉を初めて用いていた。
黙雷は「religion=宗教」と記し、キリスト教の強さを強調している。
「欧米各国未タ一人ノ無宗旨ナル者アルヲ聞カズ。欧諺(おうげん)無頼ノ者ヲ斥シテ、『オーム(homme=人)、サン(sans=無)、ルリジョン(religion=宗教)』ト云、無宗旨ノ人ト云フ意也」〔欧米各国では無宗教者を名乗る者は聞いたことがない。そういう人はhomme sans religion(無頼の者)という〕
⇒こういう書き方をしているところから見て、黙雷は、日本には(自分達も含めて)ほぼ無宗旨の人しかいない、という認識だったと想像したくなる。(太田)
国民がひとつの宗教を拠りどころにして文明国家をつくりあげている–。
そのうえで、政治の宗教介入を許さない政教分離を敷く。
この国家と宗教との関係性こそが、成熟した国家のあり方であり、グローバルスタンダードであった。
認識を新たにした岩倉使節団や黙雷らは、欧州をモデルとした「日本の宗教」の再構築に動きだす。」(40~41)
⇒そもそも、江戸時代に、行政機関化、かつ、僧侶達の生活と金儲けの手段化、してしまっていたところの、仏教各宗派が仮に合同できたとしても、今更、自分達僧侶達を含め、大方の日本人を敬虔な仏教信徒にした上で仏教を国教化するなどということは不可能だし、そもそも、合同自体が不可能である以上、特定の宗派を国教化することなどもっと不可能だ。
となると、教義宗教ではないが、ほぼ全日本人が「祀って」いるところの、神道、を無理やり国教化した上で、政教分離を敷くしかない、と、黙雷は考えた、と、私は推察している。
それにしても、黙雷が、まるで国家公務員のように、日本政府の事実上の最高権力者である木戸孝允(注68)に国家施策の提言を内容とする報告書を上げたことを、鵜飼が詮索した形跡がないことは不思議だ。
(注68)「明治4年(1871年)6月、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視・三条実美らから、木戸がただ1人の参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじる木戸は、これを固辞し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ」と応じ、薩長土肥1人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。しかしこの体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。・・・木戸は海外視察へ出かけていたただ1人の参議であ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
私の大胆な想像では、島津斉彬は、倒幕後の日本の宗教政策も、極秘で西郷隆盛や大久保利通に示唆していて、それは、黙雷の上出報告書の内容を先取りしたようなものだったのではなかろうか。
そして、維新後、これを実現するために、西郷、大久保の両名は、真宗本願寺派の大谷光尊に対し、趣旨を説明した上で、1871年(明治4年)11月に出発・・岩倉の帰国は1873年9月・・する岩倉使節団の事実上の一員として、同派の然るべき僧侶達を欧州、エルサレム、インド視察旅行に派遣するよう求め、光尊がそれを承諾した、と。
こうして、黙雷と赤松連城の2人を1872年に欧州へと旅立った、と。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E9%BB%99%E9%9B%B7 ←事実関係
恐らく、真宗本願寺派に白羽の矢を立てたのも島津斉彬だったろう。
というのも、「島津家中興の祖といわれる島津忠良ハ明応元・一四九二l永禄十一・一五六人・・・)は「魔のしよいか天眼おがみ法華しう<(注69)>一向しうにすきのこさしき」と詠じ、キリスト教・日蓮宗・真宗に対して嫌悪感をあらわにして」おり、「慶長二年(一五九七)、島津義弘は再度の朝鮮出兵に際して二十二ケ条を置文して、その最後の条でご向宗之事、先祖以来御禁止之儀ニ候之条、彼宗駄になり候者は曲事たるへき事」として真宗禁止令を発布し<、>ここに真宗は正式に禁止され<、>その後、しばしば禁止令は発布され、また宗門取締りの制度も確立整備され真宗禁止政策は明治九年に至るまで一貫したのであった。・・・
(注69)薩摩藩も、江戸時代においては、幕府が禁じていた不受不施派は別として、日蓮宗は禁じられていたわけではない。
「旧薩藩<には、>・・・日向・佐土原に・・・法華宗吉祥寺がある。・・・鹿児島城下には法華宗正建寺がある。・・・指宿市新西方に正建寺21世日潤が開いた日潤寺がある。・・・松原町に千葉県市川市の日蓮宗大本山法華経寺末の教王寺がある。」
http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/kagoshimamingu/summary201203-1.htm
幕末期の天保六年(一八三五)に至ると門徒の取締りが大規模に行われて本尊二千幅・門徒十四万人が摘発されて弾圧も苛酷を極めた。」
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%8F%B7/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%8F%B7%E3%80%80002%E6%98%9F%E9%87%8E%E5%85%83%E8%B2%9E%E3%80%8C%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%B0%81%E5%BB%BA%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%A8%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A6%81%E5%88%B6%E8%A3%BD%E4%BD%9C%E2%80%95%E2%80%95%E7%96%91%E5%BF%83%E6%9A%97%E9%AC%BC%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E9%86%B8%E6%88%90%E2%80%95%E2%80%95%E3%80%8D.pdf
という次第であり、誰も、薩摩藩出身の西郷や大久保が浄土真宗の宗派にこんな依頼をするとは思わないはずだ、とも島津斉彬は付け加えていたのではなかろうか。
では、どうして大谷派ではなく本願寺派だったのか?
それは、当時の大谷派の21世法主大谷光勝が、たまたま、近衛忠煕の猶子(コラム#10885)だったからだろう。
近衛家と島津家が事実上一心同体であることは当時の常識であった以上は、大谷派に依頼するわけにはいかなかったと見る。
もっとも、その結果、依頼されたところの、本願寺派21世法主大谷光尊、の妻は大谷光勝の娘で長女が大谷光勝の養女になっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A
光勝よりも光尊の方がかろうじてふさわしかった、程度の話だが・・。
で、黙雷の報告書が木戸孝允に提出されたのは、実質的理由として提出相手が大久保では拙かった上に、形式的理由として木戸が岩倉使節団中の唯一の参議であったところの、岩倉に次ぐナンバー2の全権副使だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
から、だろう。
同じ時期に、地理的意味での欧州にいた、黙雷と大久保は会って黙雷が作成した報告書案の内容を調整した上で、黙雷が報告書を木戸に渡したのではなかろうか。(後出参照)
ちなみに、大谷光勝の六女の梭子(おさこ)が、岩倉具視の三男の岩倉具経の妻になっているが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%8B%9D
具経と梭子の長男が1880年に生まれている
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who1-116
ことから、この2人は使節団が帰国してから結婚したのだろうが、この時の縁ではなかろうか。
(この岩倉梭子は、夫の具経を早くに失うが、1891年に淑徳婦人会の会長に就任し、淑徳女学校の日本、朝鮮半島、支那の女子教育を推進している。
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjru-PWjsz8AhVmr1YBHTGiBp8QFnoECAcQAQ&url=https%3A%2F%2Fshukutoku.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1792%26item_no%3D1%26attribute_id%3D21%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3qP21xY6aqwgGcbOaMY2Nn )(太田)
[神祇官・神祇省・教部省]
「神祇官<は、>・・・令制下にあって神祇の祭祀関係を司る官庁。「かんつかさ」とも読む。太政官と相並んで独立した一官であった。律令の母体となった唐令には神祇に関する制度はなかったので,日本独自の制度であろう。大宝・養老令制 (→大宝律令 , 養老律令 ) に規定がみえる。『日本書紀』天武天皇紀に「神官」とみえるが,これは神職の意味ではなく,神祇官の前身であった。・・・
法制上は太政官と並ぶ最高機関だが,それより規模は小さくて所管の省・寮・司がなく,行政上は太政官に指揮された。四等官は伯(かみ)・副(すけ)・祐(じょう)・史(さかん)。中世以後衰退し,職務は白川(皇族出)・中臣(なかとみ)・斎部(いんべ)・卜部(うらべ)氏らが世襲した。1609年卜部の子孫吉田氏が京都の吉田神社を神祇官代(だい)として朝廷の祭祀を行った。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98-81455
「神祇を祭り、諸国の祝部(ほうりべ、神主や禰宜の下の神職で神戸から選ばれた)の名帳(名簿)や神戸の戸籍の管理、大嘗祭・鎮魂祭の施行、巫(かんなぎ)や亀卜を司った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98
「祭政一致をスローガンとして成立した明治維新政府は、神祇官の再興を企て、1868年(慶応4)1月17日神祇事務科、翌月3日神祇事務局を置き、閏4月21日太政官の下に神祇官を置いた。さらに翌年7月8日これを太政官から独立させて上位に置き、また職制も令制に倣って伯(初代神祇伯は中山忠能<(注70)>(ただやす))以下を置くことによって、名実ともに神祇官を復活した。
(注70)1809~1888年。明治天皇の外祖父。かつての公武合体派で、「慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E8%83%BD
ただしその職掌には、令制にはない宣教と陵墓の管理が付け加わった。この神祇官の下でいわゆる神道国教化政策が展開されたが、「近代化」政策の推進のなかで、71年8月神祇省に格下げされた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98-81455 前掲
⇒明治新政府は、中央政府機構を取敢えず律令制の原点に戻そうとし、神祇官も復活させたわけだが、伯には維新において大きな功績があった公卿、かつ明治天皇の外祖父である中山忠能を神祇官のトップの伯に就けると共に、国学好き故神道に詳しいと目された、津和野藩主の亀井茲監を実質的な伯、同藩士の福羽美静を実質的な最高責任者とし、神祇官の職掌に史上初めて加えた宣教と陵墓の管理、とりわけ(徳川幕府の仏教国教化/国家機関化政策によって弱体化していた神道復興、国教化を期して)宣教に当たらせようとした・・というか、国が神道を宣教するのだから、神道は既に国教になっているわけだが・・のだろうが、この動きに懸念を抱いた西郷と大久保、とりわけ、71年11月に岩倉使節団の一員としての出立を控えていた大久保の異議申し立てを受けて神祇官の格下げが行われた、ということではなかろうか。(太田)
「<この>神祇省<に>卿(きょう)は置かれず、大輔(たいふ)は福羽美静<(注71)>(ふくばびせい)。
(注71)1831~1907年。「津和野藩士・福羽美質の長男として生まれる。・・・1849年・・・、19歳で藩校・養老館に入学して漢学や山鹿流兵学を学ぶ。津和野藩主亀井茲監<の命を受け、・・・1853年・・・京都に上り、大国隆正の門に入る。この際に国学思想の影響を受けて尊皇攘夷論に関心を抱き、次第に意を国事に用いるようになったとされている。・・・1857年・・・に帰藩し、養老館で教授を務める。・・・1863年・・・、御所に召され孝明天皇に近侍する。八月十八日の政変に際しては、七卿と共に西下し帰藩、藩主亀井に認められ、藩政刷新に尽くすところがあった。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐時には、藩の方針を長州藩寄りにまとめた。そして明治元年(1868年)、茲監が明治維新政府神祇官の要職につくに及び、徴士神祇事務局権判事となり、主に神祇制度確立に尽力した。
明治2年(1869年)には明治天皇の侍講、同年大学御用掛、明治3年(1870年)に神祇大福、明治5年(1872年)に教部大輔となるが、「外国の長所を取り入れるべきだ」との意見に反対意見が続出したため免官され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%BE%BD%E7%BE%8E%E9%9D%99
亀井茲監(これみ。1825~1885年)。「筑後久留米藩の第9代藩主有馬頼徳の六男として江戸で生まれる。・・・津和野藩の第10代藩主亀井茲方の養子となり、・・・茲方の隠居にともない家督を継いだ。・・・
1842年・・・藩政の実権を握ると、岡熊臣を登用して学問を奨励し、さらに江戸深川にある下屋敷を売却するなどして得た1万両を学問関係に投資するなど、学問発展に寄与した。・・・1860年・・・に従四位下に昇叙する。
幕末期は長州藩の隣藩だったことから、佐幕派と尊王派の間を苦慮した形となり、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐には消極的な立場をとり、幕府軍が撤退すると、幕府が目付として残していた長谷川久三郎を長州藩に引き渡して和睦している。以降は新政府への恭順を積極的に示し、・・・慶応4年(1868年)1月には新政府の参与に任じられ、岡熊臣・大国隆正・福羽美静と続く国学系譜を藩内から築いているなど教育関係に秀でた手腕を持っていたことから、神祇事務局判事・議定職神祇事務局輔・神祇官副知事などを歴任し、宗教関係の行政を主に任されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E8%8C%B2%E7%9B%A3
職掌は神祇官時代と変わらず祭祀・宣教のことをつかさどるとされたが、この省の設置は、神祇官の下で展開された神道国教化政策が内外の要因により行き詰まりをみせていることの現れであった。神祇省の下では新たな政策はほとんど行われず、72年3月わずか数か月で廃止され、維新以来の直接的な神道国教化政策はその終止符を打った。なお、祭祀関係は太政官の式部寮に、宣教関係は新設の教部省に移された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E7%9C%81-536920#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
「明治政府は維新以来の直接的な神道国教化政策を手直しするために、1872年(明治5)3月14日神祇省および大蔵省戸籍寮社寺課を廃し「教義ニ関係スル一切ノ事務ヲ統理スル」機関として教部省を設置した。初代の卿は嵯峨実愛<(注72)>(さがさねなる)、大輔(たいふ)は福羽美静(ふくばびせい)。
(注72)明治3年(1871年)12月に正親町三条実愛から改名(1821~1909年)。「1858年・・・、江戸幕府が朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。これによって井伊直弼による安政の大獄に連座する。・・・1862年・・・に国事御用掛に就任。しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌・・・1863年・・・に失脚する。
同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B
⇒律令制復活/神道国教化追求勢力は、名を捨てて実をとるべく、宣教に専念することを標榜する教部省を、改めて、中山同様、維新において大きな功績があった公卿である嵯峨実愛をトップ(卿)として設立したわけだ。(太田)
政府はこの<教部>省の下で<明治5年(1872年)>に「三条の教則」を定め、神官のみならず僧侶などを教導職に任命、また神仏合同の教院を設けて、天皇思想を国民に広める一大教化運動(大教宣布<(注73)>運動)を展開した。
(注73)「明治維新政府の神道による国民教化政策。新政府は1869年(明治2)宣教使を置き、同年10月9日これを神祇官の付接とした。この宣教使は同年3月に設けられた教導局の後身ともいうべきもので、キリスト教防御と神道による国民教化を目的として設置されたものである。翌70年1月3日には神祇官神殿の鎮祭が執行され、あわせて「宣布大教詔(せんぷたいきょうのみことのり)」が下され、宣教使に「宜(よろし)く治教を明らかにし、以(もっ)て惟神(いしん)の大道を宣揚すべき」ことが命ぜられた。
この「宣布大教詔」によって宣教使は国民に「惟神の大道」を教化することになり、1870年3月には各府藩県にも宣教掛(かかり)が置かれて全国的な大教宣布運動が行われる基盤ができた。しかし、宣教使官員の少なさや教義の未確立、あるいは府藩県宣教掛の能力不足、消極性もあって、宣教使の大教宣布運動は終始不振で、かろうじてキリスト教徒が多い長崎県に宣教使を派遣して宣布を行ったにとどまった。同県では、同時に氏子改(うじこあらため)がかりに施行され、大教宣布と相まってキリスト教防御が期待されたが、みるべき効果はなかった。
このような状態を打破するため、神祇官、宣教使および政府首脳は、1871年後半から仏教・儒教をも取り込んだ一大国民教化運動を展開することを企て始め、翌72年3月に神祇省、宣教使を廃して神仏両教を管する教部省を設けた。4月には国民教化の任にあたる教導職が設けられ、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴(ほうたい)という三条の教則を宣布させることにした。この教導職による大教宣布運動は、神官、僧侶および一般教導職を動員して大々的に展開され、多くの聴聞者を集め、当時の文明開化路線にも一役買った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%95%99%E5%AE%A3%E5%B8%83-91002
⇒そして、速やかに、宣教、すなわち神道国教化、を期した「三条の教則」を制定したので、旅先の大久保は激怒した、と、私は想像している次第だ。(太田)
しかしながらこの運動は、欧米諸国の批判や国内における啓蒙思想家、仏教徒やキリスト教徒による信仰自由論によりまもなく挫折し、教部省も77年1月に廃止され、宗教行政は内務省社寺局で扱われるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E9%83%A8%E7%9C%81-478938
「黙雷はフランスに滞在中、すでに発効していた「三条教則」を批判する建白書を作成して、帰路につく由利公正に託し本国に送った。・・・
三条教則は、「第一条 敬神愛国ノ旨を体スベキ事」「第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事」「大三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨(ちょうし)ヲ遵守セシムベキ事」からなる。・・・
黙雷は、たとえば「敬神愛国」の理念が、宗教(敬神)と政治(愛国)を混同していると批判。
第三条の「皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」についても、宗教指導者である天皇が政治に介入することは間違いであるとした。
黙雷の政教分離の考えは、間近であった「信教の自由」解禁に際し、政治の力ではなく、仏教主導でキリスト教を抑え込む目的があったと考えられる。
黙雷はロンドンやパリなどで木戸孝允と30回ほど面会し、様々な議論を交わしている。・・・
⇒木戸に会っていたのもウソではないのだろうが、私は、それはアリバイ作りのためであって、黙雷は、間違いなく大久保とも会っていたはずで、大久保との面談こそ使節団との接触の最大の目的だった、と見ている。(太田)
キリスト教が欧米諸国に文明をもたらし、強くしていったのと同様、日本の文明開化を牽引するのは真宗教団であることを、欧州の宗教の現場を数多く視察した黙雷は確信したのである。・・・
⇒ここには直接的な典拠が付いていないが、仮に典拠があったとしても、それは黙雷によるメーキングだ、ありえない、と断言しておく。(太田)
<政府は、>1872(明治5)年4月、「僧侶の肉食妻帯蓄髪の自由」を布告する。
翌年には尼僧にたいしても、同様の布告をした。・・・
さらに、僧侶が市中に出向いて喜捨をすすめる托鉢が禁止になった。
・・・ほかに女人禁制が解かれた・・・のが同年。
これまで山岳密教系の寺社では、女人禁制が敷かれていることが多かった。
この女人参拝の解禁の意図は、欧米諸国の「女性蔑視」との非難を回避する目的や、修行の妨げになる女性を山に入れることで仏教の世俗化を世間に見せつけることにあった。
さらに同年6月には僧侶の”専売特許”であった葬儀の執行が、神職にも認められた。。
神葬祭は土葬が原則だ。
翌1873(明治6)年7月には仏教的な葬送である火葬が禁止になり、全面的に土葬(神葬祭)に切り替わった。
その結果、東京では墓地不足が生じた。
それで、青山霊園や雑司ヶ谷霊園、谷中霊園などの巨大な都立霊園ができたのである。・・・
政治介入による仏教界の俗化によって相対的に神道のポジションは上がり、仏教の神秘性は著しく低下した。
この時、明治政府は「神道非宗教」化に舵を切っていた。
つまり、現人神天皇を頂点とする国家神道と、仏教やキリスト教、教派神道系の新宗教の間に明確に線を引いたのである。
この神道非宗教論によって、神道による祭政一致とは整合性が保たれた。
一方で、神職が宗教行為である神葬祭にかかわることへの矛盾が生じた。
そのため、1882(明治15)年には神職は葬儀に関与しないことになった。」(36~47)
⇒既に記したように、仏教ないし仏教の特定宗派の国教化は不可能である以上、神道の国教化しかないところ、そのためには、(神仏習合がなかった宗派を除き、)神仏分離を行う必要があり、しかも、江戸時代の、国教化/国家機関化していたことから、弱体化していたところの、神道、を活性化し強化するための宣教を行う必要があるけれど、そうすると、欧米諸国において確立していたところの、信仰/宗教の自由への挑戦になってしまうことから、神道非宗教論を打ち出すよりなかった、ということだろう。
もっとも、私は、そんなことは、もともと、島津斉彬が描いていた構想通りのはずであり、大久保は、浄土真宗本願寺派を使って、この方向へと誘導していった、と見ているわけだ。(太田)
「こうした一連の仏教への俗化政策とともに、政府はこれまで続いてきた仏教の民衆強化の伝統やネットワークを利用しようとした。
たとえば僧侶は神職よりも説法に長け、葬送儀礼を通じて民衆とは密接な関係だった。・・・
そこで、政府は既存の寺院や神社を使って「教院」と呼ばれる、民衆教化の使節を設置する。
教院には三つの種類があった。
地域の寺社に小教院を、各府県単位に中教院を、そして東京の増上寺に中央機関である大教院<(注74)>を置いた。
(注74)「神道による国民思想の統一を目ざす明治政府の大教宣布運動の中央機関で、教導職の研修の道場。1872年(明治5)3月、教部省が設置され、教導職を擁して国民教化運動が展開されることになった。そこで仏教教導職は教義・布教の研究のため、翌73年神官教導職と合同で東京・芝の増上寺内に大教院を建設し、各府県に中教院を置き、各社寺を小教院とした。しかし、当初仏教側のペースで進められていた大教院体制は、大教院に神殿が設けられたことによって「神主仏従」の形態を呈するに至り、ことに神祇不拝を伝統とする真宗西本願寺教団からは強い不満が出て、東京の大教院および地方中教院での神仏合同布教に反対した。結局、この真宗教団の主張は政府においても認めるところとなり、75年5月大教院は解散された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%95%99%E9%99%A2-90996
大教院では神職とともに仏教者も混じって尊王愛国教育にかかわり、教導職の育成や試験、教学研究、神道儀式、説教などがカリキュラム化された。
大教院(増上寺)の山門には白木の鳥居が設置され、山門内の羅漢像が取り除かれた。
本堂からは本尊阿弥陀如来像が撤去された。
神殿が据えられ、注連縄が張られると、・・・造化三神(天地開闢の神)と天照大神が祀られた。
降神式では西本願寺門主の大谷光尊(明如)が柏手を打つ風景もみられた。
大教院(あるいは中教院、小教院)は矛盾だらけであった。
なぜなら、政府は神仏分離令を発し、神社と寺院を明確に分けよと命令していたのに、政府主導で再び神仏合同の使節をつくってしまったからである。
かつては寺院が神社を支配する「仏主神従」の構造であったが、その立場が入れ替わり、「神主仏従」になっただけであった。
黙雷は帰国して・・・そんな大教院を「一大滑稽場」と揶揄し、独自の政教分離思想に基づいて「大教院分離建白書」を提出する。
1873(明治6)年12月、浄土真宗本願寺派をはじめ真宗四派が大教院離脱を表明した。
1875(明治8)年5月には増上寺の大教院は解散となり、政府主導での教導職も廃止になった<が、>各地の教院では引き続き、三条教則が説かれ続けた。
しかし、この大教院・・・を仏教界は大いに参考にした。
各宗派は・・・大教院のもつ行政機能<と>・・・僧侶養成機能を・・・大いに参考にし・・・宗務庁<などといった>・・・行政機能<、や、>・・・大教院、大学林、大教校などといった・・・僧侶養成<機関を>・・・保持するようになった。・・・
<諸外国からの要請もあり、>1875(明治8)年には、教部省が信教の自由を口達、キリスト教の布教を黙認せざるを得ない状況になっていた。・・・
信教の自由が明文化されるのは、1889(明治22)年、大日本帝国憲法の発布による。・・・
そのわずか2年後の1891(明治24)年、・・・内村鑑三不敬事件<(注75)>・・・が起きた。・・・
(注75)「内村は1890年(明治23年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、その年は10月30日に第一次山県内閣のもとで教育勅語が発布された年でもあった。翌1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
東京帝国大学教授の井上哲次郎が激しく内村を攻撃したことで有名である。
日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝は許されると主張したが、日本基督教会の指導者植村正久はこれを認めなかった。植村は「勅語に対する拝礼などは憲法にも法律にも教育令にも見えないことで、事の大小を別とすれば運動会の申し合わせと同様のもの、このようなことが解職の理由になるのは不合理だし学生のモッブ然とした内村糾弾運動を放置し迎合するのは教育上もおかしい」という論陣を張ったが、さほどの影響はなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89%E4%B8%8D%E6%95%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「1891年・・・井上哲次郎・・・は政府の意を受けて・・・「教育勅語」・・・の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版した。さらに1893年『教育と宗教の衝突』を刊行し、内村鑑三不敬事件などを取り上げ、「要するに、耶蘇(ヤソ)教は元(も)と我邦(わがくに)に適合せざるの教なり」とキリスト教を反国体的宗教として激しく批判した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%93%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E-31928
<この>事件は結果的に、わが国におけるキリスト教が国家主義的性格を帯びるきっかけにもなった。・・・
キリスト教の国家主義化は、仏教の国家観にも刺激と焦りを与え、より積極的に「国家への忠誠」を誓うことになる。」(47~52)
「仏教界において大陸進出の先陣を切ったのは、やはり真宗教団であった・・・。
その嚆矢は、豊後出身で、真宗大谷派僧侶の小来栖香頂<(注76)>(おぐるすこうちょう)ともいわれている。
(注76)1831~1905年。「豊後国(大分県)妙正寺了堅・・・の子。幼少のころより漢学に親しみ,・・・1844・・・年儒者広瀬淡窓の門に入る。・・・1852・・・年東本願寺学寮に入り,明治1(1868)年には擬講に進んだ。翌2年に真宗宗名廃止の府令に反対運動を推し進め,宗名回復の公布を得た。同3年,東本願寺の北海道開拓事業の推進を建言,大谷光塋(現如)に随行して北海道に赴いた。同6年の<支那>旅行で,当地の仏教衰微を感じて開教を決意,同8年,東本願寺当局の理解を得て再び訪中,上海・・・東本願寺・・・別院を建てて開教に着手したが,中風をわずらってすぐさま帰国,療養後は監獄布教や婦人会の設置に努めた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E6%A0%96%E9%A6%99%E9%A0%82-17751
香頂は東本願寺の北海道開拓を進言し、現地に<第22世法主>大谷光瑩<(こうえい)(現如)>に随行した皇道派の僧侶だった。・・・
<その>香頂が最初に清に渡ったのが1873(明治6)年。
1年間、北京に滞在した。
渡航に際し、長崎の黄檗宗聖福寺に入って中国人僧侶から中国語を修得している。
香頂の目的は、日本と中国、インドの三国で仏教同盟を結んでキリスト教を排することにあった。
明治6年といえば、増上寺に大教院が開かれた年である。
真宗の動きとしては西本願寺の島地黙雷による洋行に追随する形で、東本願寺も使節団を派遣。
東本願寺使節団が帰国する直前に、香頂は清に渡っている。
⇒東本願寺というより、法主たる大谷光瑩自身の見聞を広げるための、彼の遅ればせながらの、単なるグランド・ツアー
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%20%E5%85%89%E7%91%A9-1640569
だったと思われる。(太田)
政府要人との関係性は西本願寺に軍配が上がるものの、大陸布教については東本願寺が先鞭をつけたとみてよいだろう。・・・
⇒鵜飼は「大陸布教」と書いており、「注76」でも同趣旨のことが書かれているが、大久保の意向を受けたところの、事実上の国家施策・・対キリスト教日支印仏教同盟の構築、併せて、支那等渡航日本人檀家のテイクケア拠点の確立・・が主目的であり、布教目的というのは名目だろう。(太田)
香頂は・・・1876(明治9)年に、再び・・・上海に渡って8月、東本願寺上海別院が落慶、入仏式が執り行われた。・・・
<これは、>北海道開拓<(注77)>時と同様の布教と位置付けられる。
(注77)「明治政府は、明治二年(1869年)に北海道の本府を札幌に置くことを決めたのだが、札幌と函館を連絡する道路が必要になっていた<ところ、>・・・政府<の>者から東本願寺を特に名指して半ば<その道路の建設を>命令した・・・ように思われる。・・・
東本願寺に<その申し出を受けた形で>北海道の開拓を命じた同日に<浄土宗の>増上寺に対して北海道静内郡及び積丹等の土地の開拓を命じており、さらに十二月三日には<真宗佛>光寺<派>に北海道後志、石狩の地の開拓を命じていることが書かれている。
新政府は、廃仏毀釈で廃寺にされるかも知れない寺院の危機をしたたかに利用して、寺院や信者の寄進による金で、北海道の開拓をはじめようとしたということではなかったか。」(「しばやん」氏のブログより)
https://shibayan1954.com/history/meiji/haibutsukishaku/higashihonganji/
「しばやん」氏のプロフィール。↓
https://honto.jp/netstore/search/au_1002532026.html
しかし、次第に深まる帝国主義化の波は清国開教区にも押し寄せる。
1886(明治19)年には上海別院で孝明天皇の天牌が祀られ、2年後に盛大な奉安式が挙行された。・・・」(55~58)
⇒「注77」での「しばやん」氏のヨミに私も賛成であり、そのようなヨミも踏まえれば、北海道開拓時と同じ香頂の支那渡航もまた、政府の事実上の指示を受けてのもの、で決まりだろう。
だから、上海別院落慶から10年目、12年目の孝明天皇がらみの行事は、別段、時代の変化を反映したものではなかろう。(太田)
「1900(明治33)年6月、上海別院で初めて、真宗僧侶による義勇兵が誕生した。
この義勇兵(僧)は・・・井澤勝什(しょうじゅう)と、ほか4名の大谷派の僧侶である。
折しも義和団の蘭(北清事変)が起き、現地で義勇兵の募集がかかり、井澤らは応募したという。・・・
⇒殺生戒を僧侶が無視できる浄土真宗が仏教の宗派ではありえないことを、この挿話もまた、端的に示しています。(太田)
日露戦争・・・の頃になると、「国家と仏教の関係」を説く学者が、続々登場し始める。
当時、鈴木大拙<(注78)>など国内では複数の著名な仏教学者らが活動していた。
(注78)1870~1966年。「宗派<は>臨済宗<。>・・・「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。・・・
大拙は仏教の核心に、・・・悟り・・・霊性[=spirituality]の自覚・・《即非の論理》の体得・・を見出した。・・・
[鈴木大拙は、神道は日本民族の原始的習俗の固定化したものにすぎず、「霊性」に触れてもいないとした。なお、鎌田東二は鈴木大拙の霊性論は偏っていると批判し、禅や念仏だけでなく神道にも普遍的霊性が胚胎しており、日本的霊性を見出すべきであるとしている。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%80%A7 ([]内)
⇒日本人は基本的に全員既に悟っているとの私の主張に照らせば、鈴木大拙の以上のような主張は尽く完全に誤りだ、ということになる。
(神道も臨済宗も、その主たる存在意義は、曇った(傷ついた)悟りの修復にある、という私見も、この際、想起されたい。)
そうである以上、「注」に登場する鎌田の大拙批判もまた的外れだということになる。(太田)
彼らは、もれなく戦争を正当化する論陣を張った。
「宗教は国家を体として存すべく国家は宗教を精神として発達すべしとせば此問題を解釈するは容易の事也」・・・
⇒大拙が、(縄文的弥生人が率いていたところの)当時の日本という国家が行うもののみ、戦争は正当化できる、と、唱えたとすれば同意だが、そうではなさそうな気がする。(太田)
明治の仏教界に大きな影響を与えた井上円了<(注79)>も、そのひとりである。
(注79)1858~1919年。「越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。・・・[幼名は岸丸、のちに襲常(しゅうじょう)、得度して円了と改名した。///
石黒忠悳(いしぐろただのり)より漢籍を学び、]16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
1885年(明治18年)に同大学を卒業した後、文部省への出仕を断り、東本願寺にも戻らなかった。そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、啓蒙活動を行った。
また、哲学普及を目指し、哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)を設立する。
哲学館事件によって活動方針を見直し、1905年(明治38年)に哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざかる。その後は豊多摩郡野方村にみずからが建設した哲学堂を、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動の拠点とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%86%E4%BA%86
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%86%E4%BA%86-15455 ([]内)
哲学館事件。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
井上は越後の真宗大谷派の慈光寺に生れ、哲学館(現・東洋大学)を創設した学僧である。・・・
井上は日露開戦の機運が高まると、『対露余論』を著した。
そこで、僧侶や仏教信者が戦争に関わることの正当性を、激しい論調で語っている。・・・
井上は、仏教は慈悲の教えであるが、今を生きる人間のための教えでもある。
よって、人のために戦うのは、本来の仏教の教えにかなうものといえる。
もし日露間で戦いが起きることがあれば、仏教者が進んでロシアと戦うのは当然のことだ。
仏の恩に報いるためには、このほかに選択肢はない、と論じた。
さらに、この戦いは国家と国民の生活を守ることはもちろん、中国・朝鮮などの戦地に展開する兵士らを救出する仏修行ととらえたい。
キリスト教を国教とするロシアは日本の敵であるだけではなく、仏教の敵でもある。
仏教が日本に根付いているのは、聖徳太子以来、歴代天皇が仏教に帰依して庇護したからにほかならないのであり、仏教者は仏と天皇の恩に報いるため、死を覚悟して戦うことは当然のことだ–として、キリスト教対仏教の対立としても、対露戦争を肯定したのである。」(62~66)
⇒『対露余論』が、「キリスト教や欧化的風潮、仏教僧侶の腐敗に対して、『真理金針(しんりこんしん)』(1886)、『仏教活論(序論)』(1887)を著して警醒(けいせい)に努めた。・・・『仏教活論』の主張は、倶舎(くしゃ)の哲学は唯物論に、法相(ほっそう)の阿頼耶識(あらやしき)はカントやフィヒテの絶対主観に合致し、これらを統一したものが天台の中道(ちゅうどう)思想であること、大乗思想は西洋の最大幸福説と同一に帰するとすることなどで、キリスト教に対して仏教の優位を説き、明治仏教界に多大の影響を与え、仏教復興の端緒となった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%86%E4%BA%86-15455
という井上の思想の中にどのように位置づけられるのか、詳らかにしないが、私の目には、真宗の伝統的な真俗二諦の法義(前出)、に、真宗大谷派の歴代法主に注入されてきたところの、秀吉流日蓮主義、をトッピングしただけのように見える。
しかし、戦国時代ですら顰蹙を買ったところの、仏僧の武士化を、明治にもなって再び唱えたことは、強く批判されなければなるまい。
いずれにせよ、真宗大谷派自体と井上とは切り離して受け止めるべきだろう。(太田)
「1904(明治37)年2月10日、日本とロシアはともに宣戦布告する。
すると、翌11日には真言宗が各本山の長谷寺、智積院、高野山金剛峰寺、東寺で不動明王を前に、護摩(不動明王などに対し、供物を火中に投じて捧げる儀式)を実施して戦勝を祈願した。
日蓮宗でも深川の浄心寺、池上本門寺、身延山久遠寺、堀之内妙法寺などで戦勝祈願の祈禱が行われた。・・・
⇒こんなものは、全て儀礼の範囲内の話だろう。(太田)
浄土真宗本願寺派<は、>・・・宣戦布告のその当日、全10条からなる「従軍布教師条例」を発布した。
布告当日に条例の作成と発布は不可能なので、戦前に条文は周到に練られ、宗門内で討議が重ねられていたとみてよいだろう。・・・
第四条 布教事務は左の如し 一 軍人軍属に対する説教法話 二 志望者に対する葬儀及び追弔法要 三 傷病者の慰撫 四 本山より特に命じたる事項又は所属司令官及び関係部隊長より委嘱を受けたる事項・・・
第四項がいささか微妙だが、兵士として活動することまで含まれると読むのは困難である以上、欧米諸国の従軍神父/牧師等と同様の役割が予定されているのであって、宣戦布告と同時の発布は、中身も含めて政府からの事前の要請を受けてのものであったことを示唆している。(太田)
<また、>日露開戦直後には陸軍は「僧侶教師従軍ニ関スル件」を通達、各宗派の管長にたいし、宗派を超えて、戦時協力体制を敷くよう命じている。・・・
それを受けて、神道関係者や仏教関係者(島地黙雷ら)、キリスト教関係者、宗教学者らが共同で発起人になり、「大日本宗教家大会開催趣意書」を取りまとめた。・・・
この趣意書に基づき5月16日、東京・増上寺内の弥生館で宗教横断による日本宗教大会が開催され、そこで、次のような<趣旨の>共同宣言が発せられた。・・・
日露戦争は、わが国の安全と東洋の平和の実現のためであり、世界の文明や人道のためである。決して、宗教や人種の違いに関係なく、互いに公正の信念に訴え、この戦争の真実を世界に表明して、すみやかに平和を実現したいものだ<、と。>・・・
日露戦争では仏門出身の女性による、婦人運動が初めて展開され、その後の大東亜戦争の銃後運動にも大きな影響を与えた。
その指導的人物とは、唐津市の真宗大谷派高徳寺出身の坊守(ぼうもり)(浄土真宗の寺<属>の女性)、奥村五百子<(注80)>(いおこ)である。・・・
(注80)1845~1907年。「父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、・・・1862年・・・には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。・・・
五百子は広岡浅子と大隈重信の紹介で知り合ったが、初対面ですぐに意気投合し、「万事相談相手として互いの長所を認め合う仲」となった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%9D%91%E4%BA%94%E7%99%BE%E5%AD%90
広岡浅子(1849~1919年)。「三井家六代当主・三井高益の四女として生まれる。・・・17歳(数え年・・・)で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋の第8代広岡久右衛門正饒(まさあつ)の次男・広岡信五郎と結婚。・・・
1888年(明治21年)に加島銀行を設立。続いて1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として大阪の有力な財閥となる。これらの活躍により、広岡浅子は鈴木よね、峰島喜代子(尾張屋銀行、峰島合資会社の経営者)らと並び明治の代表的な女性実業家として名を馳せる。・・・
広岡家、実家の三井家一門に働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導く。日本女子大学校の発起人の一人であり、創立当初の評議員となる。また夫(広岡信五郎)は女子大学校の創立委員の一人である。・・・
愛国婦人会大阪支部授産事業の中心的人物としても活動した。・・・
1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗。・・・日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B2%A1%E6%B5%85%E5%AD%90
⇒奥村五百子はたまたま「仏門出身」であっただけであり、要は、秀吉流日蓮主義者が、同主義者の元締めたる近衛篤麿、等の支援を受けて愛国婦人会を立ち上げた、ということだろう。
そのことは、奥村の親友で愛国婦人会を一緒に盛り立てたところの広岡浅子が、キリスト教徒だったことが如実に物語っている。(太田)
五百子<が>1901(明治34)年に・・・設立<した>・・・愛国婦人会・・・<の>発起人には当時の女性教育者、山脇房子(山脇学園創設者)、跡見花渓(跡見学園創設者)、下田歌子(実践女子学院創設者)、津田梅子(津田塾創設者)らが名を連ねた。
愛国婦人会は軍部の支援もあり、日露戦争時には45万人の会員で構成される巨大組織になった。
そして、献金、傷病兵の見舞いや兵士の留守家族への慰問など積極的に銃後運動にかかわっていく。」(66~70、72~73)
⇒愛国婦人会は、当時の日本の知的選良たる女性の重鎮全てを網羅する形で発足したと言ってよかろう。
奥村(や広岡)以外は名前を貸しただけだろうが・・。(太田)
「・・・1937(昭和12)年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件(支那事変)が起き<ると、>・・・仏教界は熱狂した。
<そ>の翌日、天台宗の宗教的トップである第247世天台座主の梅谷孝永<(注81)>の動向を記した日記・・・には、・・・昨日、盧溝橋事件が勃発して驚いたが、すぐに皇軍の勝利と国威宣揚を期して大祈禱を行った<という趣旨のことが>・・・書かれている。・・・
「
(注81)「昭和10<年、>・・・延暦寺貫主兼妙法院門跡・天台座主大僧正<は、>私財をもって・・・梅谷奨徳財団<を>・・・設立し・・・、貧しい仏教学生の支援や生活困難者に対する慈善救済事業を<行っ>た<。>」
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=316877756
祈禱が終わると東京に赴き、天皇に御機嫌伺い(天機伺い)に上った。
香淳皇后や大宮御所の貞明皇太后・・・、各皇族に祈禱礼のお守りを指し上げた。
また宮内省や近衛文麿首相、陸軍省、海軍省などへも挨拶し、7月24日に比叡山に戻った・・・。
⇒鵜飼が、盧溝橋事件生起の4日前の7月3日に、「傳教」(伝教)の勅額が昭和天皇から比叡山延暦寺に下賜され、上野の寛永寺で勅額拝戴の式典が行われ、翌4日にこの勅額が根本中道に到着している、
https://www.hieizan.or.jp/_att/jihou/jihou-R01-05.pdf
という事実・・恐らく、だからこそ、梅谷孝永が、とんぼ返りのような形で上京した、というか、上京せざるをえなかったのだろう・・に触れていないのはいかがなものか。
なお、その背景には、天台座主が、第3世円仁の任命から明治4年(1871年)に昌仁入道親王が第231世を辞するまで、太政官が官符をもって任命する公的な役職であり、昌仁入道親王がそうであったように、皇族が就くことも多かったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%BA%A7%E4%B8%BB
がある。
真宗教団では、・・・佛光寺派<(注82)>の管長渋谷隆教<(注83)>は9月1日、・・・薨去に「天機伺い」に訪れたほか、近衛首相や陸海相の元を訪問した。・・・
(注82)親鸞直弟「二十四輩」の第二番<の>・・・専修寺二世、佛光寺二世<たる>・・・真物(1209~1258年)から、それぞれ、高田派、佛光寺派が生まれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E4%BB%8F
(注83)しぶたにりゅうきょう(1885~1962年)。「佛光寺第26代管長渋谷家教(・・・伏見宮邦家親王十五男・・・清棲家教)の子<で、>・・・妻<は>九条篷子(公爵九条道孝の六女で、貞明皇后の同母妹)<。>・・・明治29年(1896年)6月9日、男爵に叙される。なお、このとき同時に東西の大谷家(東本願寺、西本願寺)が伯爵に、木辺家(真宗木辺派)、常磐井家(真宗高田派)、華園家(真宗興正派)が男爵にそれぞれ叙されている(僧侶華族)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E9%9A%86%E6%95%99
⇒渋谷隆教の参内は、宗教家としてと同時に、昭和天皇の親戚としてのものでもあったのではなかろうか。(太田)
曹洞宗で<も>・・・9月18日に・・・管長鈴木天山<(注84)>が参内し、天機伺い。次いで、軍令部総長・・・、近衛首相、陸海相などを歴訪した。
(注84)1863~1941年。「伊勢国桑名郡伊曽島村の花井家に生まれる。その後、5歳で生母と死別、7歳にして出家を志す。・・・
昭和7年(1932)6月・・・朝鮮の京城、博文寺の第一世となり、天津、北京に巡教する。・・・ 昭和10年(1935)7月・・・曹洞宗宗制が更改され、曹洞宗管長に当選する。
昭和15年(1940)7月・・・総持寺貫首(独住第十世)に就任する。同年、9月3日「密傳慈性禅師」の勅號を賜う。」
https://eiheizen.jimdofree.com/%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA69%E4%B8%96-%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A9%E5%B1%B1%E7%A6%85%E5%B8%AB/
日蓮宗管長望月日謙も天機伺いで参内。」(98~100)
⇒この2つは、天台宗と真宗佛光寺派の参内(等)が一種先例になってしまったということもあったのではないかと思うが、いずれにせよ、儀礼の範囲内の話だろう。(太田)
「・・・第一次近衛文麿内閣は1937(昭和12)年8月、戦時協力のための思想教化運動「国民精神総動員」を閣議決定する。
「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンが掲げられ、戦時下における精神発揚がなされていく。
街頭では、「ぜいたくは敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」などの兵庫が掲げられるようになる。・・・
天台宗<をはじめとする>・・・各宗派で<は>法主による・・・国民は銃後運動に勤しみ、辛くとも我慢する信念をもってこの難局を乗り越えてほしいと・・・<いった>訓示が行われた。
同年10月には海軍大将有馬良橘(りょうきつ)が会長をつとめる国民精神総動員中央連盟が結成される。
同連盟には産業界、教育界など74の団体が加盟したが、仏教連合会も名を連ねている。
ほかの宗教団体は全国神職会、神道教派連合会、日本基督教連盟である。
各宗派では従軍僧の増派も行なわれた。・・・
兵士とともに武器を持って前線に立つ僧侶も<真宗本願寺派が典型的だが>少なくなく、失われた命もあった。・・・
日中戦争が始まると一般人と同じく徴兵された僧侶が現地で交戦した。・・・
浄土真宗本願寺派は1940(昭和15)年には、「聖域中の聖域」に手をつけてしまう。
宗祖親鸞が著した『教行信証』や、伝記『御伝鈔』<(注85)>などの一部に、天皇にたいして不敬な文言があるとして、削除訂正したのだ(聖典削除)。・・・
(注85)「浄土真宗の覚如(一二七〇‐一三五一)の著。二巻または四巻。永仁三年(一二九五)の撰述。親鸞の行状を文と絵で交互に記した「本願寺聖人親鸞伝絵」から、文章の部分だけを抄出別行させたもの。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E4%BC%9D%E9%88%94-502826
覚如(1270~1351年)。「本願寺第3世。・・・父は<、>親鸞(しんらん)の孫・・<親鸞の>末娘覚信尼(かくしんに)の子・・<である>覚恵(かくえ)(1239―1307)。・・・法然(ほうねん)(源空)―親鸞―如信(にょしん)(1235―1300。親鸞の孫・・[親鸞の長男で親鸞に義絶された]善鸞の子・・)と相続した三代伝持の血脈(けちみゃく)と、・・・大谷の親鸞祖廟の・・・留守職という名の血統相継とを強調して、・・・廟堂の寺院化を進め,本願寺を名乗るようにな<り、>・・・「本願寺」の傘下に門徒全体を糾合する統率者の地位を不動のものにしようとした<。>」
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%9A%E5%A6%82-460633
https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E9%B8%9E-89005 ([]内)
南京陥落の際には、<例えば、>知恩院<や>・・・西本願寺では・・・祝賀行事を実施した。・・・
インパール作戦・・・では、日本山妙法寺(東京都渋谷区)の従軍僧が現地の宗教戦略に関わった。
日本山妙法寺は大正時代に熊本県出身の日蓮宗僧侶、藤井日達<(注86)>が満州の遼陽で開教寺院を設置した、日蓮宗系の新宗教である。・・・
(注86)1885~1985年。「熊本県阿蘇(現・阿蘇市一の宮町)出身<。>・・・1903年(明治36年)に臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。1912年(大正元年)日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。
1918年(大正7年)10月、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を、静岡県富士市の田子の浦に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)ガーンディーと出会い、非暴力主義に共鳴。
[<なお、>日達はアジア主義者として知られていた笠木良明や頭山満とも親交があった。笠木は法華経の信者でガンジーの崇拝者であった<。>]
第二次世界大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。1954年(昭和29年)、ネルー首相より贈られた仏舎利を納めた仏舎利塔を、熊本駅裏の花岡山山頂に建設。1957年(昭和32年)にネルー首相と会見。また「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%97%A5%E9%81%94
https://jyunku.hatenablog.com/entry/2020/11/14/202009 ([]内)
⇒藤井日達の、終戦を契機とする、秀吉流日蓮主義者から平和主義者への転換は、国柱会会員の石原莞爾の(相対的には鮮明ではないところの)転換と軌を一にするものであり、戦前のガンジーとの交流の賜物ではないことが下掲から分かる。↓
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwi43o2S_MH9AhUaBogKHU90BKEQFnoECAcQAQ&url=https%3A%2F%2Fjyunku.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F11%2F14%2F202009&usg=AOvVaw0gOQxFe0EcaWL1Myyi-mW7
なお、上掲は、それ自体が興味深いので一読を勧める。(太田)
馬島浄圭氏は、・・・「インパール作戦に先立つベンガル湾沿いのアラカン工作戦(イギリス植民地軍の援軍や補給を阻止するため)において、日本山妙法寺の丸山行遼<(注87)>、永井行慈<(注88)>らが、突撃のさなかも団扇太鼓をたたいて唱題し進軍を助け、情報戦にかかわっていることも看過できない。
(注87)「丸山行慈は、・・・チャンドラ・ボースをはじめとした民族運動の指導者とも幅広く交流し、1937年12月のアフマダーバードでのヒンドゥー大協会(Hindu Mahasabha)の大会では、サーヴァルカルに招かれて日本代表としてのスピーチも行なっている。1939年9月には、日本の大陸進出を弁護する意見書を作成すると、ガンディーの手を経てネルーへの意見具申も行なった。それは欧州での開戦によって、イギリスが一方的にインドの参戦を通告したことへの対応をめぐり、会議派執行委員会が紛糾していたさ中のことであった。そもそも、このネルーの対日認識の変更を促す意見具申所を日本の英国大使館が探知したことが、1940年10月の丸山の逮捕、本国送還の切っ掛けとなっていたのである。」(上掲)
(注88)「戦局が苛烈化するにつれて、南機関とアウン・サンらBIA軍も過酷な戦場に赴く機会が多くなっていきます。もちろん、北伐にもBIAは参加し、まるで国家独立を意図的に忘れさせようとするかの如く緊迫した最前線に送り込まれていきます。
その一方で来るべきビルマの独立に先駆け、鈴木機関長は国家の基盤を整備すべく首都ラングーンの治安回復の手を次々と打っていました。
主なものを挙げてみますと、ラングーン市民のための病院の開設、住宅の再建・確保、銀行の創設や日本語学校の開設などでありました。このビルマ全地域における治安回復プログラムの陰の立役者は「ビルマ仏教会」と鈴木機関長の意向を汲み取って尽力した日本人僧侶の永井行慈上人と言われています。」
https://keynoters.co.jp/myanmar10/
この作戦の先遣隊・桜支隊の桜井徳太郎支隊長が、その奇襲攻撃に際し、玄題旗(お題目が書かれた旗)をなびかせ団扇太鼓をたたいて途河を決行し突進したと言う証言も残されている」と記している。」(102~104、112)
⇒浄土真宗本願寺派と広義の日蓮宗の「活躍」は、前者は戦国時代末期~安土桃山時代の一向一揆なる戦争を行った前科があることに照らし、また、後者は宗祖日蓮自身が戦争への参画を肯んじていたことに照らし、それぞれ、歴史的、教義的、に問題はない。
また、戦争目的を持ち出すのは、前者に関してはかつてのそれが現世利益目的だったのだから何をかいわんやだし、後者に関しては、(広義の日蓮宗各派全てがそう考えていたかどうかはともかくとして、)昭和期の戦争は日蓮主義に基づくものだったのだからこれまた教義に沿っておりやはり問題はない。
それにしても、少なくとも、日本山妙法寺の戦前の英領インド帝国を舞台にした諸活動への鵜飼の非難めいた筆致は、チャンドラ・ボースやインド国民軍関係者、アウンサンやBIA軍関係者、に対する冒涜以外の何物でもなく、英帝国主義者の代弁者、と謗られたとしても致し方あるまい。(太田)
「・・・1940(昭和15)年<は、>・・・皇紀2600年の節目の年であった<ところ、政府は、>・・・神祇院<(注89)>を設置し、神道による国民教化の本部とした。・・・
(注89)「内務省神社局が昇格し、同省の外局として設置される。・・・総裁は内務大臣が兼務するものと定められ、初代総裁には安井英二内務大臣が就任。副総裁には、飯沼一省神社局長が就任し、廃止までその任に当たった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E9%99%A2
宗教横断的組織(神道、仏教、キリスト教)の大日本宗教報国会<(注90)>が結成されたのもこの頃である。
(注90)「神道・仏教・キリスト教各派<は、>・・・すでに宗教団体法(1939年4月8日公布)によって国家の統制下に置かれていた」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%88%A6%E6%99%82%E5%AE%97%E6%95%99%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A-1359313
が、「大日本宗教報国会は、一九四一(昭和一六)年六月一四日に、大政翼賛会、文部省の後援、神道教派連合会、会大日本仏教会、日本基督教連盟の賛助により、東京小石川の伝通会館(浄土宗伝通院)にて、第一回宗教報国全国大会を開催。大会の協議会では、大政翼賛会で宗教を担当する部門の設置を決議し」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiF7YHkmsL9AhXkpVYBHVLmD7EQFnoECAkQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.musashino-u.ac.jp%2Falbums%2Fabm.php%3Ff%3Dabm00001359.pdf%26n%3DNo.31%25EF%25BC%25882015%25E5%25B9%25B43%25E6%259C%2588%25EF%25BC%2589%25E5%25A4%25A7%25E6%25BE%25A4%25E3%2580%2580%25E5%25BA%2583%25E5%2597%25A3%25E3%2580%2580%25E6%2598%25AD%25E5%2592%258C%25E5%2589%258D%25E5%25BE%258C%25E3%2581%25AE%25E4%25BB%258F%25E6%2595%2599%25E7%2595%258C%25E3%2581%25A8%25E9%2580%25A3%25E5%2590%2588%25E7%25B5%2584%25E7%25B9%2594%25E2%2580%2595%25E4%25BB%258F%25E6%2595%2599%25E9%2580%25A3%25E5%2590%2588%25E4%25BC%259A%25E3%2581%258B%25E3%2582%2589%25E5%25A4%25A7%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E6%2588%25A6%25E6%2599%2582%25E5%25AE%2597%25E6%2595%2599%25E5%25A0%25B1%25E5%259B%25BD%25E4%25BC%259A%25E3%2581%25BE%25E3%2581%25A7%25E2%2580%2595.pdf&usg=AOvVaw3Ina8U2Mc6JE7MiDbjrzOc
、「大日本戦時宗教報国会(1944年9月30日)を結成し<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%88%A6%E6%99%82%E5%AE%97%E6%95%99%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A-1359313 前掲
大政翼賛会が後援する形で、1941年6月には第一回宗教報国大会が開催された。
そこでは、「皇国宗教の本旨を発揚し、以て大東亜共栄圏の建設に邁進し、世界新秩序の樹立に協力せんことを期す」などの宣言が採択された。・・・
浄土宗では・・・月刊誌『浄土』(1942年1月号)<で、>・・・当時の増上寺執事長(事務方トップ)・・・中村弁康は、・・・浄土教を使った皇道仏教の理論を解説している。
「我国の国体は・・・主権・国土・国民・・・が別物ではなく渾然一体となって居るのであり、謂ゆる君民一体の[天皇即国家、国家即天皇』であって、それぞれ一分子として分けることの出来ないものであります。それは四十八願がそのまま阿弥陀仏であり、そのままの衆生であつて区別して考へることの出来ない『阿弥陀国体』と同じ性質のものであつて、むしろ阿弥陀仏国を現実の上に見ると我が国体になるのであります」
つまり、天皇による救済と、浄土教でいう阿弥陀仏の救済とを接合させた、極めて危険な戦時教学を、滔々と述べているのだ。」(162~165)
⇒私は、浄土宗と浄土真宗、とりわけ浄土真宗は、仏教を僭称するカルトだと思っていますが、ここで「滔々と述べ<られ>ている」主張は、鎌倉時代以降の日本の知識層にとって、ごく常識的なものに過ぎず、「戦時教学」といったおどろおどろしいものでは全くない(コラム#13340(未公開)参照)というのに、鵜飼は何たることを宣っているのだろうか。(太田)
「・・・ほとんどの仏教者は皇道仏教に染まり、戦争にたいして直接的、または間接的に関与したのは確かだが、彼等も全体主義の中での被害者であったともいえる。
当時、戦時体制や教団の方針に異を唱える僧侶はいたのか。
探せば、ごく僅かであるが反戦を訴える僧侶もいた。・・・
1910(明治43)年5月25日<に>・・・発覚<した>・・・大逆事件において、3名の僧侶が逮捕されていた。
曹洞宗の林泉寺(神奈川県)重職内山愚童<(注91)>、真宗大谷派の浄泉寺(和歌山県新宮市)重職の高木顕明<(注92)>(けんみょう)、臨済宗妙心寺派泉昌寺(三重県紀宝町)の峯尾節堂<(注93)>である。
(注91)1874~1911年。「36歳没。宮下・管野・新村忠雄・古河力作の4人は計画犯だということが確実視され、幸徳秋水も計画自体は関知していたという説が濃厚だが、内山を含めた他の7人については、大逆罪に関しては無罪であったという説が強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%B1%B1%E6%84%9A%E7%AB%A5
(注92)1864~1914年。「日露戦争では日本でも数少ない非戦論者の一人であり、公娼制度にも反対し、次第に社会主義に接近していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E9%A1%95%E6%98%8E
(注93)1885~1919年。「南紀の寺を転々とする。明治40年大石誠之助と会い、新聞記者を志して上京。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B3%AF%E5%B0%BE%20%E7%AF%80%E5%A0%82-1656031
もうひとり僧侶ではないが、浄土真宗本願寺派寺院出身の佐々木道元という人物もいた。・・・
愚童は・・・幸徳らとともに死刑に処された。・・・
顕明は、死刑判決を受けながら特赦で無期懲役に減刑された。・・・
節堂も死刑判決後、特赦が出されて無期懲役になった。・・・
⇒大逆事件裁判やこの3名の評価はさておき、こんな1910年の話が、どうして、1930~1940年代の「戦時体制」や戦時における「教団の方針」に「異を唱え」たことになるのか、私にはさっぱり分からない。
同様のことが、例えば、1996年に名誉回復されたところの、節堂、の100回忌法要が2018年に行われた際の、導師の「宗派が軍部主導の政治にかかわり、人は平等に尊いというお釈迦様の教えの大本を忘れていた」という言葉
https://www.asahi.com/articles/ASL356CT9L35PXLB010.html
についても言えよう。
いずれにせよ、1910年(?!)の日本が軍部主導の政治下にあった、とはこれいかに、だ。(太田)
目を昭和に転じよう。
戦中は治安維持法違反で繰り返し投獄され、権力と戦った。真宗大谷派を代表する反戦僧侶が常念寺(三重県伊勢市)の住職、植木徹誠<(注94)>(てつじょう)だ。
(注94)1895~1978年。「三重県度会郡大湊町(後の宇治山田市、現・伊勢市)の材木商の家に生まれる。小学校卒業後、上京して御木本真珠店の貴金属職人となり、労働争議に参加する。若いころキリスト教の洗礼を受けたとの情報がある。
妻の実家が、度会郡小俣町(現・伊勢市)の西光寺であった。浄土真宗大谷派の仏門に帰依する。・・・
1929年ごろより、真宗大谷派常念寺住職となる。檀家にて、出征兵士の前で、「戦争は集団殺人」「卑怯といわれても生きて帰ってくること」「人に当たらないように鉄砲を撃つこと」を説く。全国水平社の活動にも参加し、被差別部落の入会権差別に反対して朝熊(あさま)闘争で活躍するものの、治安維持法違反で4年間投獄されることとなる。出獄後は、御木本時代の同僚の世話で東京都足立区西新井の三輪工業に女子寮の舎監として住み込むが空襲で焼け出され、三輪工業の移転に伴って岐阜県関市に疎開。敗戦後、三輪工業の再移転に伴って東京両国に移住。家庭内では妻にたびたび暴力を振るっていたため、等は「世の中では立派なお父さんですねと言うけど、僕も妹も、あんな嫌な親父いないって。どうも、あんまり立派な男とは思いにくくてね」と批判している。
戦後は、民主商工会会長や日本国民救援会支部役員などを歴任。民主商工会も日本国民救援会も日本共産党と共闘関係にある組織で、自身も1962年、日本共産党に入党した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E5%BE%B9%E8%AA%A0
⇒そもそも、戦争を否定する人間が、家康、信長等と戦争をした一向宗、しかも、信長との和解に反対した分派の末裔である大谷派の僧侶になったこと自体がおかしいし、彼は、家庭内暴力を続けたこと、や、戦後共産党員になったこと、等、一種の性格破綻者であり、鵜飼がこんな人物を取り上げざるを得なかったことが、いかに、先の大戦に反抗した僧侶がいなかったかを物語っている。(大東亜)
・・・植木等の父親である。」(228、230~234、236)
「・・・戦後、GHQ・・・は地主と小作人との主従関係を解消させる農地改革を推し進める。
そこで、多くの農地を所有し、小作人の檀家を抱えていた寺院は農地開<(ママ)>放のターゲットにされ、土地がことごとく払い下げられた。
経済基盤を失った寺院は困窮した。・・・
GHQ<は、>・・・寺院を核としたムラ社会の解体<を狙っており、>・・・寺院とムラとを結びつけていたのは農地であった<、ということからも、農地改革を行ったのだ。>・・・
近年に至るも、農地開放の対象となった土地の権利をめぐって、寺と檀家との間で訴訟が相次いでいる。・・・
また、日本の植民地支配が終わると、アジア地域(中国、満州、台湾、朝鮮半島、南洋)における多くの開教寺院は1952(昭和27)年までに一カ寺も残らず、消滅してしまった。・・・」(238~240、244)
⇒中共領域下では弾圧されたとしても、台湾や朝鮮半島でも日本を拠点とした仏教宗派や神道が壊滅したということは、(江戸時代同様)仏教宗派、と、(また、それとは違った意味でだが)神道、とが宗教ではなく、日本国の機関、手先視されていたということだろう。
そのことは、日本発の教派神道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E6%B4%BE%E7%A5%9E%E9%81%93
や新宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%97%E6%95%99
が、中共以外のアジア地域で生き残って現在に至っているケースが多い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99 ←天理教
ことが示唆している。(太田)
「日本の主な教団が戦争責任を表明した時期は遅い。日本基督教団が1967年に教団として初めて戦争責任を表明したが、各教団の表明のピークは戦後50年にあたる1994~1995年である。55年体制が崩壊して非自民党の首相が続いた期間(1993年8月~1996年1月)とも重なる。1993年には河野洋平内閣官房長官が談話(河野談話)で従軍慰安婦に謝罪し、1995年の終戦記念日に村山富市首相が談話(村山談話)でアジア諸国の人々に謝罪するなど、政府によるアジアの人々への謝罪が続いていた。この背景には、1985年のドイツ敗戦40周年を機に西ドイツのワイツゼッカー大統領が連邦議会で「過去を心に刻むように」と呼びかけた演説「荒野の四十年」が世界に感銘を与えたこと、1991年のソ連崩壊により東西冷戦が終結したため日本の戦争責任問題が浮上したこともあるだろう。
過去への謝罪に社会的圧力が高まった時期に、政府と同じような方向性で各教団の戦争責任表明が相次いだことは、国策に沿って戦争協力した姿を彷彿とさせる。・・・
⇒そう言われても致し方あるまい。(太田)
主なキリスト教団では、1967年に日本基督教団(総会議長)、1995年にカトリック(日本カトリック司教団)が表明したということで内外の見方が一致している。
主な伝統仏教教団では、真宗大谷派の宗務総長が日中戦争勃発から50年目に当たる1987年に「全戦没者追弔法会」で戦争協力を自己批判したのが最初とされる。同派は同じ法会で、1990年には伝統教団として初めて法会の趣旨を告げる表白(ひょうびゃく)で、2000年には全文口語体に改めた表白で門首が戦争加担を懺悔した。1995年には、宗議会(僧侶からなる議会)と参議会(信徒からなる議会)でともに、戦争責任を懺悔し、不戦の誓いを表明する「不戦決議」を採択した。以降、「不戦決議」が平和活動の根拠となっていた。
浄土真宗本願寺派は、湾岸戦争を機に1991年に宗会(宗派の議会)が太平洋戦争への協力を懺悔する決議を初めて採択した。1995年には門主が「終戦五十周年全戦没者総追悼法要」で戦争責任を懺悔し、これが後の平和運動の指針となった。
曹洞宗は、民族差別表現などがあった宗務庁監修・発行の差別図書の回収・破棄通知に併せて1992年に出した宗務総長名の「懺謝文」で、過去に関与した侵略と植民地支配についての懺悔を表明した。「懺謝文」は公式サイトで平和活動を紹介する頁で、活動理念のように引用が紹介されており、全文も掲載されている(後述参照)。
浄土宗は、1994年の「太平洋戦争五十回忌法要」で門主が戦争協力への懺悔を表明したが、宗内からは明確な対外的表明とみなされず、2008年の法要「世界平和念仏別時会」で宗務総長が発表した「浄土宗平和アピール」で改めて内外に戦争協力の懺悔を示した。
臨済宗妙心寺派は、禅宗の戦争協力を告発する『禅と戦争』(ブライアン・ヴィクトリア著)を読んで衝撃を受けたオランダ人女性が管長宛てに戦争責任表明を求める書簡を出してきたことや、米国同時多発テロと報復攻撃を批判する前に過去の懺悔が必要と判断されたことから、ハンセン病問題を宗門として看過してきたことへの反省を含めて、2001年に宗議会で「非戦と平和の宣言」を採択した。
日蓮宗は、立教開宗750年となる2002年に、日蓮宗現代宗教研究所所長は『仏教タイムス』で、1948年に宗務総監(現・宗務総長)が東京裁判の判決に対する所見を『日蓮宗宗報』に記したのが教団としての最初の戦争責任表明と説明した。だが、一般紙では日蓮宗は戦争責任を表明していないとみられているうえ、宗門内でも2005年の全国宗務所長会議で「戦争協力への反省を表明しないのか」と問われている。
天台宗では、1994年の『毎日新聞』(11月17日)のアンケートでは戦争責任を公に表明しているとされたが、2001年の『朝日新聞』(12月3日夕)では「ない」とされた。2002年に宗務総長がイタリアでの「世界宗教者平和の祈りの集い」や宗議会の執務方針演説で戦争加担を懺悔したが、宗派として対外的に明確な戦争責任表明はないとされる。
以上、教団の戦争責任を認めて対外的にも明確に表明しているのは、日本基督教団、カトリック、真宗大谷派、浄土真宗本願寺派、曹洞宗、浄土宗、臨済宗妙心寺派となる。」
https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=5631
⇒戦争責任なるものを認めていないところの、天台宗と日蓮宗が、法華経を最高無上の仏典としていること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97
は偶然ではなく、両宗派とも、先の大戦は、法華経に違背しない「正戦」であった、というホンネを抱いている可能性が高い。(太田)
(2)日蓮主義
全般的には、「『日蓮主義とはなんだったのか』<(注95)>を読む」シリーズ(コラム#13264~#13304)(未公開)に譲る。
(注95)「日蓮主義が始動したのは明治中期から後期。ナショナリズムが拡大する一方で、自我の不安と連動した修養主義・教養主義が広まった。日蓮主義は、時代の要請に応じ支持を拡大した。
超国家主義ではナショナルな価値の追求が国家を超えた価値の追求へと繋(つな)がる。究極の国家主義は、国家が体現する絶対的価値によって人類を救済する超国家主義となる。天皇主義に基づく国体によって世界を包みこもうとする「八紘一宇」は、この二重原理に基づき構想された。
日蓮主義は、国家主義的側面と国家を超えた普遍性を同時に有している。大谷が価値を見出(みいだ)そうとするのは、近代的自我の懊悩(おうのう)に手を差し伸べた普遍宗教としての側面だが、ナショナルな特殊性と、トランスナショナルな普遍性は一体の構造を成しており、一方だけを抽出することは難しい。」(中島岳志による、大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』の書評より)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO50890370R11C19A0MY7000/
以下、補足的に、大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』(2001年)より。
なお、日蓮主義なる言葉は田中智学による造語である(コラム#13266)ところ、この「講演」原稿内の日蓮主義は、いちいち、私の言うところの、上からの(昔からの)大日蓮主義、と、下からの(明治以降の)小日蓮主義(コラム#13264)、とを区別していないが、この「(2)」内の日蓮主義は、ことごとく、小日蓮主義の話だ。
「日蓮主義」は、1901年(明治34)5月6日に発効された立正安国会の機関誌『妙宗』四編五号に付録として掲載された智学<(注96)>の「宗門の威信[総論]」において、はじめて用いられた。・・・
(注96)「1870年、10歳の時に日蓮宗寺院の妙覚寺で剃髪・得度した・・・田中智学・・・は、その後、宗門の教育機関である飯高壇林及び日蓮宗大教院で学び、1877年に教導職試補に任命されるが、折伏を重視しないその教育に納得が行かず、19歳となった1879年に辞任届けを出し、還俗する。「祖師に還ること」を掲げ、さっそく1880年に数名の仲間と横浜で蓮華会という日蓮仏教の研究会を結成し、在家仏教者という立場で教化活動を開始する。・・・
1910年前後(明治末年)から日蓮主義の「黄金時代」が始まるとされるが、それは智学が行った教化活動の結果であると言っても過言ではない。・・・
彼は、あくまでも「国家を教法の原動力とする」ことで、「国と共に成仏する」ことを目指した。個人の救済と社会レベルでの教化に加え、国家レベルの日蓮主義の普及、さらにはその次のステップとして世界における日蓮主義の広まりを教化活動の最終目標としたことが、智学の日蓮主義運動の大きな特徴である。
こうした教化の最終目標もあり、智学の教化活動は、国体の自覚を促すことで現実の日本をあるべき日本に近づけるために、大逆事件以降、国民に国体観念のさらなる普及を図る運動と密接にリンクしていく。とりわけ明治後期に始まった芸術による教化も、以前の法華経や日蓮の教義の表象に加え、国体の精神を養うものという側面を強めていく。また、智学が1925年5月に新しく結成した教化団体の明治会は、明治天皇の誕生日を祝祭日にすることを掲げ、明治節制定運動を展開する。その運動が功を奏して、1927年に明治節の11月3日が新しくカレンダーに加えられ、現在も「文化の日」として祝日となっている。」(ブレニナ ・ユリア「田中智学の日蓮主義運動における教化の諸相─本化宗学研究大会を中心にして─」より)
https://core.ac.uk/download/pdf/230157108.pdf
「世界の法華教化!」を主張し、「政教一致」(法国冥合)による日本統合・世界統一をめざして、戦前の日本社会において積極的な宗教運動を展開した国柱会の創始者・田中智学(1861-1939)・・・
在家仏教運動としての田中智学の「国体論的日蓮主義運動」・・・は、「宗教(法華教)の国家化」(日蓮仏教の国教化としての「国立戒壇」の建立)、そして「国家の宗教(法華教)化」(霊的・理想的な「日本国家」の実現)の主張・実践による「法国冥合」(政教一致)の実現の追及にその大きな特色がある。・・・
その「国立戒壇」論の主張・実践は、戦後の創価学会を先駆け、またその思想・運動は、「近代」「日本」(そしてその「近代化」)に対する宗教的応答の位置側面を表象している。」(大谷栄一「近代天皇制国家と仏教的政教一致運動-田中智学の国体論的日蓮主義運動の場合-」より)
http://kantohsociologicalsociety.jp/congress/43/points_section06.html
「日蓮主義概論」(『日蓮主義新講座』第一巻・・・1934年・・・)<で、智学は、>・・・「宗教並にいへば日蓮宗といひ、所依の経に就ては『法華宗』とも称し来ッたのだが、純信仰の立場よりも広い意味に、思想的または生活意識の上にまで用ひようとして、之を一般化して日蓮主義と呼倣したのである。」<と、>・・・「日蓮主義」<を>・・・定義<している。>・・・
智学にとって「日蓮主義」とは、「政治であれ、経済であれ、社会でも人事でも、凡そ人間世界のすべての事に正しい動力となッて、実際の益を興す」「一切に亘る指導原理」であり、寺院や仏壇の中に封じ込めておくべきものではなく、世間を率いる「活指南」であった。
この「一切に亘る指導原理」としての「日蓮主義」という考え方は、智学の生涯を通じて一貫していた。・・・
1887年(明治20)・・・6月には・・・智学は・・・「立正安国会創業大綱領」・・・を再制定している。・・・
注目すべきは、第四則・・・(五)項・・・で・・・治病行為を目的とした「信仰」を禁じている<ことだ>。
治病行為(いわゆる病気直し)による現世利益は、新宗教教団における信者獲得の重要な手段のひとつであるが、この規定にみられるように、立正安国会(国柱会)では基本的にそれを禁止している。
この点は、本門佛立講や霊友会系諸集団などの法華系新宗教との差異を示す重要な特徴である。・・・
1917年7月・・・『国柱新聞』182号・・・に<某>同人・・・が・・・発表した・・・短編小説<が>・・・内務省から発売禁止(発禁)処分を受けた・・・。
処分の対象となったのは、<その小説に登場する>弁士の青年が行なった演説の一節、「たヾ皇統連綿、万世一系といふ丈けで尊貴といふのならば、それは無内容の国体である」という部分である。・・・
・・・こうした見解は、じつは・・・智学<のものなのだ>。
『国体の権化明治天皇』で、智学はこうのべている。
「・・・皇統連綿万世一系であるから日本はえらいのではない、逆さまだ、日本はえらいから皇統連綿万世一系なのである」。・・・
つまり、道義的な世界統一の使命を担う「道の国」だからこそ「えらい」のであり、日蓮主義によって基礎づけられた日本国体の道義性によって、「日本のえらさ」を根拠づけている。・・・
摂政裕仁の天皇即位の大礼が挙行された1928年(昭和3)は、「経済困難・思想困難・政治困難」の「三大国難」<(注97)>が喧伝されはじめた年だった。
(注97)不詳。
翌年、文部省社会教育局の指揮と・・・1924年(大正13)1月15日、内務省社会局のイニシアティヴによって設立された教化団体連合会(28年に中央教化団体連合会に組織編成。・・・)・・・の協力によって教化総動員が実施され、国難に対処するため、国民精神の作興と経済生活の改善を目標とした教化運動が実施された。
なお、当時、「既成政党が政権争いの手段として皇室・国体問題を争点とし、それに反発する右翼革新運動も、体制打破のシンボルとして皇室・国体を顕揚し」た。
その結果、「デモクラシーにかわる、国民統合のシンボルとして天皇と国体は急上昇していった」ことを、鈴木正幸<(注98)>は指摘する。
(注98)「歴史学者の鈴木正幸氏は近代天皇制の研究者。『近代天皇制の支配秩序』『近代の天皇』『皇室制度』『国民国家と天皇制』などの著書がある。」
https://twitter.com/akisumitomo/status/779581055279915012?lang=ja
少なくとも2005年までは神戸大学教授。
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000080107987/
そして、1929年(昭和4)にはじまる世界恐慌を契機として、大戦後の国際協調主義は退潮し、日本は世界で孤立していく。
ふたたびナショナリズムが台頭し、1931年(昭和6)9月の満州事変の勃発によって、<鈴木によれば、>「日本中心的なナショナリズムは完全に復権をとげた」。
デモクラシーなどのインターナショナリズムは後退し、ナショナリズムの台頭に伴って国体が強調されるようになる。
⇒デモクラシーと戦争遂行体制は、略奪を生業ないし副業とする集団や古典アテネや欧米において、コインの表裏の関係にある(コラム#省略)以上、そもそも、デモクラシーは、インターナショナリズムよりもナショナリズムに親和性があるのであり、このような大谷の立論はおかしい。(太田)
以後、1935(昭和10)の天皇機関説事件とそれにつづく国体明徴運動など、天皇の神格化と国体の絶対化が進み、国体価値を中心とした社会規範の統合が促進された。
つまり、1910年代を通じて低下していた国体神話の信憑性は、30年代のナショナリズムの再浮上によって、再度、その信憑構造を強固にしていく。
その過渡期として、20年代にはインターナショナリスティックな価値との競合のなかで、国体神話の信憑性の回復を図ろうとするさまざまな政策が実行されたのである。
こうした時代状況のもと、国体神話を取り込んだ・・・国体論的日蓮主義運動が展開されていくことになる。・・・
<1922年(大正11)>10月13日・・・日蓮へ諡号宣下<がなされた。>・・・
講話の中で<井上>日召は、次のような牧野宮内大臣の談話を紹介している。
牧野によれば、今回の大師号宣下は「日本の現代思想界のこの状態に対して、どうしても是れは堅実なる思想殊に鞏固なる宗教の信念よりして善導しなければならぬといふ御思召から出でた事であ」った。
つまり、日召や智学と政府との思惑の一致をみることができる。・・・
<1923年(大正12)9月1日の関東大>震災からの復興作業が進められるなか、11月10日、「国民精神作興に関する詔書」・・・が御名御璽と摂政裕仁の名で渙発された。・・・
この詔書には・・・副田義也<(注99)が言う>・・・「政府や資本家階級と民衆階級が対立・葛藤する構図」という社会状況が浮かび上がり、・・・橋川文三<が言う>・・・政府の「国家瓦解の危機感」が表出されていた。」(15~16、23、38~39、238~239、285~286、292、309、320)
(注99)1934~2021年。東大文(社会学)卒、同大院修士、同大博士(文学)。日本釈迦事業台、東京女子大、筑波大、金城学院大で教授等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%B9%9F
なお、日蓮主義と五・一五事件との関係(注100)については、現在進行形の、「小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む」シリーズ(公開されるのは相当先)を参照。
(注100)「昭和7年(1932)1月28日、(第一次)上海事変が突発する。この事件、団扇太鼓(うちわたいこ)を打ち鳴らす日蓮教徒が反日感情の強いタオル工場で中国市民に袋叩きにされたことが発端であった。この事件、戦後になって、上海公使館附陸軍武官補田中隆吉 が事件を起こすよう仕組んだものだったことが判明した。
さて、日本では昭和7年(1932年)2月9日、選挙への応援演説に向かう途中の道で井上準之助大蔵大臣が暗殺。3月5日には、三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺された。この2つの事件、当初はなんの関係もないと思われたが、暗殺者が両名とも数珠を隠し持っており、狂信的な日蓮教徒の集団・井上日召率いる血盟団の仕業と判明した。・・・
北一輝は、佐渡の生まれである。そこは、日蓮が流刑された聖地である。北は、幼少期より法華経をそらんじていた。北一輝は妻スズと供に法華経を読誦し、この時の霊感・霊告を綴ったのが『神仏言集』である。・・・
北一輝に影響を受け、その宣伝者となったのが西田税(みつぎ)であった。
西田税<は、>・・・大川周明の行地社にはいったが,大川と対立して北一輝(いっき)の門下とな<った。>・・・
昭和10年8月12日、北一輝の影響を受けた相沢三郎中佐が、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される永田鉄山軍務局長が、刺殺される事件が起こった。いわゆる相沢事件である。・・・
陸軍大学で講義した石原莞爾は、しばしば黒板に『兵法とは妙法なり』と大書きした。この妙法の意味であるが、『世界が法華経(妙法)に帰した時、理想の仏教国が完成する』という意味であり、石原莞爾の兵法は『最終世界戦争に備えるため、東洋は日蓮主義で統一すべき』とういうものであった。
この石原莞爾の思想の根源こそが、国柱会を率いる田中智學の思想であった。では、田中智學の思想とは何か?それは一言でいうと『祖師日蓮の意思を尊重せよ』であった。」
http://www.isobekaikei.jp/pages/755/
但し、この関係について、基本的なことは、既に、『日蓮主義とはなんだったのか』シリーズで私見を明らかにしており、「私の言う大日蓮主義者中の首脳クラスが、大日蓮主義を陸海軍の若手将校達、ひいては非軍人達の間に普及させつつ、私の言う小日蓮主義者中の単細胞の人物を見つけ出し、その人物を鉄砲玉・・この場合はテロリスト・・として使った」のです。(コラム#13288)
6 海軍補論(海軍の教育)
(1)始めに
ア 部隊編成権の所在
「・・・1889(明治22)年に公布された明治憲法において、第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条に「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」と規定された。ここに示された統帥大権の輔翼機関(軍令機関)が、編制大権の輔弼機関(軍政機関)を含む他機関による容喙や掣肘を排除している形態が「統帥権の独立」である。しかし、輔翼機関は分立しているものの統帥と編制が内容において峻別不可能であるという認識は、政府、軍、憲法学者らにおいて共有されていた。この峻別不可能な領域、すなわち「混成事務」をめぐって深刻な対立が生じたのが、いわゆる「統帥権干犯論争」である。それは、1930(昭和5)年の補助艦保有比率制限を主な内容とするロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる、「混成事務」を争点とした濱口雄幸内閣および海軍省と、政友会および参謀本部と軍令部との対立である。近年、この「論争」の理論史的側面が明らかにされ、前者を擁護した美濃部達吉(1873-1947)の政府専管論と、後者の認識形成に影響を与えた有賀長雄<(注101)>(1860-1921)の「協同輔翼」論の対立という図式も示されている。
(注101)1860~1921年。「摂津国大坂(現在の大阪府大阪市)で代々歌道を生業とする家系に生まれ、大阪英語学校・開成学校を経て明治15年(1882年)7月10日に東京大学文学部哲学科を卒業。東大在学中には学資稼ぎに成立学舎で教師もしていた。東京大学御用掛、同文学部准助教授、元老院御用掛、兼東京大学御用掛などを経て、明治19年(1886年)6月4日、元老院書記官となり、同年11月から<欧州>に留学し、ドイツのベルリン大学で勉強、次いでオーストリアでウィーン大学教授ローレンツ・フォン・シュタインに国法学を学ぶ。
明治21年(1888年)6月20日に帰国し、明治22年(1889年)5月7日に枢密院書記官となり首相秘書官も兼ね、内閣に勤務しながら著述活動も展開。明治25年(1892年)に農商務省特許局長に転属、日清戦争、日露戦争には法律顧問として従軍し、ハーグ平和会議には日本代表として出席している。その後陸軍大学校、海軍大学校、東京帝国大学、慶應義塾大学、早稲田大学などで憲法、国際法を講じた。
明治36年(1903年)、帝室制度調査局副総裁伊東巳代治から総裁伊藤博文への推薦により同局御用掛となり、皇室の制度化と天皇の政治関与の抑制、および首相の権限強化と軍部の牽制を趣旨として未完成の皇室典範補完の調査を進め、明治40年(1907年)の皇室典範増補と公式令公布に全力を尽くした(ただし、同年の軍部の反発で軍令が公布、軍部を抑える目的は挫折した)。また、同年末に清の憲法調査団が来日した際、伊藤の斡旋で明治41年(1908年)2月から翌明治42年(1909年)7月まで講義を行っている。
大正元年(1912年)、恩賜賞を受賞。大正2年(1913年)に大隈重信の推薦で中華民国大総統袁世凱の法律顧問となり、袁世凱の帝政運動を擁護。大正4年(1915年)に日本が袁世凱に突きつけた対華21カ条要求には反対したが、逆に対中強硬論者からの攻撃を受けて早稲田や東大などの教職を去った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E9%95%B7%E9%9B%84
軍部大臣が軍令-軍政に両属する性質をもって「協同輔翼」とし、軍部大臣による主導を実態としていた海軍内の勢力関係は、他ならぬ有賀の理論を換骨奪胎した陸軍参謀本部の容喙を機に変化する。・・・
陸軍大学校での有賀による講義「国家と軍隊との関係」(1900年)を確認したい。
(一)軍隊ハ国家ノ交戦権ヲ行フノ機関ナリ、即チ国ノ敵トスル所ハ国家之ヲ定メ軍隊ハ之ヲ定ムル権利ナシ。
(二)軍隊ハ国家ノ資力及国家ノ人員ヲ以テ設立維持スル所ノモノナリ、故ニ (ママ)ラバンドノ言フ如ク国家ノ設営ナリ。
(三)然レトモ日本ヲ始メトシテ多クノ国ノ事実ニ於テハ軍隊ハ国家ニ依リテ編制セラルヽニ非ス、歴史上ノ順ヨリ言ヘハ軍隊先ツ存立シテ其ノ力ニ依リ主権者ノ権力定マリ、此ノ主権者ニ於テ国家ノ編制ヲ定ムルナリ。
(四)国家ノ意志ハ国民ノ発達ヲ以テ最モ重シト為ス、然ルニ軍隊ハ敵ノ強力ヲ破ルヲ以テ其ノ直接ノ目的トセサルヘカラス、然ラサレハ国家ノ存立危シ、故ニ軍隊ノ行動ハ国家ノ意思ニ依リ難シ
⇒「(四)」は意味不明だ。(太田)
有賀は以上4つの「理勢」があるとし、(一)・(二)と(三)・(四)の関係について、「若シ軍隊ヲシテ国家ニ従属セシムルトキハ軍隊ハ其ノ敵ニ勝ツノ大目的ニ於テ遺漏及錯誤多キヲ免レス、サリトテ又軍隊ヲ国家以上ニ置クトキハ所謂武断政治トナリテ立憲ノ制是レヨリ紊レム」とした。そして、この「困難ナル」衝突を回避するために「混成事務」の研究を重視する必要があるという。・・・
美濃部は、「混成事務」の存在と「統帥権の独立」を慣習によって是認する前提のもと、統帥権の作用範囲を完全に局限すべきであるという意図から、ロンドン軍縮条約についても編制権を担う大臣輔弼事項であり統帥部の拘束を受けないものと強調し、さらに政府による条約に関する大権の輔弼であることから内閣専管であるとした。特に1926(大正15)年の『憲法撮要』訂正第3版以降、「軍令権ノ正当ナル範囲」としての作用を「軍隊ノ軍事行動ヲ指揮スルノ権」、「軍隊内部ノ組織ヲ定ムルノ権」、「軍人ニ対シ軍事教育ヲ為スノ権」、「軍隊内部ノ規律ヲ維持シ及軍人ヲ懲罰スルノ権」という4種の項目に限定している。つまり美濃部の場合、統帥と峻別すべき編制事項については、海軍大臣が輔弼責任を負う前提で、軍令部を完全に排除しようとする点に特徴がある。
以上から、「混成事務」の処理についてその責任において軍部大臣を重視する点で有賀と美濃部は共通している。有賀の美濃部と異なる点は、統帥と編制の実際上の分界画定を否定していることと、統帥部の積極的排除を意図してはいないということである。」(浅井隆宏<(注102)>「日本海軍の軍政機関と軍令機関 ──「協同輔翼」をめぐる慣行─」より。)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalps/54/1/54_35/_pdf/-char/en
(注102)不詳。
⇒要するに、編制について、美濃部は陸海軍省の専管事項であるとするのに対し、有賀は陸海軍省と陸海軍統帥部の(省部どちらも起案権と拒否権とを持つところの)共管事項であるとしたわけだ。
明治憲法の文理解釈論としては、有賀の方に軍配を挙げたいところだが、私は、日本の憲法には規範性がないと考えているので、当然、美濃部説も成り立ちうるとは思う。
問題は、どうして、発足以来、陸軍は有賀説的なスタンス、海軍は美濃部説的なスタンスをとってきたのか、と、どうして、1930年になって、海軍内で海軍をして有賀説へ切り替えさせる動きが本格的に開始されたのか、だ。
とまれ、これは、陸海軍で、憲法解釈が途中まで異なっていた事例だということになる。(太田)
イ 平時における陸海軍の完全分離
「日本では,78年,軍令専掌機関としての参謀本部が設置された。 86年には海軍部が新設され,88年には参軍官制がしかれ,天皇に直隷する皇族の参軍 (参謀長) のもとに陸軍参謀本部と海軍参謀本部が併置された。このとき陸海軍軍令機関は一体であったが,その後実際上の不便から分離され,共通の参謀総長をいただいてはいたが,陸軍は参謀本部,海軍は海軍参謀部となった。93年海軍軍令部の設置とともに両者は完全に分離された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8-71472
⇒平時における陸海統帥部の分離にいかなるレゾンデートルがあったのかが問題だ。
平時に分離しているものを有事において合体させたとしても、事実上十全に機能はしないはずであるところ、どうしてそんなことをしたのか、という問題だ。
私は、山縣有朋が、自分が生きている間にも、島津斉彬コンセンサス完遂構想(以下「杉山構想的なもの」と言う)を軍部に策定させようと考えていて、策定作業や策定後それを踏まえた作戦計画が策定され実施に移される過程において、外から、とりわけ、やがて設置されるであろう議会、からの容喙を排除するとともに、外への秘密漏洩を防止するため、陸海軍大臣武官制の導入、と、統帥権の独立の確立、を行うとともに、杉山構想的なものの策定は、それを実行する舞台はもっぱら陸上になることから、陸軍にやらせるという前提の下、陸海軍の完全分離を行うべく、平時における統帥部の陸海軍分離、をも行った、と見るに至っている。
更に、この杉山構想的なものを踏まえた諸基本作戦計画立案も陸軍の統帥部にやらせることとし、これらの立案過程での秘密漏洩の防止を徹底するために、帝国憲法制定後は、陸軍において上述の憲法解釈を採用させることで、個々の作戦計画起案の際の部隊編成起案の権限を陸軍の統帥部にも陸軍の省部とともに与えることによって、諸基本作戦計画立案過程での陸軍省との調整の必要性をなくした、とも。
もとより、杉山構想的なものの実行の最終段階たる戦争段階においては、海軍を於アジア大陸軍事行動や対欧米戦に同意させるとともにこの陸軍が起案した諸基本作戦計画に基づいて、時機に応じて策定されるところの、陸軍の諸作戦計画、に、海軍の諸作戦計画を有機的に組み込まなければならなくなるし、対欧米戦においては宣戦布告も必要になってくるのでその場合は外務省の協力も取り付けなければならなくなる。
もとより、より重要かつ困難なのは前者であり、そのためには海軍内に陸軍の有力エージェントを確保しなければならないところ、亡くなる前に山縣自身が白羽の矢を立てたのが加藤寛治や及川古志郎だった、と、私は見ているわけだ(コラム#省略)。(太田)
ウ 感想
このようなことを踏まえれば、日本の帝国陸海軍の間に、万国共通の違いに加えて、明治維新後の日本の特殊事情に基づく違いがあって当然、ということになりそうだ。
(2)海軍における幼年学校の不存在
「維新後、 日本軍の創設にあたり、広く国民から徴兵する制度を取ろうとした大村と、薩長土の西国雄藩の武士中心で常備軍を創ろうとした西郷隆盛とは思想的に考えが異なり、大村の暗殺 (明治2年9月,1869 年) に繋がる。大村が逝って後、明治4年4月西郷は薩長土の兵1万の御親兵を指揮するため上京する。 明治3年8月<欧州>視察から帰国した山県有朋は元来出身が農民という点から身分制にとらわれない徴兵論者だったが、帰国後はますます大村の遺志を継ぐのは自分だと・・・決心する。ただ政治的に巧妙な立ち回りをした山県は、当面は大村の遺志を士族の山田顕義 (1844-1892)に継がせる。<この、>大村対西郷の葛藤は西南戦争で決着が着くまで続く。
軍事技術と西洋科学の知識の点で、有為な人材を多数抱えていたのは、皮肉なことに旧幕直方だった。兵部大輔大村益次郎の発議で、まず陸海軍の中核となる人物養成のため、明治2年大阪に兵学寮、東京築地に海軍操練所が設置され、翌3年11月それぞれ陸軍兵学寮、海軍兵学寮と改名される。 これらの兵学寮の教官に当てるべき人材は、駿河70万石に減封された徳川家が捲土重来を期して創った沼津兵学校の教官と生徒たちであった。 明治2年8月、大村は沼津兵学校を視察する。兵学校では殺気立ったというが、さもあらん。しかし兵学校頭取の西周 (にしあまね ;1829-1897)は津和野藩士ながら幕臣に取り立てられ、蕃書調所では大村の後輩にあたる。西は文久2年 (1862 年)に同僚の津田真道 (つだまさみち;1829-1908) とともにオランダに留学し、ライデン大学でs. Vissering 教授から法学国際法経済学統計学を学んで慶応元年 (1865 年) 帰国した人物である。 この沼津兵学校の先生と生徒を順次切り崩して、兵学寮に吸収すべく大村は画策する。大村の計画はその後山田によって実行され、 沼津兵学校が政府に吸収され終わったのは明治5年5月のことであった。・・・
山田顕義は大阪の兵学寮をフランス式に整備した。一方海軍の方は、オランダ、<米国>の影響もあったが、安政5年 (1858年) <英国>から砲艦を贈られたことから<英国>式の良さを知り、 明治2年から<英国>式の教育方針に従うことが決められた。
明治5年2月27日、兵部省は陸軍省と海軍省に分割され、大阪の兵学寮も東京に移転した。 同年<(1872年)>5月兵学寮に幼年学校<(注103)>(入学資格は13才から16才まで;3年間;官費) を設立する。
(注103)「10歳以上の少年が入校可能なドイツの陸軍幼年学校(カデッテンシューレ)は複数存在した。一方,ドイツの陸軍士官学校(ハウプトカデッテンアンシュタルト)はベルリンに1つ存在し、14歳から19歳までの生徒約1250名を収容していた。前者の幼年学校の教官団は,<米陸軍士官学校>と対照的に教育の近代化の議論に積極的に参加し,その結果,自然科学やラテン語,宗教等の授業時間は19世紀末から削減されていく。加えてこれら幼年学校では,いじめも上手く対処されていた。
何かあれば幼年学校の生徒たちは,上級生より上位の将校に不平を訴えられたし,指導係の上級生も彼らを守ったからだ。そもそも校内の生徒隊は5つの「操行等級」で分けられていたので,下級生が上級生を年齢とは無関係に追い抜くこともあり得た。それゆえ上級生は下級生をうかつにしごけなかったのである。しごきの有無の点でも,米独の陸軍学校は極めて対照的であった。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiyo-Xnmdr6AhU5o1YBHe5wAjMQFnoECAoQAQ&url=https%3A%2F%2Fkufs.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D231%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0kz5fxSjXwVcL0zMWA8Ijo
Preußische Hauptkadettenanstalt(The Royal Prussian Main Cadet Institute)・・・
https://de.wikipedia.org/wiki/Preu%C3%9Fische_Hauptkadettenanstalt
Kadettenanstalt oder Kadettenschule(cadet institute or cadet school)・・・
The first cadet schools emerged towards the end of the 17th century, among other places in France, where young noblemen designated as officers were brought together as cadets in companies in order to receive an education and upbringing appropriate to their future profession.・・・
In 1902, the Prussian Cadet Corps consisted of a total of eight cadet houses and the Hauptkadettenanstalt.
https://de.wikipedia.org/wiki/Kadettenanstalt (から、google翻訳)
⇒欧米における最初の幼年学校は、17世紀末にフランスの貴族の軍人志向の子弟に素養教育を施す場として設けられ、それをプロイセンも採用した、ということから、日本の陸軍に1872年(明治5年)という早期に幼年学校が設けられたのは、帝国陸軍が、最初、仏軍に、次いで独軍に範をとった以上、自然至極なことだったと言えよう。。
そもそも、江戸時代には、どの藩にも武士の子弟を教育する藩校があったので、武士改め軍人となった彼らには全く違和感がなかったはずだ。
では、どうして、帝国海軍は、陸軍と違って、幼年学校を設けなかったのだろうか。
工藤美知尋(コラム#13072)は、「明治3年に海軍操練所が兵学寮と改称され、英国海軍少佐アーチボルト・ルシアス・ダグラス<(注104)>を長とする士官6名、下士官12名、水兵16名の合計34名の教官団が来日した。
(注104)Archibald Lucius Douglas(1842~1913年)。Douglas was born in Quebec City in pre-Confederation Canada in 1842. Educated at the Quebec High School, he joined the Royal Navy as a cadet in 1856.
He was selected to head the second British naval mission to Japan in 1873, and served as a foreign advisor to the fledgling Imperial Japanese Navy until 1875.
Douglas was based at the Imperial Japanese Navy Academy, then located at Tsukiji in Tokyo, where he trained a class of 30 officers. During his tenure, his advice was called upon for the Taiwan Expedition of 1874, the first major overseas deployment for the Japanese navy.
During his stay in Japan, he is also credited with having introduced the sport of football to Japanese naval cadets.・・・
Douglas was appointed Commander-in-Chief, East Indies Station in 1898 and Second Naval Lord in 1899. He was promoted to the rank of vice admiral on 15 June 1901, In June 1902 he was appointed Commander-in-chief of the North America and West Indies Station, and he arrived in Halifax to take up the position on 15 July with his flagship, the cruiser HMS Ariadne. He went on to be Commander-in-Chief, Portsmouth in 1904 and retired from the service in 1907.
https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Lucius_Douglas
Quebec High School (QHS) is a high school・・Public school・・belonging to the Central Quebec School Board. The School is located in Quebec City, Quebec, Canada, and is one of three English-language high schools that serve the Quebec city region
https://en.wikipedia.org/wiki/Quebec_High_School
この高校は全寮制ではなく、しかも中高一貫校ではなく、単なる高校だ。
http://www.quebechighschool.com/
Commander-in-Chief, Portsmouth・・・Considered as the most prestigious of the home commands, the Commander-in-Chief was responsible for the central part of the English Channel between Newhaven and the Isle of Portland.
https://en.wikipedia.org/wiki/Commander-in-Chief,_Portsmouth
その際、海軍兵学寮の規則は大幅に改定され、ここに日本海軍の士官教育が軌道に乗ることになった。ダグラス少佐は、「士官である前にまず紳士であれ!」とする英国海軍士官流の紳士教育を実施した。そこでダグラス少佐は、その教育の原型を、自分の出身校であるウィンチェスター・パブリック・スクールに求めた。学科ではとくに英語と数学に重点を置いた。ダグラス少佐は明治8年7月に帰国したが、英国流の士官教育の伝統は、昭和20年の太平洋戦争敗北によって、日本海軍が解体されるまで続くことになった。明治9年(1876年)9月1日に海軍兵学寮は海軍兵学校改称とされ、名実ともに海軍初級士官養成機関である海軍兵学校となった。海軍兵学寮からは、明治6年11月に2名、明治7年11月に17名が卒業して士官になった。彼らは、のちに海軍兵学校の第一期、そして第二期の卒業生となった。明治11<(1878)>年6月、海軍兵学校横須賀分校が海軍兵学校附属機関学校と改称され、本校機関科生徒全員に対して同校移転が命ぜられた。さらに明治14年7月には、同校は海軍兵学校から分離独立して、海軍機関学校となった。」(○16~17)としているところだが、そもそも、工藤は、ダグラスの日本滞在期間を間違えている上、その出身校を間違えており・・パブリックスクール的な学校ではなさそう!・・し、いかなる根拠に基づいているのか定かでないところの、「紳士教育」について詮索するまでもなく、「パブリックスクール<に>・・・士官・・・教育の原型を・・・求めた」という点は疑わしい。
(ついでに、これも調べがつかなかったが、ダグラスが高卒のはずなのに、彼が(英領カナダで?)海軍士官候補生に13ないし14歳の時になっているという点も計算が合わない!)
そもそも、ダグラスには、パブリックスクール的な学校経験はなさそうである以上、彼が、パブリックスクールに倣った海軍士官教育を日本側に提案したとは考えにくいし、そもそも、2年しか日本に滞在しなかった彼によって日本の海軍士官教育の方向性が定められた、とは考えにくいからだ。
「ダグラスは机上の理論よりは実地訓練を重視し、実戦教育に重点を置いた海軍教育システム整備に尽力している。「其ノ授クル所ハ主トシテ実地修練ニ止マル殆ンド理論ニ亘ル事ナシ」とある評者のダグラス評の通りである。ダグラスはまた、着任すると間もなく砲術稽古舎の設立を申し出ており、実地訓練の環境整備に腐心している。・・・
74年6月3日に兵学寮横須賀分校として本格的に機関科の養成が始まる。教師は副機関士のトーマス・ギッシング(Thomas S. Gissing)が行ったが、その後78年6月に海軍兵学校附属機関学校となり、これが帝国海軍の機関学校の始まりである。そして81年には海軍機関学校と改称されている。」
https://core.ac.uk/download/pdf/71796117.pdf
ということからして、ダグラス時代の兵学寮にアカデミックな雰囲気は感じられず、パブリックスクール云々は、単にそれが全寮制であった(と想像される)ことからの、彼の思い込みの産物だろう。
なお、機関学校の兵学寮(兵学校)からの分離も、英国では分離していなかったと思われるところ、単に、ダグラス時代に、横須賀に横須賀造船所があり、同じ場所で機関士官要員を教育訓練することが便利なのでそれを始めることになったけれど、その結果、機関士官要員と一般士官要員の教育場所が異なってしまい、その後、日本側が、両者の教育訓練の場所が異なっていることを踏まえ、横須賀の方のを機関士官要員教育訓練専用の機関学校として両者を正式に分離した、ということだろう。
なお、「明治15年5月、瀬戸内海に面した広島県安芸郡江田島に海軍兵学校を新たに建設して、東京の築地から移転させる計画が起こった。明治19年1月、海軍兵学校次長に任ぜられた伊地知弘一中佐は、米国に留学してアナポリスの海軍兵学校を見聞した経験から、「兵学校を僻地に移転する理由」と題して、次の一文を起草した。
(一)、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ、海軍の志操を堅実ならしむるに在り。
(二)、生徒及び教官のことたるに務めて世事の外聞を避けしめ精神勉励の一途に赴かしむるに在り。
(三)、生徒の志操を堅確ならしむるに当たっては…繁華輻輳の都会に校を置きて生徒を教育せば自ら世情に接し…之を良策とせざればなり。」(○17)
ということで、海軍兵学校は東京の築地から広島県の江田島に移転したわけだが、英国の場合、海軍士官要員教育は、1863年にダートマスに拠点が移されるまではポーツマスで行われていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%8E%8B%E7%AB%8B%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1
ところ、ポーツマスは、それ自体が英国有数の人口稠密地である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89)
上、サウス・ハンプシャー大都市圏の一環
https://en.wikipedia.org/wiki/South_Hampshire
であって、片田舎では全くないし、また、米兵学校が所在するアナポリスは、「ボルチモア・ワシントン大都市圏をなす都市のひとつで、ボルチモアの南、ワシントンD.C.の東それぞれ約45kmに位置する。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9_(%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B7%9E)
というわけで、首都に極めて近いし、そもそも、「アナポリスは<米>国独立後最初の首都」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9_(%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B7%9E)
だったところであることからすれば、この江田島への移転もまた勘違いの産物だったと言えそうだ。
一方、陸軍士官学校の方は、1937年までは東京の市谷台、それから閉校した1945年までは東京
近郊の座間にあったのだから、ただでさえ、どこの国のであれ陸軍というものは政治を含むところの陸上への関心が深いところへもってきて、帝国海軍の政治音痴度は、海兵のロケーションによって、英米の海軍よりも一層甚だしいものになってしまったと言えよう。(太田)
この年齢と教育内容は、同年文部省が制定した下級中学 (3年制) に相当する。
当時、下級中学は教師、特に理数科の教師の確保に苦労しており、その点で軍関係学校の数学教官は当時としては最高の知識をもった人たちであったから、幼年学校は下級中学を補完するものだった。
発展途上国では、まず近代化の推進力は軍隊であることが往々見られる。明治の日本もその例外ではなかった。・・・
幼年学校を指導するため、 明治5年4月11日フランスから参謀中佐マルタリー (Charles llarquerie)<(注105)> を首長とする教官8名が着任した。 その中の–人エシュマン (Armanel P.A. Echumann) 軽歩兵大尉・・・は各鎮台から歩兵の尉官・下士官を200名選抜して1年間の現職教育をする目的の学校の設立を進言した。
(注105)llarquerieが正しいとすれば、マルタリーではなく、ラルケリーだが、確認できなかった。
それが戸山学校(明治7年2月4日設立) である。 これは Ecole normal de militaireに相等するもので、陸軍における諸学術の教育者を要請する目的の学校だった。従って軍楽隊の教育もここで行われることになった。・・・
フランスの教官たちの考えた陸軍士官の教育は士官学校の歩兵・騎兵科はフランスのサンシール士官学校(Saintcyr Ecole Speciale Militaire),士官学校の砲兵工兵科はエコール. ポリテクニック,戸山学校はエコールノルマルという構想であったように思われる。
明治16年<(1883年)>11月、 陸軍大学<(注106)>が設立され、秋山好古が第1期生として入学する<。>・・・
(注106)「当初の陸大の修学期間は、歩兵将校・騎兵将校は予科1年+本科2年の計3年、砲兵将校・工兵将校は本科2年であった。・・・
その教育内容は、数学・化学・物理といった自然科学の比重が大きく、参謀教育に必須の戦術・戦略・戦史については質量ともに手薄であり、実態としては、参謀養成機関というより「陸軍士官学校高等科」であった。・・・
メッケル参謀少佐・・・は1885年(明治18年)3月・・・滞日期間は3年であった。帝国陸軍は、メッケルの居館を参謀本部の構内に用意し、メッケルに月500ドルの俸給を支払った。
陸大に着任したメッケルは、陸大の教育課程をドイツ式に改革した。即ち、校内での図上戦術(ドイツ帝国陸軍大学校の教育方法そのままであった)・校外での演習旅行による実戦を想定した教育、理論ではなく戦史に例証を求める教育に再構築した。メッケルは、外征経験のない帝国陸軍の将校に兵站の概念・知識が欠落していることを憂い、外征における兵站について熱心に教育した。
陸大は、メッケルが3年間で作り上げた教育課程を、1945年(昭和20年)の終焉まで継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
明治29年5月15日の陸軍幼年学校条例で、地方幼年学校 (中学 2, 3, 4年相等)3年制と、その後東京に集められて2年間の中央幼年学校の制度に改められ、 その上に明治22年制定の士官学校が続く。従って、 中央幼年学校は中学校5年と高等学校1年を併せた程度の教育内容であった。・・・
中央幼年学校の制度は大正9年8月7日陸軍士官学校予科ができて廃止される。
明治維新から明治5年7月の学制頒布まで数学教育をリードしていたのは、言うまでもなく、陸海軍の学校だった。<例えば、>兵学寮の教授たちによって書かれた算術書が広く読まれた。 学制頒布後も中学では数学は教授科目の中に入ってはいるが、実際に教えられたかどうかは疑問である。教員の確保が困難だったからである。・・・
砲工学校は日清戦争と日露戦争の間は閉校になっている<。>・・・」
https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1130-15.pdf
⇒陸軍経理学校・・建築まで教えた!・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%B5%8C%E7%90%86%E5%AD%A6%E6%A0%A1
海軍経理学校・・陸経同様、被服、糧食も教えた・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%B5%8C%E7%90%86%E5%AD%A6%E6%A0%A1
についても、機会あらば、調べてみたい。(太田)
「海軍兵学校<は、>・・・海軍兵科将校となるべき生徒を養成する学校。陸軍士官学校に対応する。帆船時代には海軍士官候補生の教育は艦上で実地に行われていたが,蒸気船時代の新しい技術の出現に伴い、一貫した完全な教育の必要から、1845年<米>海軍兵学校U.S.Naval Academyがアナポリスに設立され、各国海軍がこれに倣った。
日本の旧海軍兵学校は1869年(明治2)兵部省が東京築地に海軍操練所を開設し、各藩から学生を集め<英国>式の初級幹部教育を始めたのがその前身で、翌年海軍兵学寮、次いで76年海軍兵学校と改称した。
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1-42283
The Royal Naval Academy< at Portsmouth>・・・closed as a young officer training establishment on 30 March 1837, meaning that from that date all youngsters setting out on a naval career proceeded directly to sea. The closure of the college created a gap in officer training, and in 1857 the two-decker Illustrious undertook the role of cadet training ship at Portsmouth. In 1859 she was replaced by the three-decker Britannia, which was removed to Portland in 1862 and to Dartmouth in 1863.・・・
The buildings of the current campus were completed in 1905. Earlier students lived in two wooden hulks moored in the River Dart. ・・・
Cadets originally joined the Royal Naval College, Osborne, at the age of 13 for two years’ study and work before joining Dartmouth. The Royal Naval College, Osborne closed in 1921.・・・
Britannia Royal Naval College became the sole naval college in the United Kingdom following the closures of the Royal Naval Engineering College, Manadon, in 1994 and of the Royal Naval College, Greenwich<(注107)>, in 1998.・・・
(注107)With a shrinking Royal Navy, the decision was taken to close RNC Greenwich in 1998. All initial officer training is now carried out at the Britannia Royal Naval College,[13] and the new Joint Services Command and Staff College, created in 1997, took over the staff college functions.
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Naval_College,_Greenwich
Officer cadets, as they are known until passing out from the college, can join between the ages of 18 and 39. While most cadets join BRNC after finishing university, some join directly from secondary school. The commissioning course is 30 weeks, with Warfare Officers and Aircrew spending a further 19 weeks studying academics at the college.
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Naval_Academy
The Royal Naval College, Osborne, was a training college for Royal Navy officer cadets on the Osborne House estate, Isle of Wight, established in 1903 and closed in 1921.
Boys were admitted at about the age of thirteen to follow a course lasting for six academic terms before proceeding to the Royal Naval College, Dartmouth.
Some formal appointments to the college were to HMS Racer, a vessel attached to the college, previously the tender to HMS Britannia.
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Naval_College,_Osborne
⇒私自身にとっても驚きなのだが、なんと、1872年(明治5年)の時点において、英国には海軍の幼年学校どころか、海軍士官学校(海軍兵学校)すら(1837年に廃止されていて、)存在しなかったのだ。
(米国には、1845年に創設された海軍士官学校があったが、やはり恐らく、海軍の幼年学校的なものはなかったはずだ。)
パブリックスクール出等を、即、艦艇に載せて士官実地即製教育訓練を施したわけだ。
実は、英国の場合、陸軍士官学校だった似たようなものであり、現在でもわずか44週間の即製教育訓練が行われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E7%8E%8B%E7%AB%8B%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
どうしてそれで足りるかと言えば、パブリックスクールが中高一貫の軍学校的な役割を果たしている(コラム#省略)からだ。
陸軍士官についてだが、1978年9月付の下掲論文参照。↓
It is now well established that the public schools have been the main source of new officers for the British Army over the past century. Indeed, for most of this period armyn officering was virtually a monopoly controlled by the public schools.
https://www.jstor.org/stable/590104
但し、そのことは、一般的な英パブリックスクールの紹介には明確な形では出てこない。
例えば、英パブリックスクールのウィキペディアを読んでも、せいぜいそれを示唆するような、’From the 1850s organised games became prominent in the curriculum, based on the precedent set at Rugby by Thomas Arnold, forming a keystone of character development through teamwork, sportsmanship and self-sacrifice. Hely Almond headmaster at Loretto 1862–1903, in stating ‘Games in which success depends on the united efforts of many, and which also foster courage and endurance are the very lifeblood of the public school system’, encapsulated the thinking of the era. The prominence of team sports prevails to the current day and is a feature by which public schools still distinguish themselves from state maintained schools.’ や ‘The 19th-century public school ethos promoted ideas of service to Crown and Empire, exemplified in familiar tropes such as “Play up! Play up! And play the game!” from Henry Newbolt’s poem Vitaï Lampada and “the Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton”, the latter popularly attributed to the Duke of Wellington. ‘ といった紹介がなされるにとどまる。
いわんや、軍事教練がカリキュラムに組み込まれている(コラム#省略)こと、への言及はなされない。
但し、1875年にパブリックスクールへの軍事教練の導入が英国議会(上院)で提起されているところから、パブリックスクールへの軍事教練の導入は、それ以降に行われたもようだ。
https://hansard.parliament.uk/Lords/1875-04-19/debates/0062b7fe-5754-4d03-80cc-7974c83c673a/MilitaryTraining%E2%80%94PublicSchoolsAndTrainingShips
ちなみに、英国では陸軍大学は一度たりとも存在したことがなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Military_College,_Sandhurst
米国でも、陸軍大学ができたのは1904年で、日本の1883年より遅い。
https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Army_War_College
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
(「1869年(明治2年)9月に、明治天皇が臨席した集議院での会議で「兵式は陸軍は仏式、海軍は英式を可とすること」とされて以来、帝国陸軍はフランス式の兵制を採用してきた<ことから、>・・・創設当初の陸大はフランス式であ・・・った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
ところ、その模範としたフランスに陸軍大学である、École Supérieure de Guerre (ESG).<(当時) was> created in 1876, after the defeat of 1871. This school, whose first commander was General Lewal, aimed to renew tactical education of military elite, following the example of the Prussian method.
https://en.wikipedia.org/wiki/Ecole_de_Guerre-Terre
があったことから、日本でも陸軍大学を設けたのだろう。
ちなみに、このフランス陸軍大学が模範としたのが、プロイセン幕僚大学(Prussian Staff College=Preußische Kriegsakademie)であり、その前身は1801年で、最初の学生の1一人がクラゼヴィッツだが、’In the first year, fourteen hours of lectures each week were focused on military subjects, including military history, while seventeen hours were non-military, which included general history, mathematics, science and a choice of French or Russian. Roughly the same time allocations were used in the last two years. Lectures were supplemented by visits to fortifications, arms factories and exercises of the railway regiment. During the three month summer breaks the students attended manoeuvres and were taken on field tactical exercises in which they commanded imaginary units. ‘
https://en.wikipedia.org/wiki/Prussian_Staff_College
であったプロイセン幕僚大学に比し、フランス陸軍大学は悪い意味でアカデミックになってしまっていたところ、後に、日本の陸軍大学は、メッケルの下、正統プロイセン流のものへと改められることになる。)
なお、英国では、1905年にもなって、ダートマスにようやく陸上に海軍兵学校が設けられ、現在に至っている。↓
Dartmouth is not a degree-awarding institution like USNA. It solely is dedicated to the mission of training young naval officers for sea duty. BRNC concentrates on hands-on seamanship training and leadership, including all the necessary professional skill sets needed on board modern warships—from navigation, shiphandling, and nuclear/biological/chemical defense, to marine and electrical engineering, leadership skills; how to be a good junior divisional officer; dealing with unstructured challenging situations; and being toughened in rigorous physical environments for the challenges of fighting at sea.
University-style academic training—and the resultant environment of a college campus—is not the mantra at BRNC, except insofar as naval history, engineering, and subjects like celestial navigation, international rules of the road, and communications directly impinge on professional duties. In the 1960s, graduate intakes were just becoming the norm at BRNC. Today, Dartmouth has a 30 weeks basic training course followed by intensive professional training at sea and specialist shore training establishments. This 21st century program recruits directly from universities, with young acting sub-lieutenants having acquired their degree and, in some cases, having been members of their universities’ officer training corps. At sea in the English Channel and on the river Dart, hands-on seamanship training always has been paramount at BRNC, with divisional yachts providing ocean sailing alongside at Sandquay a myriad of small power and sailboats. Small boat training and sailing are mandatory at BRNC from day one and occupy a key part of the daily routine training. Parade training is intense. Officer trainees are taught how to handle a variety of small arms and, for those inclined to aviation, fly small aircraft trainers out of nearby Roborough Field.
By contrast, USNA is a four-year degree-oriented program with academics as a high priority. Annapolis strives for high rankings among U.S. universities, and its students can choose from a wide variety of academic majors. There is, therefore, a strong academic emphasis to the four-year program from day one, sustained by an academic faculty that is both professionally strong and seeking the same academic recognition as in any other U.S. university.
https://www.usni.org/magazines/proceedings/2018/march/comparison-us-navy-and-royal-navy-officer-training
しかし、陸上での訓練はわずか30週間にとどまり、後は、艦上での訓練となり、学士号は与えられない。
要するに、結論的に言えば、帝国海軍は、模範としたのが英海軍だったため、パブリックスクール群の存在を無視し、幼年学校的なものを設けなかったというわけだ。
帝国陸軍だって、仏/独直輸入だったわけだが、帝国海軍は、パブリックスクール的なものを導入し忘れたことが、大袈裟に言えば、致命傷になった、と言えるのではなかろうか。(太田)
[府立一中/日比谷高校・物語]
「設立以来の東京帝国大学の要請もあり、次第に「一高→帝大(東大)」一貫ルートとしての色合いが濃くなっていった。以後も東京府中學と大學豫備門、東大との教員の交流は独特なものがあり、「一中→一高→帝大」とされた所以でもある。また、明治初期以来の歴史を持つ文京区の誠之小学校、千代田区の番町小学校、麹町小学校等の各小学校には、都下の有力者の子弟が学区を超えて集まり、その多くが「一中→一高→帝大」のルートを進んだ。これは当時、現在の文京区西片や千代田区番町・麹町等に居を構えることが日本のエスタブリッシュメント、すなわち支配階級の証でもあったことから、選抜試験を施さない公立小学校でありながら、帝大教授の子弟や貴族院議員の係累から子爵の末裔まで、およそ日本の上流階級層が好んで集ったためである。当初、政府や東京府は従来の寺子屋教育の踏襲や雑多な教科目、その学科偏頗をして各種学校を正規の学校と見なさず、その中で中学校に準じるものの殆どが英語や漢文、数学を主とする進学予備校であった。
<府立一中で、>1890年に勝浦鞆雄<(注108)>(前:東京府尋常師範(現:東京学芸大学)幹事)が第9代校長に就任してからは、生活指導と進学指導が活発化。
(注108)1850~1926年。「大坂(現 大阪)生まれの日向国(現 宮崎県)高鍋藩士族の出。明治維新を経て維新政府に仕え、和歌山県師範学校校長を経て、警察官の左遷人事にあったりしたが、東京府の吏員となり、東京府尋常師範学校(現 東京学芸大学)幹事から1890年(明治23年)から1909年(明治42年)にかけて、東京府尋常中学校(尋中、のち府立一中、現 都立日比谷高校)校長職にあった。・・・国学を専攻・・・校訓として「教範三綱領」(のち五綱領に改定され、併せて十五徳の倫理綱領も制定し、生徒に暗誦させた)を制定した。また。体格検査(身体検査)、修学旅行の企画(1891年)、学友会や保護者会も最も早くに導入した。さらに、卒業時期が年に二回あったことの不便さや、会計事務処理上の便宜上の理由もあって、卒業時期を三月、新学期の開始を四月にするなど、全国の模範となった。また、進学指導を活発化させ、1891年(明治24年)9月、第一高等中学校(のちの一高)への連絡(推薦入学枠)を最も早くに獲得した。“末は博士か大臣か”という時代の空気(時代精神)にあり、卒業生はできるだけ帝国大学へ送り、なるべく大学教授にするのが理想だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%A6%E9%9E%86%E9%9B%84
「高鍋藩<は、>・・・日向国児湯(こゆ)郡高鍋(宮崎県高鍋町)に藩庁を置いた外様藩。秋月藩ともいう。秋月種長(たねなが)(在位1587~1614)が関ヶ原の戦い後、本領財部(たからべ)以下3万石を徳川家康より安堵され、1604年(慶長9)本拠を那珂(なか)郡櫛間(くしま)より財部(のち高鍋と改称)に移したのが、実質的な藩の始まりである。2代種春(在位1614~59)の代までは門閥譜代層の抗争がやまず、藩政は動揺を極めたが、3代種信(在位1659~89)は民衆支配と家臣団統制に一定の実をあげ、藩政を固めた。4代種政(在位1689~1710)も民政に力を入れる一方で、殖産奨励による財政安定化を図った。しかし18世紀に入ると、藩財政は悪化の一途をたどったため、7代種茂(在位1760~88)は流通統制の強化、藩校明倫堂の創設による士風の作興など、藩政改革に着手、以後その推進が歴代藩主の大きな課題となった。戊辰戦争に際しては、10代種殷(たねとみ)(在位1843~71)が討幕の意志を明らかにし、藩兵は東北地方にも転戦。1871年(明治4)の廃藩置県でいったん美々津(みみつ)県管に入ったのち、73年に宮崎県となる。・・・
米沢藩主で名君として知られる上杉鷹山は、6代高鍋藩主・秋月種美の次男。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%8D%8B%E8%97%A9-92664
⇒4月~3月の学年制が府立一中から始まったとは知らなんだ。(太田)
それまで私立校(今でいう塾・予備校に近似)の後塵を拝していた進学実績は伸びることとなり、明治半ばから後半にかけて、一躍一高合格者数で首位に踊り出した。すでにその名は全国に知れ渡っていたが、この頃から一高 – 帝大への一貫ルートとして名実共に世間に認知された。ただ、一高を目指す風潮が強い余り、旧制高校への現役合格者数全体で見た場合、特に昭和の時代に入ってから四中(戸山)等に及ばないことも見られるなど、伝統的にガツガツした面とは無縁である一方で、このように一高への執着が強かったことも権威主義的である一面として見られた。・・・
1909年に川田正澂<(注109)>(第10代、前:仙台一中(現:仙台一高)校長)が校長に就任すると、後の時代にかけて連綿と続くリベラルと譬えられる校風が花開き、政治・経済方面は言うに及ばず文学・芸術方面に至るまで各界に異色な人材を輩出してゆく基盤が形成されていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%AB%8B%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
(注109)まさずみ(1864~1935年)。「土佐国(現・高知県)生まれの士族出身。高知中学校(現・高知追手前高校)から選抜されて、東京日本橋箱崎町の旧土佐藩侯邸内・海南学校(現・高知小津高校)に上京し進学。のち廃校となり、明治義塾(のち廃校、その跡地に英吉利法律学校、日本中学創立)に移り外国人から英語を学ぶ。1888年、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、第三高等中学校(のちの旧制三高)教員となり、1898年(明治31年)に静岡県立静岡中学校(現・静岡高校)校長、1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて宮城県立仙台第一中学校(現・仙台第一高校)校長を経て、1909年(明治42年)に東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)校長に任ぜられる。
府立一中では前任者の勝浦鞆雄校長の「~べからず」教育からの脱皮を計り、生徒心得も5か条の簡潔なものとした。着任した折の「就任の辞」では、「本校ハ位置帝都ニアリテ全国中学校ノ首班タリ」と述べていたように、この「日本一の名声」を慕って全国の小学校から受験生が集まった。1913年(大正2年)3月~1914年(大正3年)6月の間に欧米視察旅行の際、大英帝国のパブリックスクールに深い感銘を得た。
かの地のイートン校やハーロー校、ラグビー校の諸校が、のんびりした紳士・人物の育成、自治自制をモットーとしているなか、その中でも特にイートン校に範をとった。ただ当地のパブリックスクール諸校が、国王の恩賜、貴族・大富豪の寄付で成り立っていることに対して、士族出身の川田は、騎士道養成教育の要としてそれと日本の武士道との共通性を見てとった。王侯貴族の子弟が通うイートンなどに対して、都会型中産知識階級の子弟が通う一中とはバックグラウンドが全く違うなか、いわゆる「ノーブレス・オブリージュ」の規律・精神を共通の教育の土台・精神とすることを目指していた。さらに、パブリックスクールが非営利団体による独立学校であるのに対して公立学校による制約があるため、学友会(校友会ないし父兄会あるいは同窓会ないし後援会)による財団法人の組織化を図った。
しかし、第一次世界大戦による好況も長くは続かず資金が集まらなかったため、1920年(大正9年)、社団法人として学友会が設立・認可された。
また、イートンを理想とする国士養成教育(ないし紳士養成教育)と、年々いや増してくる進学熱の現実とのせめぎ合いの中、上級学校への進学教育も無視することができなくなり、1922年(大正11年)に補習科を設けた
もっとも世間の詰込学校、あるいは規則学校という風評通り官僚的な、厳格な校風で成績にもうるさく、たとえば、当時顕在化し始めた都市部の中学の入学難を背景に“試験地獄”“釜茹での試験”などの文字が新聞紙面を躍る中、戸川秋骨は東京朝日新聞に寄稿した『断じて府立へは入れない 』において、一中と四中の勉学のみならず素行点も含めた厳格な校則を批判した。この頃(1922年 <大正11年>)、主に卒業生を対象に補習科が設けられた。・・・
身心鍛錬の意味合いにおいてスポーツを推奨していた<が、>・・・対外試合を禁じていた。・・・<が、>トーナメント<への>出場<は>・・・例<外として認められる場合もあった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%BE%82
(参考)「1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。なお、配属将校は教練に関しては学校長の指揮監督を受けた。
師範学校(官立又は公立のみ)
中学校(官立、公立又は私立)
実業学校(官立、公立又は私立)
高等学校(官立、公立又は私立)
大学予科(官立、公立又は私立)
専門学校(官立、公立又は私立)
高等師範学校(官立又は公立のみ)
臨時教員養成所(官立又は公立のみ)
実業学校教員養成所(官立又は公立のみ)
実業補習学校教員養成所(官立又は公立のみ)
大学学部(官立、公立又は私立)
私立学校については任意的であったが、多くの私学では兵役期間が短縮されるという特典を学生獲得する目的で利用していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E7%B7%B4
⇒そもそも全寮制でないところへもってきて、個人の心身鍛錬目的でスポーツは奨励されたものの、団体競技は必ずしも奨励されず、しかも、対外試合も原則禁止されていた、というのだから、川田は英パブリックスクールの何たるかを全く理解しておらず、戦前昭和期には軍事教練は実施されていたものの、「「皆が憎みおそれていた、柔剣道場の裏でタバコを吸い、教練の老中尉を手こずらしていたような連中が、却って今日も個性を延ばして活躍しているところをみると、一中は教育の半面を忘れていたのではないか。」 前掲書 1927年渋沢輝二郎の寄稿文<より>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%BE%82 前掲
といった空気からすると、府立一中の侮軍・「リベラル」伝統は一貫して変わらなかったように思われる。
(また、そういう空気だったからこそ、(私見では)陸軍幼年学校こそ、当時の日本で最も英パブリックスクール的な学校だったというのに、府立一中側からは、自分達の足元が見えず、遠い外国に青い鳥を見つけた思いだったのではなかろうか。)
「心身共に「鍛練主義」の教育で、受験や成績に非常に厳しい詰め込み教育だった。宿題も毎日あり生徒会やHR活動もなく学級は一つの授業を受ける単位に過ぎなかった。偏った教育であった。」(上掲)というのだから、学生の「一中→一高→東大」の関係、教官の「一中⇔一高⇔東大」の関係、から、この一中の侮軍・「リベラル」的風潮が、一高、東大、も、染め上げることとなった、と見る。
蛇足ながら、戦後の一中改め、都立日比谷高校は、スポーツは通常の公立高校と同じで引き続き団体競技が取り立てて重視されることはないままであり、かつ、一高ならぬ東大志向は変わらず、変った点と言えば、「受験や成績に非常に厳しい詰め込み教育だった。宿題も毎日あり生徒会やHR活動もなく学級は一つの授業を受ける単位に過ぎな<いという>偏った教育」が是正され過ぎてしまい、表立って、がり勉したり、大学受験準備をしたり、することが憚られるという、ある意味、鼻持ちならない学校になったことだ。
(これは、戦後、競争相手の幼年学校生と海兵志望者とが消滅し、文字通り、日本の進学校のトップとなった日比谷高の生徒は、陸士や海兵においては卒業時だけではなく入学時(や在学中)の成績もその後の陸軍将校や海軍将校としての出世に響いた(典拠省略)ので幼年学校生や海兵志望者の間での競争が激烈だったことを意識せざるをえなかったところの、旧府立一中の生徒、とは違って、成績如何に関わらず、東大ないしはそれがだめでも一流校に入ることさえできればよかったわけであり、東大に入ることさえ、その目標をクリアすることがさほど困難ではなかったことが与かっていたのではなかろうか。)
もちろん、こういった全ての「伝統」は、学校群制度が、私が卒業した1967年に入れ違いで導入された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%BE%A4%E5%88%B6%E5%BA%A6
ことで失われることになった。
(戦後の、学校群制度導入までの間の日比谷高校で行われていて、私自身も経験したところの、百分授業、生徒による授業、2~3年時の担任の生徒による選択制、文化祭(星陵祭)と合唱祭の学生による運営、の起源や変遷についても調べようと思って果たせなかった。)(太田)
[帝大/東大・物語]
東大は、広義の旧幕臣が教授陣の中心となった大学だ。↓
「加藤弘之<(1836~1916年)>
1836年・・・:但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士として、同藩家老をも務めた加藤家の加藤正照と、妻・錫子の長男として生まれる。幼名は土代士(とよし)。
1852年・・・:江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
1854年・・・:大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
1860年・・・:蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
1861年・・・:『鄰草』(となりぐさ)を著し欧米の立憲思想を紹介する(ただし印刷・公表されたのは明治32年(1889年)である)。
1864年・・・:旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
1868年・・・:1月、目付に任ぜられる。新暦12月12日、政体律令取調御用掛に就任。この年、『立憲政体略』刊行。
1869年(明治2年):新政府へ出仕<。>・・・
1877年(明治10年):2月1日、東京開成学校綜理に就任。4月13日、旧東京大学法文理三学部綜理に就任。
1881年(明治14年):7月、職制の改革によって、旧東京大学初代綜理( – 明治19年(1887年)1月)。・・・
1890年(明治23年):5月、旧東京大学を改制した帝国大学(現・東京大学)の第2代総長となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BC%98%E4%B9%8B
「渡辺洪基<(1848~1901年)>・・・
1848年・・・- 越前府中善光寺通り(現在の越前市)に福井<(越前)>藩士で医者の渡辺静庵の長男として生まれる。・・・
1857年・・・- 府中の「立教館」に入学。(10歳)。のち福井の済世館で学ぶ。
1864年・・・- 18歳で江戸に出て佐倉の佐藤舜海に師事。
1865年(慶応元年)- 福澤諭吉に師事して慶應義塾を卒業後、会津で英学校を開く。戊辰戦争では幕府側として参戦。
1870年(明治3年)- 外務省大録(議長級)として出仕。
1871年(明治4年)- 岩倉使節団に随行(22歳)。
1874年(明治7年)- 一等書記官に昇進。オーストリア臨時代理公使。
1882年(明治15年)- 元老院議官(明治17年(1884年)7月19日まで)
1885年(明治18年)- 東京府知事着任。
1886年(明治19年)- 帝国大学(後の東京帝国大学現東京大学)初代総長(39歳)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B4%AA%E5%9F%BA
⇒佐藤舜海は佐倉藩医
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B0%9A%E4%B8%AD
であり、佐倉藩<には、>・・・1746年・・・、松平乗祐と入れ替わる形で、出羽国山形藩から老中堀田正亮(正信の弟である正俊の孫)が10万石で入封。その後は幕末まで堀田家の支配で定着した。佐倉藩の歴史においては、正亮以後の堀田氏を「後期堀田氏」とも称する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E8%97%A9
ということからすると、東大は、幕府の昌平黌以来の幕臣等教育の文官官僚養成機関としての伝統を基調とし、そこに、初代学長の渡辺洪基が、島津斉彬を尊敬していた松平春嶽を最高指導者とする時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD
に生れ育ち、幕臣教育を慶應義塾で上書きする形で秀吉流日蓮主義者となるも幕臣としての義理を果たしたという人物であったことから、秀吉流日蓮主義を隠し味として含むところの、高等教育研究機関としてスタートを切った、と言えよう。
「工学・・・の起源をお考えいただければわかりますが,土木工学 (civil engineering) 以外の工学は昔はすべて military engineering だったわけです。ですから,東大・・・の工学部に<も>軍事工学分野がある」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11266050366
だけでなく、1887年に文字通りの造兵学科まで設置されている。
(同「学科は、造兵学科は,第二次大戦終了後「精密加工学科」へと改称され.その後,いくつかの学科名の変遷を経て,1963年以降は「精密機械工学科」として活動を続け・・・2006年,新たなビジョンと教育手法を携え,「精密工学科」としての新しいスタートを切り<、現在に至っている。>」
https://komachi.hatenablog.com/entry/20081112/p1
また、「東京帝国大学第二工学部は、東京帝国大学(現・東京大学)が1942年から1951年まで千葉県千葉市弥生町に設置していた工学系の学部で・・・略称は「二工」・・・、東京都文京区本郷にあった従来の東京帝国大学工学部は、第二工学部が存続していた期間は「第一工学部」と改称してい<たところ、この>東京帝国大学第二工学部は、第二次世界大戦が激化する当時の情勢下において、軍事産業を支える工学者や技術者を養成するために、当時の東京帝国大学総長だった平賀譲の発案によって[要検証 – ノート]設置された<ものであって、>第二工学部の学科構成は本郷の第一工学部とほぼ一緒で、機械、電気、土木、建築、船舶、造兵、応用化学、冶金、航空、航空原動機の10学科構成で、3つの共通教室も設置され<、>・・・教職員は学部長の瀬藤象二を筆頭に、教授45名・助教授32名・他15名・職員308名・合計441名であった。教官の半数はメーカー出身者が占め、他大学の出身者や若手教官、本郷からの移籍組からなる混合部隊で、助教授の自由度も高かった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E9%83%A8
が、要するに、「戦争用の学部」だった。
https://komachi.hatenablog.com/entry/20081112/p1 前掲
⇒だから、東大が、単に、文系・理系官僚養成だけでなく、帝国陸海軍を科学技術面で支える役割も果たしたのは当然であったとも言えよう。
惜しむらくは、それは軍事科学(Military science)
https://en.wikipedia.org/wiki/Military_science
のほんの一部に過ぎず、他方、帝国陸海軍の諸学校においては、戦史、戦略、情報、装備、編制、作戦、戦術、兵站、地誌、といった、参謀に求められる諸知見が教えられていたので、それに必要な限りで研究も行われていたのだろうが、学問とか科学のレベルで研究が行われていたとは思えないことだ。
(戦後日本では、軍事工学(military engineering)部門を設けている大学はゼロとなり、状況は更に悪化している。
他方、世界では、軍事科学(Military science)で学位を付与する大学が多数ある、という状況だ。↓
Belgium: Royal Military Academy (Belgium)- BA Social and Military Science; MA Social and Military Science
Israel:
Tel Aviv University – MA in Security.
Bar-Ilan University – MA in Military, Security and Intelligence.
Finland:
National Defence University – Bachelor, Master, and PhD in Military science
France:
Sciences Po, Paris School of International Affairs – Master in International Security.
New Zealand:
Massey University, Centre for Defence and Security Studies – BA in Defence Studies.
Victoria University of Wellington – Centre for Strategic Studies – Master of Strategic Studies (MSS).
Slovenia:
University of Ljubljana, Faculty of Social Studies – BA, MA and PhD in Defence studies; PhD in Military-Social Sciences
United Kingdom:
King’s College London – MA in International Security and Strategy; MA, MPhil/PhD in Defence Studies
University of Hull – MA in Strategy and International Security
University of St Andrews – MLitt in Strategic Studies
Sri Lanka
Sri Lanka Military Academy – (Bachelor and Master’s degree in Military Studies) Military training school Diyatalawa, Sri Lanka
South Africa
South African Military Academy / University of Stellenbosch – Bachelor of Military Science (BMil), Master of Military Science (MMil), MPhil in Security Management [43]
United States:
United States Air Force Academy – Major in Military and Strategic Studies; Minor in Nuclear Weapons and Strategy
United States Military Academy – Major in Defense and Strategic Studies
Hawaii Pacific University – Major in Diplomacy and Military Studies
Missouri State University – Minor in Military Studies (上掲)(太田)
(3)海軍における教育総監部の不存在
ア 教育総監部について
「教育総監及び総監部は、明治20年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により〈陸軍大臣の管轄の下に〉設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。・・・
[1900年(明治33)4月教育総監部条例が根本的に改正され、教育総監は天皇に直隷し、「陸軍全般の教育の斉一進歩を規画する」ことが任務となった。・・・
総監の下に騎,砲,工,輜重(しちよう)の各兵監があり,当該兵科の教育に関する調査研究・審議立案にあたり,陸軍騎兵学校等諸学校を管轄した。]
総監は陸軍中将以上をもって補職され、陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれた。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
https://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3-244416 (〈〉内)
https://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3%E9%83%A8-244417 ([]内)
「帝国陸軍における「陸軍三長官」とは、以下の三つの役職の総称。
陸軍大臣 参謀総長 教育総監・・・
清浦内閣の陸相人事をめぐって揉めた際、「三長官合意」を論拠として宇垣一成が陸相となった。それはその後も慣例として続き、陸軍の幹部人事について三長官が会議を開くことが陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定で明文化された。1936年5月に軍部大臣現役武官制が復活した際は、広田弘毅首相は議会で「大命を受けた者が任意に軍部大臣を決める」と答弁して三長官合意を否定していたが、三長官合意を盾に現役武官の陸相を推挙しないなどの行動によって、組閣断念や倒閣となることがあった。
ただし、三長官会議の決定は、外部からの影響を一切受け付けないものでもなく、決定した後に覆して別の決定ができないものでもなかった。[1938年(昭和13)5月、
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E-15292 ]
第1次近衛内閣において杉山元陸相から板垣征四郎陸相へ更迭が行われた例でも陸軍三長官会議に先だって近衛文麿首相の主導で内閣・宮中からの工作が行われ、三長官が追認することとなった。
⇒板垣陸相決定時の、決定権限を慣行的に有するところの陸軍三長官は、陸相は杉山元、参謀総長は閑院宮、教育総監は西尾寿造、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
だったが、西尾はキリスト教徒であったと思われる点だけでも異色の陸軍軍人であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%AF%BF%E9%80%A0
ところ、杉山元が陸相になったことで教育総監の後任になった寺内寿一が6ヵ月余で北支那方面軍司令官に転出し、その後任の畑俊六もまた、6ヵ月足らずでその前年に南京事件を引き起こした松井石根を事実上更迭すべく中支那派遣軍司令官として出征し、その後を埋められず教育総監部本部長の安藤利吉が教育総監の事務管理を兼務で行わざるをえない、といった具合に、日支戦争勃発によるところの、中将以上の人手不足、が出来しており、閑院宮は、次長として使ったことがある西尾を良く知っていたけれど、杉山元は、西尾と接点がなかったためによく知らず、三長官会議の時の西尾の出方が読めなかったために、念には念を入れて、「上司」である首相の近衛文麿、と、(西園寺公望または貞明皇后を通じて)内大臣の湯浅倉平、を動かし、この2人から西尾に言い含めてもらったのだろう。
(事実関係は下掲による。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%80%89%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%AF%BF%E9%80%A0 前掲
また、阿部内閣の組閣時に、一時は多田駿を後継の陸相に決定した陸軍三長官会議の合意が、昭和天皇が畑俊六または梅津美治郎のどちらかの指名を希望したことにより覆り、再考の上で畑俊六を後継陸相とすることを三長官会議で再合意した。
また、三長官本人の異動に当たっても三長官合意が必要とされたため、1935年の真崎甚三郎教育総監の更迭時のように、更迭を望む陸軍大臣と更迭を拒否する教育総監が三長官会議の席で激論になることもあった(この時は参謀総長の閑院宮載仁親王が「お前は陸軍大臣の事務の遂行を妨害するのか」と林銑十郎陸軍大臣側に立って発言したため更迭が実現している)。
戦後、三長官合意は絶対的なものでなくなった。東久邇宮内閣発足に当たって、三長官会議では土肥原賢二が陸相に推挙されたが、東久邇宮首相は同期の下村定を陸相とした。
陸軍三長官の3ポストを全て経験したことがあるのは上原勇作、杉山元の2人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%89%E9%95%B7%E5%AE%98
以上は前書きだが、「1887年(明治20年)6月2日、監軍部条例(勅令第18号)が制定され、教育総監部の前身である第二次「監軍部」が設置された。その任務は「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画」する陸軍の教育を担当した。長官は天皇に直隷する監軍(大将または中将)で、以下、参謀長(少将または大佐)、将校学校監(少将)、騎兵監(少将または騎兵大佐)、砲兵監(少将または砲兵大佐)、工兵監(少将または工兵大佐)、輜重兵監(少将または輜重兵大佐)が置かれた。
監軍は、勅命により検閲使として軍隊を検閲する役割も担った。騎兵監などの各兵監は、それぞれの本科に関する調査、研究、審議、立案を担った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E8%BB%8D%E9%83%A8
ところ、メッケルの日本滞在は、1885~88年だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB
が、「望田幸男・三宅正樹編『概説ドイツ史』有斐閣,1982年・・・でメッケルは,陸軍省・参謀本部・教育総監部の三元制を日本陸軍に確立する上で,決定的な影響力を発揮した人物として紹介されている」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjckv3Xh8z9AhUVb94KHXJeCuIQFnoECDEQAQ&url=https%3A%2F%2Fkufs.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D173%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2xxgSN-5XWXchLXHxz2i0c の128頁
ことから、教育総監部を作ったのは、(恐らくはプロイセン/帝政ドイツの陸軍に教育総監部があったのだろうが、)その設置を日本の陸軍にも求めたメッケルだった、と言ってよさそうだ。
イ 海軍における教育総監部の不存在
他方、プロイセン/帝政ドイツの海軍にも教育総監部があったことは、プロイセン(/ドイツ帝国)海軍に海軍教育総監部が存在したことを前提とする下掲の記述がある(56頁)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjg8-35hsz9AhXIeN4KHWcFBOs4ChAWegQIDRAB&url=https%3A%2F%2Fomu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D6417%26item_no%3D1%26attribute_id%3D19%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0wvX01UkLPLsNS2So8a1J4
ことから分かる。
その上でだが、帝国海軍は教育総監部を設けなかった。
これも、単純な話、範例とした英海軍に教育総監部的なものがなかったからだろう。
そのことは、現在の(三軍統一の)英国防省の国防参謀部の組織を見れば、19世紀後半20世紀初の英海軍の組織も推測できるところ、人事部、戦略・運用部、財務・軍事力部、情報部、安全部、からなり、教育関係は、恐らくは人事部の所管で、独立した部さえない
https://en.wikipedia.org/wiki/Ministry_of_Defence_(United_Kingdom)
ことから明らかだ。
以下、付け足しだ。↓
「1900年(明治33年)5月20日、海軍教育本部条例(明治33年5月19日勅令第195号)により・・・海軍教育本部<が>・・・海軍省の外局<として>・・・東京に設置された。本部長は海軍大臣に隷属した。・・・
1900年5月20日 海軍教育本部設置。海軍大学校、海軍兵学校、海軍機関学校、砲術練習所、水雷術練習所、機関術練習所を管轄。
1907年9月23日 同年4月に練習所から改編新設した海軍砲術学校、海軍水雷学校、海軍工機学校を管轄。
1914年5月 運用術練習艦を横須賀鎮守府司令長官隷下とする。
1918年8月15日 海軍経理学校、海軍軍医学校を管轄。・・・
ワシントン海軍軍縮条約の締結に伴う海軍の規模縮小により1923年(大正12年)4月1日に廃止され、その業務は新たに設置した海軍省教育局に引き継がれた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E6%95%99%E8%82%B2%E6%9C%AC%E9%83%A8
つまり、帝国海軍は、軍令部や参謀本部や教育総監部といった、天皇に直結した・・帷幄上奏権のある・・機関ではなく、中途半端な、教育総監部もどきを作ってはみたものの、第一次大戦後の軍縮の際に廃止を止むなくされたというわけだ。
なお、宇垣一成の秀吉流日蓮主義者性については議論の余地があるところ、その点はさておき、杉山元ら、れっきとした秀吉流日蓮主義者にとって、陸軍大臣武官制の維持は至上命題であったけれど、我々のイメージにおける統帥権の独立・・参謀本部の独立・・にこだわっていたわけではなく、いわんや、教育総監部の存続など眼中になかったらしいことが分かる。↓
「・・・世論の盛り上がりを受けて,陸軍省では1925年4月に軍務局軍事課の杉山元軍事課長,永田鉄山軍事課高級課員らが統帥権の独立について研究を行った。軍事課が懸念していたのは,大臣任用資格制限の撤廃<・・文官大臣の受け入れ・・>がひいては統帥権の独立を否定することにつながることであった。ただし,軍事課は統帥権独立の必要を説いてはいたが,彼らのいう統帥権とは現場の作戦・傭兵など狭義のものであった。
軍事課は,第一次大戦でドイツが敗れた最大の理由は「統帥部の異常なる権力の拡大」「戦争全般の指導権を自己の掌中に収めんとした統帥部の増長慢」にあったと述べ,統帥事項は「国務の遂行上支障なき事項に限られなければならぬこと」を前提としていた。
その意味では軍事課の意見は,軍部大臣文官制を認めないという立場<に由来するもの>であったといえる。
<すなわち>,現状は軍政が優位にあるため統帥権の独立が国務に支障をきたすことはない,それゆえ文官制を導入する必要はないという論理であり,この点では財部海相とかなり近い立場にあったといえる。・・・
宇垣は・・・編制については軍政を優位に置いていた。たしかに宇垣は,陸軍省・参謀本部・教育総監部の「鼎立」,「分業」体制が軍務の能率を上げることを認めている。しかしそれは,前日の議会における「国家総動員に応ずる為に,徴募,教育,保育,動員というものを掌握して、軍政を統一する考えはないか」との内野辰次郎政友会代議士(陸軍中将,宇垣と陸士同期)の質問に対して,教育総監部との分業が効率的であると答弁したにすぎず,陸軍省の優位を否定したわけではない」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku/59/1/59_1_241/_pdf/-char/en
ウ 結論
海軍における教育総監部の不存在は、別段、海軍の教育訓練に悪影響を及ぼしたわけではなさそうだ。
7 文系学者
(1)京都学派
京都学派については、以下の通りだ。↓
「日本はアジアを脱して(脱亜論)ヨーロッパと同様な近代を歩んでいるという思いを彼らが持っていたということです。つまり日本は“ヨーロッパ近代の精神”の流れを受けている唯一のアジアの国であり、非近代(未近代?)であるアジアの他の諸国(中国が代表です)とは一線を画した国家(および文化)であるということでした。・・・
第一次世界大戦後のヨーロッパの荒廃を知るにつれ彼らの目標・目的は変貌していきました。ヨーロッパの姿は日本が目指した“ヨーロッパ近代”の行き詰まり(終焉)を明らかにしているように思えたのでしょう。彼らはヨーロッパの世界史的理念(使命)が終わったと認識したのです。
そしてそのヨーロッパが担っていた(現実化していた)世界史的理念(使命)をヨーロッパから引き継いでいくのが日本だと主張したのです。つまりアジアの中で唯一近代を実現した(と思っていた)日本がその世界史的使命としてアジアで帝国として出現したのです。
<「>東洋は近代というものをもたない。ところが日本は近代をもった、そしてこの近代をもったということが、東亜に新しい秩序を喚び起す、それが非常に世界史的なことだ<」>(「世界史的立場と日本」での鈴木成高の発言)
まるでナポレオンがヨーロッパ近代の世界精神を具現したように、日本の大陸侵攻は近代後(ポストモダン?)の世界精神を実現していると考えたのでしょう。まさしく「近代の超克」です。西欧史専攻の鈴木成高は次のようなスローガンを掲げました。
<「>政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克である<。」>・・・
漱石<は、こんなことを言っています>。
<「>西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾(つぼみ)が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。<」>(『現代日本の開化』より)
近代日本の知的達成と呼ばれた京都学派の哲学者たちが立っていたのは、漱石のいう外発的な近代であり、そこには内発的なものは少なかったのではないでしょうか。京都学派は日本の「後進性」をバネにひたすら世界の水準に追いつき追い越せと走った……、しかしそれは西洋近代を「誤解」していたのかもしれません。
さらにいえば「近代の超克」で京都学派が見出した「日本」とは、著者によれば「応仁の乱以後の文化」でしかなく、「禅仏教を中心にした非常に狭い範囲の文化を『日本文化』と強弁」しているように思えるものだったのです。」
https://news.kodansha.co.jp/5791
「京都学派は西洋哲学と東洋思想の融合を目指した『善の研究』などで表される西田哲学の立場に立ち、東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなくそれといかに内面で折り合うことができるかを模索した。しかしながら東洋の再評価の立場や独自のアイデンティティを模索することは次第に「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」との大東亜思想に近づくことになった。特に京都学派四天王(西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高)らは、「世界史の哲学」や「近代の超克」を提唱し、海軍に接近した。このため太平洋戦争の敗戦により、戦前の京都学派はいったん没落した。だが戦後も高坂、高山らは自民党などの保守政治に接近し、京都学派と政治とのかかわりは今日に至るまで脈々と続いている。なお、陸軍が海軍に較べて圧倒的な力をもっていた時代において、海軍への接近は軍部政権への翼賛というよりは、軍部の方針を是正しようとする体制批判の行動であったと、大橋良介は評している。また、大島康正メモによると、この海軍のブレーントラストとしての京都学派の集まりに、京都学派(東洋史学)の宮崎市定も常連として参加していたと大橋は指摘する。・・・
京都学派(哲学)の人物
西田幾多郎
田邊元
波多野精一
朝永三十郎
和辻哲郎
久松真一
武内義範
土井虎賀壽
下村寅太郎
上田閑照
大橋良介
三木清-京都学派左派
戸坂潤-京都学派左派
中井正一-京都学派左派
久野収-京都学派左派
西谷啓治-京都学派四天王
高坂正顕-京都学派四天王
高山岩男-京都学派四天王
鈴木成高-京都学派四天王」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E6%B4%BE
私の京都学派の評価については、すぐ後の、囲み記事・・西田幾多郎について・・を参照されたい。
なお、和辻哲郎は、「西田幾多郎などと同じく日本独自の哲学体系を目指した京都学派の一人として扱われることがある一方で、東京帝国大学文学部倫理学教室教授でもあ<る>」・・京大助教授、教授であったのは、1925~1934年(同大より博士号を1932年に取得)、東大教授であったのは、1934~1949年であり、
和辻https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%93%B2%E9%83%8E
東大在籍期間の方がはるかに長い・・という形式的な理由、と、「『人間の学としての倫理学』で・・・西洋哲学の個人主義を批判し、人間という字が本来意味するように、それは間柄的存在であるといい、個人と社会の相互作用が不調に陥ると全体主義・個人主義が台頭すると述べた<り、>・・・『風土』<で>・・・時間ではなく空間的に人間考察をおこなった<り>」(上掲)しており、かつまた、仏教にも造詣が深く、「西洋哲学と東洋思想の融合を目指した」(前出)点でこそ西田幾多郎と同じだが、主張の内容は全く異なる、という実質的な理由、と、で、京都学派の一員とは言い難い。
私は、和辻は、東大を含む、明治維新以降のこれまでの日本の文系学者の中で、唯一、世界のどこに出してもはずかしくない問題提起をおこなった人物だと考えている。
私が「問題提起」とし、「業績」としなかったのはなぜかについては、和辻その人を近々取り上げるつもりなので、その折に譲る。
[西田幾多郎について]
西田幾多郎(1870~1945年)の業績は、要するに下掲の通り。↓
「その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている・・・
鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非A<・・Aでないがゆえに・・>であり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E ※
引用前段についてだが、西田は、「1897年 この頃から参禅への関心が高まり、洗心庵の雪門玄雪、滴水、広州、虎関の諸禅師に就く」(※)ところ、玄雪は、「富山県[<の>臨済宗<の>]高岡国泰寺の管長をつとめ、若き日の西田幾多郎、鈴木大拙もその下に参禅した高僧だが、その生涯は謎に充ちている。国泰寺管長の座を捨て[金沢の卯辰山の洗心庵<で>]在家禅を唱導、さらに奇怪な還俗生活ののち、若狭の孤村で乞食僧として没した。」
http://kayokosdiary.net/article/437063148.html
http://kokutaiji.info/teach2.html
らしいが、滴水も臨済僧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E7%90%86%E6%BB%B4%E6%B0%B4
であり、「同郷の鈴木大拙(貞太郎)<(1870~1966年)>・・・とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人」(※)であった、その大拙が、先に鎌倉の臨済宗の円覚寺で参禅するようになり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99 ※※
その影響を受けたのだろう。
その「鈴木大拙・・・の著作群は膨大な量に上るが、その多くが《霊性の自覚》や《即非の論理》を巡るものとしてとらえることができる。たとえば『禅論文集1-3』は、禅における霊性的自覚つまり悟りの具体相と心理的過程をとらえている。」(上掲)
ということからすると、西田の業績は、要は、大拙の言う「霊性の自覚」と「即非の論理」を、それぞれ、欧米の哲学用語で説明しようと試みた、ということだろう。
しかし、考えてみよ、前者は不立文字(ふりゅうもんじ)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjtrdH9ts79AhVkm1YBHUmSCuMQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25B8%258D%25E7%25AB%258B%25E6%2596%2587%25E5%25AD%2597&usg=AOvVaw3t3b8ixWuP3L3fYbD6iNZp
を尊ぶ禅の精神に照らせば文字で説明しようとした大拙の試みすら褒められたものではないというのに、それを哲学用語で説明しようとした西田は叱責されてしかるべきだし、後者は「悟り(霊性の自覚)」へと誘う小道具としての公案
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%A1%88
の「論理」なのだから、そもそも、哲学用語での説明に馴染まないはずであって、西田は不可能なことを試みたドンキホーテとして蔑まれてしかるべきだろう。
(参考)
〇即非の論理
「鈴木によれば、『金剛般若経』の第十三節には「仏説般若波羅蜜。即非般若波羅蜜。是名般若波羅蜜」という成句があるが、これを公式的にすると、「A は A だと云ふのは、A は A でない、故に、A は A である」となる2。
これをさらにわかりやすく云うと「A は A ではない、ゆえに A である」と記される。こうした言い回しは一見すると、ある概念(A)とそれに矛盾する概念(non-A)を結びつけるという、同一律を無視した論理であるが、これについて鈴木は「凡て吾等の言葉・觀念又は槪念といふものは、さういふ風に、否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本當の物の見方だといふのが、般若論理の性格である」と説明している。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiordG9u8z9AhXW4GEKHYseBmsQFnoECBcQAw&url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fread0186929%2Fpublished_papers%2F13935755%2Fattachment_file.pdf&usg=AOvVaw33oW6tCfBA7WPRdlrJe0u0
〇公案
「狗子仏性(くしぶっしょう)は、禅の代表的な公案のひとつ。・・・
仏性は、『涅槃経ねはんぎょう』の「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」からきている。「山川草木悉皆成仏さんせんそうもくしっかいじょうぶつ 草木国土悉有仏性そうもくこくどしつうぶっしょう」ともいい、森羅万象に仏の性質が宿っていることを示し、仏教の基本理念の一つである。この場合の仏性とは「仏としての本性」という意味であり、「仏となり得る可能性」のことではない。
ある時、僧が趙州に「狗子(犬のこと。「子」は接尾語で「子犬」ではない[12])に還って仏性有るやまた無しや」と問うと、趙州はにべもなく「無」と答えた[13]。その僧は犬にも仏性があると返ってくると思ったのだろう。別の考え方では、一切衆生悉有仏性を担ぎ出して問を持ちかけ、趙州が仏性が無いと答えれば、仏教の教義にもとり、有ると言えばこの醜さはどうだと追求する二股をかけてきた。同じ質問にも、ひたすら自分の疑いを晴らしたさにする質問と、自分については大して問題にせず相手の力を試みるためにする’’’験主問げんしゅもん’’’があり、僧の質問は験主問の含みがある。問を発した僧は「すべてに仏性がある」という教えに執着するあまりに、ものの見方、考え方が偏っていたと思われる。
これが根底にありながら、趙州は「犬の仏性は無」といった。なぜ趙州はそう答えたかがこの公案を解く鍵であり、この基本理念から考えなおせ、根本に帰ってみなければならないということである。
趙州のいう無は、一般に使う有という概念に対する無でも、虚無(ニヒリズム)の無でもない。有無というような相対的な考え方は禅では徹底的に戒める。「無」は対立的概念の一切ない無、絶対無、空のことである 。
この公案は、趙州に質問した僧のような「すべてに仏性がある」というような執着や囚われを解き放って分別妄想を切って捨てるためのものであり、相対的なものの見方を徹底的に排除するのが目的である。この公案の眼目は、この無の絶対性を目指して参じていくところにある。この公案に取り組んで苦しんだあげくの結論が、本当の自分にとっての仏性なのだろう。有無も主観客観もなく絶対的な無に徹した時、無我無心の境地に達して心の自由と平安が得られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%AD%90%E4%BB%8F%E6%80%A7
しかし、そんなことより、はるかに根本的な欠陥を、鈴木/西田のあらゆる言文の出発点たる「悟り(霊性の自覚)」は抱えていたのだ。
それは、臨済禅であろうと曹洞禅であろうと、止(サマタ瞑想)(注110)だけなので、それで悟り(霊性の自覚)は得られないことであり、鈴木/西田はそのことを知らなかった、ということだ。
(注110)「いわゆる「余計な思考を止めて雑念を払う」瞑想。でもいきなり「無になる」わけではありません。
その方法は、なんらかの対象に対して集中するということです。つまり「無心」のまえにまず「一心」を目指すことです。
思考は基本的に瞬間瞬間においては一つのことしか考えられないシングルタスクなので、その特徴を利用し、一つのことに集中することで他のことを考えないようにする、という原理です。」
https://flareplus.com/584
というか、そもそも、鈴木は金沢藩の藩医
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E5%8C%BB
の子(※※)なので、鈴木は縄文的弥生人の可能性が高く、西田は縄文人の可能性が高いので、鈴木は、両親から引き継いだところの、縄文性の毀損を修復する必要はあったところ、臨済禅によってというよりは、臨済宗寺院環境に頻繁に身を置くことでそれに成功していたと思われるので悟りが私の言う人間主義者化(回帰)的なものであることが分かっていた可能性を完全には否定できないのに対し、西田は加賀藩の大庄屋を務めた豪家の出身(※)なので、物心がついた時には西田は既に悟っていたため、悟りの何たるかをついに分からずじまいだったことは確実だと思われる以上、そんな自分が分かっていないものについて、欧米の哲学用語を使おうと使うまいと、説明できるわけがないのだから、『善の研究』等の西田の業績は、単なる落書きに毛が生えた程度の代物に過ぎない、ということにならざるをえまい。
だから、そんな「西田哲学の立場に立」っていた京都学派の生産性が限りなくゼロに近かったのは当たり前だし、そんな京都学派の利用価値などない、と、帝国陸軍は見切っていたので、魚心十分の京都学派と、帝国陸軍が唾をつけていないことに目をつけたところの、水心のあった(陸上のことには疎い)帝国海軍、とが野合したといったところだろう。
帝国陸軍の上層部の中にも、例外的に佐藤賢了のような猪突猛進する視野狭窄な人間もいて、忘れられていた頃に、西田に声をかけたわけだが、佐藤以外の上層部の連中からその動きが完全に黙殺されてしまい、そのことを察した西田が憤怒し、それが彼の死期を早めた? というわけだ。↓
「太平洋戦争中の晩年、国策研究会において佐藤賢了<(注111)>と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説[・・1942年(昭和17年)1月・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F ]への助力を依頼される。
(注111)1895~1975年。陸士(29期。257番/536名)、陸大(37期)。「陸大在学中に兵学教官の東條英機歩兵中佐(17期)の知遇を得、秘蔵っ子的存在となる。・・・1930年(昭和5年)5月、アメリカ駐在、米野砲兵第12連隊附。駐在時にはテキサス州で砲兵隊の隊付将校としての経験から、陸軍部内ではその経歴から知米派の扱いを受けた。・・・
1938年(昭和13年)3月3日、“黙れ事件”を起こす。軍務課国内班長として衆議院の国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員(佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸軍大臣(12期)により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。・・・
1941年(昭和16年)3月1日、陸軍省軍務局軍務課長に就任。東條英機の側近として知られ、巷間「三奸四愚」と呼ばれた側近のうち四愚の一人とされる(残りの3人は木村兵太郎、真田穣一郎、赤松貞雄)。軍務課長という立場でありながら、昭和天皇の開戦回避の聖旨に添って動く東條首相兼陸相や、開戦に慎重な武藤章軍務局長(25期)よりも、田中新一参謀本部第1部長(25期)を筆頭に開戦に積極的な参謀本部を支持していた。自身も東條の前で日米交渉に消極的な意見を吐き、逆に東條に叱責されている。・・・
1942年(昭和17年)4月20日、陸軍大臣の軍政に関する最高スタッフである陸軍省軍務局長に就任。・・・
1944年(昭和19年)12月14日支那派遣軍総参謀副長。1945年(昭和20年)4月に親補職である第37師団長に就任。・・・
死の直前まで面談者には大東亜戦争(太平洋戦争)は聖戦だったと主張していた。[要出典]・・・
岡敬純海軍中将とは囲碁仲間であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B3%A2%E4%BA%86
「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だったことや、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。」(※)
なお、岡敬純は、対英米戦開戦時の海軍の軍務局長であり、同じ時期に陸軍の軍務局長であった佐藤賢了と、仕事の上での付き合いがあって当然ではあっても、私的にも親しくしたことからして、岡がそうであったと私が見ている(コラム#省略)ように、佐藤も、杉山構想を明かされていたのだろう。
(2)昭和期東大法学部
ア 筧克彦(1872~1961年)
「1897年(明治30年)に帝国大学法科大学卒業(法律学科首席、法科大学卒業生総代)。同期生には美濃部達吉がいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6
「天皇の神格を信じ、現神(あきつかみ)である万世一系の天皇が治め給(たも)う大日本帝国が人類世界を統一し、支配するのが当然であることを説き、国家主義の立場にたつ憲法学者として、第二次世界大戦前には軍部、右翼の理論的支柱として活躍した。大戦中は「大政翼賛」「八紘一宇」を講じた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6-16000
「1912年(大正元年)には、いわゆる「上杉・美濃部論争」が、主としてドイツ憲法学説の輸入学説間の大日本帝国憲法をめぐる分裂抗争の様相を見せている事を暗に批判した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6 前掲
「文学者中島健蔵<(注112)>は「近代政治学から見れば、はしにも棒にもかからない」「神道に基づく祭政一致論」を唱える、「札つきの神がかりの学者」と戦後の著書に記述している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6
ところだが、それこそ、はしにも棒にもかからない学者で、(戦前に宮沢賢治を見出した点を除き)性根下劣なる文芸評論家として終始した中島でも、この筧評に関してだけは正鵠を射ていると思う。
(注112)1903~1979年。旧制松本高校、東大文(仏文)、同大副手、助手、臨時講師、講師。「当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。・・・
戦時中、作家の中河与一が、左翼的な文学者の「ブラックリスト」を警察に提出したという噂が戦後流れた。これも一因となって中河は文壇からパージされたと言われる。しかしこれは平野謙によるデマで、自身の戦争協力を隠蔽するための工作だったと言われ、中島もこれに加担していた疑いが濃い。戦後の、戦争責任追及行為は、中島の戦争協力を隠すためだったとする見方が今では有力である(森下節『ひとりぽっちの闘い-中河与一の光と影』)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%81%A5%E8%94%B5
⇒東大法での学業成績が美濃部達吉よりも良かった筧克彦は、ドイツの法学説の輸入翻案をもっぱらとしてきたところの、美濃部達吉や上杉慎吉らを批判した点は天晴だが、そんな筧が唱えた彼独自の学説の余りのばかばかしさに言葉を失ってしまう。
こんな筧は、杉山らにとってさえ、使い物にならなかったと言えよう。(太田)
イ 上杉慎吉(1878~1929年)
「1910年代に入ると「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」とする立場から同じく東京帝国大学の美濃部達吉が打ち出した天皇機関説を批判するようになる(天皇機関説論争)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%85%8E%E5%90%89
「山県有朋の知遇を得て13年山県系官僚を中心に思想団体桐花学会を組織。19年新人会に触発されて,国家主義的学生団体興国同志会を組織。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A1%90%E8%8A%B1%E5%AD%A6%E4%BC%9A-1375455
「興国同志会は後に上杉の弟子竹内賀久治と太田耕造によって国本社と改めて平沼騏一郎や東郷平八郎ら軍や政財官界の有力者を担ぐ巨大な右翼団体となり、1925年に結成された帝大七生社はのち4人の七生社メンバーが1932年に起きた血盟団事件で犯行グループに参加した(このうち四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘は金鶏学院の塾生)。教え子の岸信介(木曜会・興国同志会会員)と安岡正篤に大学で自らの講座の後継者として残るようにすすめたが、両者は官界に進んだ。興国同志会会員だった蓑田胸喜は上杉と同じように機関説を排撃する国体明徴運動で名を馳せ、国体擁護連合会の中心的存在となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%85%8E%E5%90%89 前掲
⇒杉山らは、美濃部の学説をホンネでは是としつつ、上杉の学説にリップサービスをした上で、「権威ある」東大法の教授である上杉個人、を国内向け諜報活動の一環として利用し倒した、と言えよう。(太田)
ウ 結論
結局のところ、和辻哲郎一人を除き、東大の文系教授達については、(具体例は挙げないが、)行政法・・美濃部は行政法学者でもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%83%A8%E9%81%94%E5%90%89
・・、経済計画、財政、会計、といった、技術的(工学部的)な研究業績は活用したけれど、哲学、思想、といった、理論的(理学部的)な研究業績で、杉山らの役に立ったものは皆無だったと言ってよかろう。
(和辻哲郎についても、「問題提起」に終わっている(前述)ので、「国体の本義」の編纂委員なる箔付けだけが目的の14人の1人(注113)ではあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9
けれど、殆ど杉山らの役には立たなかった、と、私は見ている。)
(注113)「吉田熊次・紀平正美・和辻哲郎・井上孚麿・作田荘一・黒板勝美・大塚武松・久松潜一・山田孝雄・飯島忠夫・藤懸静也・宮地直一・河野省三・宇井伯寿の14人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9
8 文学者
(1)始めに
「歌人や小説家といった職業は、多くの人々の共感を得なければ成り立たない以上、感情・感覚的には「われわれの超越者」ではなく、「われわれの代表者」であらねばならない<。>
別の言い方をすれば、多くの人が共感する感情を多くの人よりも優れた方法で提示する、というのがその職業の本質なのではないか<。>」
https://www.mizukishorin.com/post/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E9%9D%96%E5%BD%A6%E3%80%8E%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%8F%E2%80%95%E2%80%95%E7%AB%8B%E3%81%A1%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%82%92%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8
⇒でもって終り、というわけにもいかないだろう。(太田)
「1940年には、戦争への国民動員組織「大政翼賛会」が結成され、その文化部長には岸田国士が就任。また42年になると、日本文学報国会(会長・徳富猪一郎)、大日本言論報国会(同)など、軍国主義的な国策遂行のための動員組織がさまざまに結成され、これに不参加なら発表の場が奪われるなどの条件のもとで、文化人・文学者のなかにも戦争協力が広が<っ>た。・・・
武者小路実篤の・・・ように戦争協力の筆をとった作家は、植民地台湾・朝鮮の文学者をもかり出した大東亜文学者大会で日本代表を務めた菊池寛や、「聖戦」賛美の詩や歌をうたった高村光太郎、斎藤茂吉、従軍作家として戦争を鼓舞した林芙美子、尾崎士郎」
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-12-23/ftp20061223faq12_01_0.html
⇒そこで、日本共産党お墨付きの「戦争協力」文学者達↑の、戦前の軌跡を、以下、順次、俎上に載せることとしたい。(太田)
(2)徳富猪一郎(蘇峰)(1863~1957年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
「肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した。・・・
京都の同志社英学校に転入学し<、>・・・創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった。・・・
1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設する。1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる。
大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった。1882年(明治15年)夏に上京し、慶應義塾に学ぶ従兄の江口高邦に伴われて福澤諭吉に面会。
蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。
蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助(自由党総理)を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている。・・・
1889年(明治22年)1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃し、日清戦争に際しては、内村鑑三の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた(「好機」)。それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨脹的日本」へと転換する絶好の機会だということである。蘇峰は戦況を詳細に報道、自ら広島の大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した。 さらに蘇峰は、参謀次長・川上操六、軍令部長・樺山資紀らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨脹論』を刊行した。・・・
山縣有朋や桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した。しかし、1905年(明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。
と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日の日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって襲撃を受けた。・・・
1910年(明治43年)、韓国併合ののち、初代朝鮮総督の寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。『京城日報』は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞であった。・・・
1918年(大正7年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した。同年7月、55歳となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであ・・・
大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている。・・・
関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津と河西のあいだに確執が深まり、1929年(昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。・・・
1931年(昭和6年)・・・に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。・・・
<白閥打破は、>白色人種のヘゲモニーに対峙する国民的自覚を持つべきの意。澤田次郎は蘇峰が同語を使い始めたのは、1913年(大正2年)のカリフォルニア州外国人土地法(排日土地法)の成立が契機となったと指摘している。・・・
1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔勅を添削している。
1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった。・・・
1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。・・・
蘇峰は終戦後も日記を書き続けており、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている。・・・
山本武利は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている。・・・
1951年(昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。・・・
葬儀は東京の霊南坂教会でおこなわれた。・・・
近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者であるジョン・ピアーソン(1977年)、ビン・シン(1986年)によって示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈している。」(上掲)
⇒蘇峰は、生涯、キリスト教徒であり続けたわけであり、それだけでも秀吉流日蓮主義とは相いれない人物であったことが想像できようというものだが、彼の畢生の著作である『近世日本國民史』の史観を論じた文献をネット上ですぐには見つけられなかったので、その立ち上がりの時代の目次を手掛かりにしてみた。↓
近世日本國民史
織田氏時代前篇
第一章 室町時代 ~ 第十七章 舊時代去り新時代來る
第二章 混沌社會
八 一向宗の勃興●
九 蓮如●
第三章 西力東漸
二〇 耶蘇教傳來の發端●
二一 聖徒、撒美惠●
二二 日本最初の耶蘇教者●
二三 外來の福音●
二四 宗教と政權●
二六 撒美惠の見たる日本人●
第十章 家康の門徒一揆平定●
六二 俗界に於ける一向宗の勢力●
六三 家康と門徒一揆●
六四 一揆の分析●
第十三章 本願寺と比叡山●
七九 信長と本願寺●
八〇 叡山の攻圍●
八二 叡山燒打●
第十七章 舊時代去り新時代來る
一〇〇 足利義昭の沒落
一〇一 室町幕府の滅亡
一〇二 新時代の權化
https://www.tokutomisohou.com/001odasijidaizenpen/001odasijidaizenpen.htm
織田氏時代中篇
第一章 天正時代の日本 ~ 第二十章 山陰道と明智
第二章 信長の勢力京都及び近江伊勢に震ふ
九 長島全滅●
第五章 北陸經略
二四 越前門徒退治(一)●
二五 越前門徒退治(二)●
第九章 九州に於ける耶蘇教●
三九 撒美惠去後の耶蘇教●
四一 大友氏と耶蘇教●
四二 平戸と耶蘇教(一)●
四三 平戸と耶蘇教(二)●
四四 大村純忠と耶蘇教●
第十章 上國に於ける耶蘇教●
四六 京都に於ける耶蘇教●
四七 近畿に於ける耶蘇教●
四八 耶蘇教傳播各種の理由●
四九 最初の宣教師●
第十一章 信長と耶蘇教の關係
五〇 信長と耶蘇教●
五一 信長と宣教師との會見●
五二 耶蘇教と其の反對者●
五三 朝山日乘●
五五 宣教師フロヱー●
五六 宣教師オルガンチノ●
五七 信長とオルガンチノ●
五八 信長とワリニヤーニ●
五九 信長遂に悔いず
第十六章 織田氏及び其敵
七九 織田、毛利、及本願寺(一)●
八〇 織田、毛利、及本願寺(二)●
https://www.tokutomisohou.com/002odashijidaityuuhenn/002odashijidaityuuhenn.htm
豊臣氏時代甲篇
第一章 秀吉の素生 ~ 第二十章 秀吉家康の暗鬪
豐臣氏時代乙篇 目次
第一章 秀吉の妥協政略 ~ 第二十四章 泰平氣象の催進
第七章 薩摩に於ける宗學
二一 島津忠昌と桂菴和尚●
二二 桂菴の感化●
第二十章 秀吉の對耶蘇教政策
六七 秀吉の耶蘇教處分●
六八 秀吉と耶蘇教●
六九 秀吉とコヱルホとの會見(一)●
七〇 秀吉とコヱルホとの會見(二)●
七一 宣教師三箇條の要求●
七三 九州に於ける耶蘇教の勢力●
第二十一章 秀吉の耶蘇教に對する制裁
七七 耶蘇教師退去の厳命●
https://www.tokutomisohou.com/005toyotomisijidaiotuhen/005toyotomisijidaiotuhen.htm
豊臣氏時代丙篇
第一章 秀吉の平和的施設 ~ 第二十章 檢地と關白讓職
第一章 秀吉の平和的施設
二 比叡山の再興(一)●
三 比叡山の再興(二)●
四 京都大佛の造營(一)●
五 京都大佛の造營(二)●
第十七章 退去令後耶蘇教の形勢
八五 退去令發布後の耶蘇教●
八六 細川忠興夫人明智氏の改宗(一)●
八七 細川忠興夫人明智氏の改宗(二)●
第十八章 遣歐使節●
八八 遣歐使の一行●
八九 使節羅馬に入る●
九〇 使節羅馬法王に謁見す(一)●
九一 使節羅馬法王に謁見す(二)●
九二 遣歐使一行日本に歸著す●
https://www.tokutomisohou.com/006toyotomisijidaiheihen/006toyotomisijidaiheihen.htm
⇒上掲一覧表で、●を付けたのは、一見明白に宗教について取扱った章ないし節であるところ、耶蘇教(キリスト教)ばかりで、時々一向宗、そしてたまに天台宗、が取り上げられているにとどまり、日蓮宗に至っては、朝山日乘だけであって、それも、日蓮宗を取り上げたのではなく、前後を耶蘇教を扱った節群に挟まれていることから、日乘を中心としたところの、反耶蘇教の動きを取り上げたのであろうことが推し量れる。
以下、推して知るべしであり、この大部の著作は、せいぜい、大衆歴史作家が、ネタ漁りに利用する程度の使い道しかなさそう。
結論的に言えば、蘇峰は、その時々の日本の国内潮流の波乗りを見事にこなし続けた生涯を送った、究極のオポチュニストであった、と言えよう。(太田)
(3)与謝野晶子(1878~1942年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E6%99%B6%E5%AD%90
「与謝野晶子といえば、・・・出征した弟を詠んだ「君死にたまふことなかれ」は1904年、日露戦争の時代。・・・
<ちなみに、> 日露戦争当時は・・・白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる。・・・
それから38年が経って、64歳になった晶子は、『大東亜戦争 愛国詩歌集』(目黒書店、1942年)に次のような歌を収めている・・・。
み軍(いくさ)の詔書の前に涙落つ世は酷寒に入る師走にて
強きかな天を恐れず地に恥ぢぬ戦をすなるますらたけをは
同時期には、以下のような歌も詠んでいる・・・。
水軍の大尉となりてわが四郎み軍に往く猛く戦へ
子が乗れるみ軍船のおとなひを待つにもあらず武運あれかし・・・
「日支親善」を唱え、国家主義よりも人道主義・人類主義に重きを置いていた晶子は中国の軍閥政府は当然として、田中義一内閣など日本の為政者をも厳しく非難し<ていた>。
<しかし、そんな>晶子は、上海事変を機に変化してい<った>。
1932年、日本陸軍と国民革命軍の間で軍事衝突が起きた上海事変ではじめて、日本のマスコミは中国人を「敵兵」と読んだ・・・。
そして晶子も、そのような読売新聞の記事を読んで感動し、「紅顔の死」という詩を発表<する>。
中国の学生志願兵たちの死体を描いて、
彼等、やさしき母あらん、その母如何に是を見ん。支那の習ひに、美しき、許婚さへあるならん。
と悲しむこの詩は、ある意味では「君死にたまふことなかれ」に通じるものがあるようにも見え<る>。
しかし・・・「学生たちを誰が直接殺したか、また彼らが誰を殺そうとしたかについては一切黙して語らない。この点でも、「紅顔の死」は「君死にたまふことなかれ」から大きく後退している」・・・。
たしかに、・・・「紅顔の死」第一連では「敵の死屍」ということばが繰り返されてい<る>。いかに悼もうとも、彼らは「敵」で<あっ>た。・・・」
https://www.mizukishorin.com/post/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E9%9D%96%E5%BD%A6%E3%80%8E%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%8F%E2%80%95%E2%80%95%E7%AB%8B%E3%81%A1%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%82%92%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8 前掲
⇒晶子は、キリスト教徒ではないが、女性蘇峰である、と見てよさそうだ。(太田)
(4)斎藤茂吉(1882~1953年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%90%89
「1882年(明治15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現:上山市金瓶)に生まれた。
守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎの無かった同郷の精神科医、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。・・・
守谷家は隣接する時宗(のち浄土宗)宝泉寺の檀家であり、茂吉も40世住職・佐原窿応の薫陶を受けた。第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。また時宗大本山(のち浄土宗本山)蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。生前自ら作っていた戒名は、一向派の法式になっている。・・・
<一高、東大医卒。精神科医。ウィーン大を経てミュンヘン大医博。>・・・
1937年(昭和12年):帝国芸術院会員となる。日中戦争勃発以後数多くの愛国歌を詠むようになる。(直心(ただごころ)こぞれる今かいかづちの炎と燃えて打ちてしやまむ)・・・
太平洋戦争中の創作活動は積極的に戦争協力していた。・・・
戦時中、戦意高揚の和歌を多く作成していたが、茂吉自身は狂信的な国粋主義者でもなく、戦争や皇室に関しては平均的な日本人の感情を持っていた。それでも昭和天皇とマッカーサー元帥との有名な会見の写真が新聞に掲載された時は、憤慨し「ウヌ、マッカーサーの野郎」と日記に書きしるしている。」(上掲)
⇒茂吉は、詩才に恵まれていたところの、万葉集以来の伝統的な、本業のある普通の一日本市民。
よって、戦争協力だのなんだのといった文脈で取り上げるのは酷だろう。(太田)
(5)高村光太郎(1883~1956年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E
「東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)・・・
彫刻科を卒業し研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、1906年(明治39年)3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国。・・・
1910・・・年『白樺』が創刊されると、武者小路実篤らとの交友も始まり、『白樺』に「ロダンの言葉」などを寄稿している。・・・
真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、日本文学報国会詩部会長も務めた。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も花巻空襲で被災し、辛うじて助かる。
1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。」(ここまで、上掲)
「1926年(大正15)12月に上京した宮沢賢治は、光太郎のアトリエを訪問。光太郎はそのときの印象を、次のように談話している。
宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチェロを習ふ目的だつたやうです。…略…あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会えないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが…。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。(「宮沢賢治さんの印象」談話筆記)
岩手県花巻からわざわざ訪ねながらも、玄関先での邂逅に終わった2人だが、光太郎が賢治の人柄も作品も高く評価していたことは、「宮沢賢治は」の次の文章からも分かる。
宮沢賢治はまづ何をおいても詩人であると又思ふ。詩といふものの内包の大きさを彼ほどよく証明してゐる詩人は少いやうだ。…略…しかし宮沢賢治の場合、法華経者である事が同時に詩人である事であつた。彼の心身に具現した詩そのものの精神と機能とは、優に彼の宗教を内に包んでゐる。彼の宗教は彼の詩を通過してのみ顕現する。ここに彼の偉大な詩的宿命があつた。(「宮沢賢治は」)
賢治が死んだのちにも光太郎は、「宮沢賢治の詩」「宮沢賢治十六回忌に因みて」「宮沢賢治十七回忌」「一言」「啄木と賢治」などを執筆。「宮沢賢治十七回忌」では「読むものを引いて遠く精神の深淵をのぞかせる」の言葉もみえる。」
https://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/1423
「高村光太郎と宮沢賢治は交流がありました。
1924年に賢治の初めての詩集、「春と修羅」が発表されました。
高村光太郎の友人である詩人の草野心平は、この詩集を高く評価し、光太郎にも勧めます。
光太郎も賢治の詩の世界に感銘を受けたそうです。
1923年から草野心平が発起人となった雑誌「銅鑼」に、高村光太郎、宮沢賢治も作品を寄せました。
東京にいた草野心平、高村光太郎と、賢治は文通をしていたそうです。
1933年に37歳で亡くなった宮沢賢治を偲んで、草野心平を中心に東京で追悼会を開いたそうです。
「私が亡くなった後、作品を本にしたいという人があれば本にしてほしい」と頼まれていた賢治の弟、清六が追悼会に訪れました。
鞄いっぱいに詰め込まれた原稿と一緒に。
その中に有名な、「雨ニモマケズ」の詩があった手帳もありました。
手帳を、詩を発見したのは、高村光太郎でした。
生前は「春と修羅」「注文の多い料理店」の2作品しか発行されていなかった賢治の作品。
その膨大な原稿と心打つ文章に感動したその場にいた人々は、「宮沢賢治全集」を作らねば!と尽力を尽くしました。
すぐに刊行が決まり、タイトルを書いたのは高村光太郎。
1934年、宮沢賢治の作品が世に出たのでした。
1936年に羅須地人協会のあった場所に建てられた、「雨ニモマケズ」の詩碑も高村光太郎の書によるものです。
この縁があって、光太郎は花巻に疎開しました。」
https://ameblo.jp/fairies-lohastime/entry-12206228128.html
⇒光太郎は曹洞宗のよう
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/bochi/tokyo/takamura
だが、祖先は鳥取藩士だったという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E9%9B%B2
ので、光太郎も日蓮主義を受容する素地があったのではなかろうか。
だからこそ、光太郎は、宮澤賢治(1896~1933年)の日蓮主義に共鳴したと思いたい。
なお、賢治が、仮に対英米戦の時代まで生きていたとすれば、光太郎同様、戦意高揚のための戦争協力作品を発表した可能性が高いのではなかろうか。(太田)
(6)武者小路実篤(1885~1976年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4
「武者小路実篤の詩「戦争はよくない」<(注114)>は1921年の作品です。
(注114)「俺は殺されることが嫌ひだから人殺しに反対する、従って戦争に反対する、自分の殺されることの好きな人間、自分の愛するものゝ殺されることの好きな人間、かゝる人間のみ戦争を讃美することが出来る。その他の人間は戦争に反対する。他人は殺されてもいゝと云ふ人間は自分は殺されてもいゝと云ふ人間だ。人間が人間を殺していゝと云ふことは決してあり得ない。だから自分は戦争に反対する。戦争はよくないものだ。このことを本当に知らないものよ、お前は戦争で殺されることを甘受出来るか。想像力のよわいものよ。戦争はよしなくならないものにせよ、俺は戦争に反対する。戦争をよきものと断じて思ふことは出来ない。」
https://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-373.html
彼は、大正デモクラシーが盛んなころは反戦的な戯曲「その妹」<(注115)>(15年)なども書いていますが、軍国主義の進展につれて『大東亜戦争私感』(42年刊)など戦争協力の筆をとるようになり・・・」
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-12-23/ftp20061223faq12_01_0.html 前掲
(注115) 「5幕。画家野村広次は、戦争で失明したために、小説家として世に立とうとしている。美しい妹静子は兄を助け、原稿筆記などすべての世話をしているうちに、縁談が舞い込む。相手は金持ちの評判の道楽息子なので、広次は反対であるが、むこうは兄妹を扶養している叔父の上役の家だから、断れば失職するかもしれないと、叔父夫婦は承諾をもとめてくる。兄妹は広次の理解者であり文壇へ推挙してくれようとしている小説家西島に相談すると、西島は同情し、叔父の家から出ることをすすめ、生活の補助さえしてくれることになる。しかし西島の妻はしだいに嫉妬し、家庭の争いもたえなくなる。静子が西島の妾だというあらぬうわさがたち、近所のへんな婆が妾の口を周旋にくる。やっと発表した小説も悪評をこうむり、広次はいらだたしく鬱屈している。静子は、西島の暮らしも工面がつかないことがわかり、自分に恋していることも知り、好意をうける心苦しさに、おもいきって初めの縁談を承諾するべく叔父のもとに行こうとする。広次は腹を立てむりやり引き止めようとするが、自分には妹を救う力のないことを悟るばかり。妹の「あせらないでね。私生きてゐて、あなたの仕事が見られるのは嬉しい」という悲しいはげましとあきらめの言葉を聞きながら「俺は力が欲しい」と心に泣くばかりであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4 前掲
「1936年(昭和11年)、4月27日から<欧州>旅行に出発。12月12日帰国。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、日本文学報国会劇文学部会長を務めるなどの戦争協力を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4 前掲
⇒以上を踏まえれば、実篤が転向した、と見るのは誤りだろう。(太田)
「藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家の武者小路実世(さねよ)子爵と勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)夫妻の第8子として生まれた。・・・
⇒というのも、武者小路家は非門流だったが、勘解由小路家は近衛家の門流(コラム#12700)
http://sito.ehoh.net/kugemonryu.html
であり、実篤の母方の祖父である裏松資生が勘解由小路の養子になった時はもちろん、実篤が勘解由小路資淳を養子にした時も、↓
裏松恭光–勘解由小路資生(勘解由小路光宙の養子)–勘解由小路資承
–秋子
|–武者小路実篤–勘解由小路資淳(養子)
武者小路実世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%8F%E6%9D%BE%E6%81%AD%E5%85%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E8%A7%A3%E7%94%B1%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E8%B3%87%E7%94%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E8%A7%A3%E7%94%B1%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6
恐らく、近衛家の許可・・実篤-資淳、の時は事実上の許可・・を得る必要があったと思われ、また、実篤の母方の、この祖父、や、この叔父の勘解由小路資承は、秀吉流日蓮主義の宗家とも言うべき近衛家の篤麿・・しかも、その母親はあの、島津斉彬コンセンサス元祖の島津斉彬(島津氏28代)の養女の貞姫(注116)だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
・・と、そういったことの他、節目節目での付き合いがあったはずであって、篤麿も実篤のことを幼少の時から知っていても不思議ではないところ、勘解由小路家が、近衛家に倣って秀吉流日蓮主義信奉家であった可能性が高いからだ。(太田)
(注116)島津継豊(22代)-加治木(養子)島津重年(24代)-加治木島津重豪(25代)-※-今和泉島津忠厚-加治木島津久徳-加治木島津久長-貞姫 ※異説あり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%99%E8%B1%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E5%B9%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E5%8E%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%BE%B3_(%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E6%9C%A8%E5%AE%B6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E9%95%B7_(%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E6%9C%A8%E5%AE%B6)
1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。・・・同中等学科6年の時、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。
同高等学科時代は、トルストイに傾倒、聖書や仏典なども読んでいた。日本の作家では夏目漱石を愛読するようになる。」(上掲)
⇒以上のように見てくると、初等科高学年の時の1895年(明治28年)時から高等学科に進学した時の1904年(明治37年)まで、学習院長は近衛篤麿であり、
https://www.gakushuin.ac.jp/houjin/kikaku/history/successive.html
篤麿こそ、実篤に決定的な影響を与えた、と見るのがまっとうだろう。
すなわち、もともと母親を通じて秀吉流日蓮主義者になっていた可能性があるところの、実篤、は、学習院時代に、秀吉流日蓮主義者になったか、その秀吉流日蓮主義を強化されたか、のはずである、と見る。(太田)
「<実篤の父>爵位を継承した<兄の>公共は外交官として駐ルーマニア兼ユーゴ公使、駐デンマーク兼スウェーデン公使、トルコ大使などを歴任した後、昭和9年(1934年)に駐ドイツ大使となり、日独防共協定締結の衝に当たったことで知られる。日独協会会長も務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6
⇒実篤の実兄の武者小路公共が秀吉流日蓮主義者であったように見えること↑も、その傍証になりそうだ。(太田)
「新しき村<は、>・・・武者小路実篤とその同志により、[理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4 前掲]1918年(大正7年)、宮崎県(旧日向国)児湯郡木城町に開村された。・・・この村はただ生活するためのものではなく、精神に基いた世界を築く目的で開村されている。社会階級や貧富の格差や過重労働を排し、農業(養鶏のほか稲作や椎茸栽培など)を主とした自給自足に近い暮らしを行う。労働は「1日6時間、週休1日」を目安とし、余暇は「自己を生かす」活動が奨励される。三食と住居は無料だが、私有財産を全否定しているわけではな<い>。・・・
<新しき村の>精神<は、>
一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。
一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。
一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽、幸福、自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない。
一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとる事で全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ正しく生きられ、天命(個性もふくむ)を全うする道を歩くように心がける。
一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ全世界の人が實行する事を祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である、我等の兄弟姉妹である。
一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入る事で、入ろうとすることで、それ等の人が本当に協力する事で、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
武者小路の「新しき村」の構想は中国共産党主席毛沢東に影響を与えたことで知られる。周作人は『新青年』に「日本的新村」という論文を載せ、毛沢東は「新村」に傾倒した。
<この新しき村は、>トルストイの人道主義に基づき・・・建設<されたものだ>。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91-25865
⇒私は、実篤が、近衛篤麿(1863~1904年)の遺示唆を受け、構想を温め、練った上で、1918年になって、ようやくこの村を作るところまで漕ぎつけることができた、と想像するに至っている。
東亜同文会会長の篤麿は、1899年に人間主義に基づき支那人を人間主義者へと啓発する日本人の養成のために支那(最初南京、後に上海に移転)に東亜同文書院と、また、支那人等のアジアの人々を縄文人(人間主義者)化した上でその支那人等に他の支那人等を人間主義者へと啓発させるために日本に東京同文書院を、どちらも事実上の官学として、設立する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A
とともに、支那人たる縄文的弥生人の養成のために、官学たる東京振武学校の設立を斡旋した(注117)ものの、日本の縄文人(人間主義者)の何たるかを、現代用語で言えばテーマパークを設立してコンパクトにビジュアル化させ、支那人にアピールすることも必要であると考えるに至り、その考えを亡くなる前に実篤に示唆したのではないか、と。(太田)
(注117)「陸軍士官学校または陸軍戸山学校に入ろうとする<支那>からの留学生・・・はすべて成城学校に入っていた。 ところが1902年、私費留学生が成城学校に入ろうとした時、清国公使がその保証を拒んだため成城学校に入れず、紛争が起こった。東亜同文会が斡旋した結果、日本政府と清国公使との間に協定ができ、1903年7月、参謀本部において設立が決定された。・・・
<同校>出身者<に、>・・・陳独秀・・・閻錫山・・・蒋介石・・・張群・・・何応欽<らがいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AD%A6%E6%A0%A1
[支那における縄文的弥生人の創出]
東京振武学校のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AD%A6%E6%A0%A1
に列記されている、主な出身者中に、中国共産党に入った者は陳独秀だけで、近衛篤麿が設立に関わったところの、この東京振武学校は、現在の中共の縄文的弥生人創出に直接的な貢献は大きかったとは言い難い。
しかし、第一次国共合作時代(1924~1927年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
に設立された黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)は、「蔣介石が校長、廖仲愷が軍校駐在の国民党代表、李済深が教練部主任、王柏齢が教授部主任、戴季陶が政治部主任、何応欽が総教官、共産党員の中からも葉剣英が教授部副主任、周恩来が政治部副主任に就任し<、>毛沢東も、面接・・・試験官であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AD%A6%E6%A0%A1
という教職員の陣容であったところ、この中で、蒋介石、廖仲愷、王柏齢、戴季陶、何応欽、周恩来、に日本留学経験があり、毛沢東は日本大好き人間で、日本っけがないのは葉剣英だけ、ときている。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/181219/3/D_Kitamura_Minoru.pdf ←王柏齢の典拠。後の人々はそれぞれのウィキペディアに拠る。
のは、ちょっとした壮観だ。
私は、この学校で、当時、中国共産党の指導者であったところの、陳独秀(総書記)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80
や、同じく日本留学経験のあった李大釗、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A4%A7%E9%87%97
の指示の下、毛沢東と周恩来が、既に(朱徳同様)軍事教育を受けていた葉剣英
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E5%89%A3%E8%8B%B1
に対して、真先に人間主義の何たるかを教えた上で、自分達が軍事知識を身につけることによって、ここに、支那最初の縄文的弥生人が生誕し、今度はこの3人が、黄埔軍官学校の学生達中、在学中に国民党から共産党に転向させた学生達を含めた、中国共産党員たる学生達、を対象に、彼らが単なる弥生人ではなく、理想的なる縄文的弥生人になるよう、指導、啓発した、と、考えるに至っている。
(参考ながら、やはり別途軍事教育を受けていたところの、彭徳懐、に関しては、中国共産党に入党したのは、遅くて1928年だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E5%BE%B3%E6%87%90 )
で、「黄埔軍官学校・・・卒業生の中には、・・・徐向前<(注118)>、・・・林彪、・・・陶鋳<(注119)>・・・らがいる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%9F%94%E8%BB%8D%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1 前掲
(注118)1901~1990年。「黄埔軍官学校・・・卒業後は国民党軍として北伐にも参加している。1927年・・・に中国共産党に入党<。>・・・中華人民共和国建国の功労者であり、中華人民共和国元帥に列せられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%90%91%E5%89%8D
(注119)とうちゅう(1908~1969年)。「1926年に黄埔軍官学校・・・へ入学し、同年、中国共産党に入党した。1927年、南昌起義と広州起義に参加。同年末に帰郷し、劉東軒と共に中国共産党祁陽県委員会を組織し、軍事委員兼青年委員に任じられ、「年関暴動」を組織した。1929年、福建省に移り、中国共産党福建省委員会秘書長、書記となる。その後、福建省党委組織部長、漳州党特別委員会書記、福州中心市党委書記などを歴任し、閩南工農紅軍遊撃隊を創設した。・・・
1940年、延安に移り、党中央軍事委員会秘書長兼政治部秘書長となる。後に政治宣伝部長も兼任した。・・・
1966年・・・8月の第8期11中全会において党中央政治局常務委員に選出された。政治局常務委員会内での序列は毛沢東、林彪、周恩来に次ぐ第4位となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E9%8B%B3
というわけであり、林彪については、その後の事績から判断すれば、縄文的弥生人化に失敗したっぽいけれど、徐向前、陶鋳等については成功した、と言えそうだ。
(既に軍事教育を受け、従軍経験もあった朱徳(1886~1976年)は、ドイツ留学中に朱恩来との交流が生じた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BE%B3
ところ、その際に、周から人間主義「教育」を受け、縄文的弥生人になった、と見たい。
朱徳は、1922年に共産党入党を希望して李大釗に受け入れられず、翌年、ドイツ滞在中に1923年に周の口添えで入党が許可されている(上掲)。)
さて、その結果、中国共産党軍(中国人民解放軍)が「革命戦争時代を通じて広範な人民の支持を得るために、命令には従う、人民のものは盗まないなどの「三大規律・八項注意」<(注120>が毛沢東によって課せられ、自ら厳しく軍律を守った。それにより民衆の信頼と支持を得て国共内戦に勝利するとともに「人民の子弟兵」と愛称されるようになった」
https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=85
のは、その縄文的弥生性における「縄文的」の顕れであり、1948年の長春包囲戦における、「民間人の死者の数は約15万から20万人と推定されている。共産軍は国民党軍の食糧を消耗させるために民間人が都市から離れることを防ぎ、結果として「数万人が飢え死にする」ことになった。共産軍は8月上旬まで民間人難民の退去を阻止し続けた。結局、約15万人の難民が長春を離れることに成功したが、共産軍が意図的に民間人を飢えさせたという主張に対抗するため、その一部は工作員として再び長春に送り込まれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%A5%E5%8C%85%E5%9B%B2%E6%88%A6
のは、その縄文的弥生性における「弥生性」の顕れだ。
(注120)「1928年、毛沢東により、中国工農紅軍の軍規として制定されたのが始まり。その時は「三大紀律六項注意」として定められており、
三大紀律:
行動聴指揮(指揮に従って行動せよ);
不拿群衆一個紅薯(民衆のものはサツマイモ1個でも盗るな);
一切繳獲要帰公(獲得した物も金も公のものにする)。
六項注意:
上門板(寝たあとは戸板を上げよ);
捆鋪草(寝ワラにした乾草は縛れ);
説話和気(話し方は丁寧に);
買売公平(売買はごまかしなく);
借東西要還(借りたものは返せ);
損壊東西要賠(壊したものは弁償しろ)。
であった。1929年から1930年にかけて二項が追加され、八項注意となった。ただし細かい内容は、部隊や時期により若干の違いがあったとされている。1947年10月、中国人民解放軍本部から次のように訓令された:
三大紀律:
一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ);
不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな);
一切繳獲要帰公(獲得した物も金も公のものにする)。
八項注意:
説話和気(話し方は丁寧に);
買売公平(売買はごまかしなく);
借東西要還(借りたものは返せ);
損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ);
不打人罵人(人を罵るな);
不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな);
不調戯婦女(婦女をからかうな);
不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A4%A7%E7%B4%80%E5%BE%8B%E5%85%AB%E9%A0%85%E6%B3%A8%E6%84%8F
更に付言すれば、人民解放軍とその模範であったところの同様縄文的弥生性を帯びた帝国陸軍は、先の大戦において共闘した(コラム#省略)だけでなく、終戦以降も、留用日本人の一環としてその「空軍の創設にためのパイロットと地上勤務上院の育成に協力した」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/fangtan/200601.htm
ところだ。
なお、人民解放軍が国軍ではなく党軍であり続けているのは、日本の幕府制に倣ったものだろうというのが私の説である(コラム#省略)ことはご承知の通りであり、習近平によって天皇制の継受が果たされた暁には、人民解放軍の国軍化も果たされるのではなかろうか。
[1920年前後の三つのアジア主義]
一 新アジア主義
「李大釗・・・1919年には論文『大亜細亜主義与新亜細亜主義』で新アジア主義を掲げてアジア連邦を説いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A4%A7%E9%87%97 前掲
「李大釧も,人種差別問題に<つ>いて,「 まず”白人閥打倒”を先頭に立って叫ぶ黄色人が,黄色人の中における自身の貴族的地位を放棄し,しかる後にはじめて話をする資格が生まれる」と述べ,日本人の人種問題に関する姿勢の矛盾を強く非難した。
彼は「大アジア主義<(本稿に言うアジア主義(下出)のこと(太田))> 」,「大アジア主義と新アジア主義」,「再び新アジア主義を論ず」などの一 貫した日本批判をおこない,体系的な「アジア主義論」を提起している。
日本の「大アジア主義」に<つ>いては,「平和の主義ではなく,侵略の主義である。民族自決主義ではなく,弱小民族を併呑する帝国主義である。アジアの民主主義ではなく,日本の軍国主義である。世界組織に適応する主義ではなく,世界組織を破壊する種子である」として否定した。そして自身の主張する「新アジア主義」とは,「いかなる民族や国家も,侵略や圧迫行為を行わない互いの存在を認めあう寛容と博愛の精神でアジアの兄弟諸国と提携する」ことであり,「しかるのちに一大連合を結成し,欧米の連合とていり<つ>し,共同して世界連邦を完成し,人類の幸福を増進する」ことにあると訴えた。そして後には理論をさらに拡大させ,新アジア主義にはふたつの意義があるとし,「一<つ>は日本の大アジア主義が崩壊する以前に,我<が>アジアの弱小民族が団結してともに大アジア主 義を打ち倒すことであり,もう一<つ>は日本の大アジア主義が崩壊したのちにアジアの全民衆を世 界組織に団結させることである」とのべ,民衆の連携と民族自決を強調するようになった。
上述の『毎週評論』での日本帝国主義批判も「新アジア主義論」と一致するものであり,先にみた 陳独秀の対日観とも共通している。
同年3月に朝鮮独立運動が発生すると,『毎週評論』では朝鮮人民の自由思想の発展と,民族の独立自治が遠からず実現するであろうと希望し,朝鮮人民の「民意を用い武力を用いない」態度を賞賛した。日本に対しては,朝鮮は相当の自治権利を有しているのだから,すぐさま朝鮮独立を承認し,在留 軍及び警察を削減すべきであると訴え,また運動に参加した人間を罰さず,日本人の文明程度を表すべきだと説いた。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjOrrSbjtb9AhUIQPUHHd4XBGIQFnoECDUQAQ&url=https%3A%2F%2Fsoka.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D38231%26item_no%3D1%26attribute_id%3D15%26file_no%3D1&usg=AOvVaw34UquiGnI5b9bDdrOlKeRv
⇒中華人民共和国はそのチベット政策や対ウィグル族政策を見れば分かるように、(欧米やソ連とは違って)民族自決を否定しており、この李大釗の新アジア主義は、戦前の日本のみならず、毛沢東が主導権を握った以降の中国共産党においても否定されていたと言ってよい。
毛沢東の中国共産党は李大釗の言う大アジア主義、すなわち私の言うアジア主義、を戦前の日本の指導層同様、信奉していたから、それは当然だった。(太田)
二 大アジア主義
「孫文<1924年11月のの最後の来日時の講演は、>・・・「アジア大同盟」の実現に向けて「われわれの大亜細亜主義」を宣伝する<のが目的。>・・・「アジア大同盟」とは、・・・日中ソの提携を意味するものと考えられる。また、孫文が・・・「われわれの」という限定を付けているのは、当時の・・・日本型アジア主義との異質性を際立たせる意図を含んでのものであったとは言い難く、あくまでも中国革命達成に向けての支援を獲得することを目的とした「アジア主義」でしかなかったと考えられる。・・・
<これは、>日本に譲歩してでも支持を得て、英米を後ろ盾とする直隷派を潰滅に追い込みたいという方針<に基づくものだった>と考えられる。」(嵯峨隆(注121)「孫文の訪日と「大亜細亜主義」講演について」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwimi6Xjldb9AhVSNt4KHZ7tDLUQFnoECAYQAQ&url=https%3A%2F%2Fu-shizuoka-ken.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D1153%26file_id%3D40%26file_no%3D1%26nc_session%3D49mlrnsq4p6kh2f2evap6j7ro3%2520target%3D&usg=AOvVaw2z5j7j-Zxzmro_cJF1I9ai
(注121)1952年~。慶大法(政治)卒、同大修士、博士。この間、香港中文第留学。八戸大を経て、静岡県立大助教授、教授、名誉教授。「中国政治史や政治思想史といった分野に取り組んでいる。特に、中国の近代における無政府主義についての研究を行っている。そのほかにも、日本や中国におけるアジア主義といった、政治思想についての研究に取り組んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E9%9A%86
⇒孫文の大アジア主義なるものは、孫文の孫文による孫文のための無内容のスローガンに過ぎなかった、というわけであり、私も全く同感だ。(太田)
三 アジア主義
《周作人》
「周作人は日本の作家武者小路実篤(1885-1976)と深い親交があった。二人は1919年、1934年、1941年、1943年と合計四回の議論を交わしている。彼は「武者先生と私」という雑記に武者小路との交流を詳述している。1943年に武者小路が北京の周の自宅を訪ねた折に、周は彼に漢の磚硯を送ったというエピソードが残っているほどである。
周知のように武者小路は白樺派<(注122)>のリーダー的存在である。白樺派の特徴は、トルストイ(1828-1910)の影響を受け、理想主義的人道主義の立場によって、それぞれの個性・自我を尊重したことである。
(注122)「そのきっかけは1907年(明治40年)10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼の旅館東屋で武者小路実篤と志賀直哉が発刊を話し合ったことだと、志賀が日記に書いている。学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、明治43年(1910年)春の刊行を期して雑誌刊行の準備を整えたという。・・・『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである。さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号・俳号の類を用いなかった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、正親町公和、園池公致、木下利玄、里見弴、郡虎彦、長與善郎の他、美術家では柳宗悦、有島生馬、『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼い頃からの知人も多く、互いに影響を与えあっていた。
彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であった。ロシアの文豪レフ・トルストイの影響を強く受けたことや、有島武郎がその晩年に自分の財産を小作人に分かち与えたこと、武者小路による「新しき村」の実験に見られるような急進主義にもそうした傾向はよく表れている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
⇒ウィキペディア執筆陣は関川夏央に拠っているが、実篤は1906年に学習院を卒業している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4 前掲
ところ、乃木が学習院長に就任したのは、1907年(明治40年)であり、
https://www.gakushuin.ac.jp/houjin/kikaku/history/successive.html
「彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである」というのは考えにくい。
また、「トルストイの影響を強く受けた」も、恐らくは間違いであって、篤麿の影響を強く受けた、と私は見ているところだ(前述)。
そもそも、軍人嫌いも理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指した新しき村も、どちらも、一応縄文的弥生人だった篤麿のみならず、れっきとした縄文的弥生人だって実は深く蔵していたところの、縄文性(人間主義)、の特性だ。
なお、乃木自身もまた、というか、乃木は(実篤以上の、もはや縄文人と言ってもいいほどの限界縄文的弥生人であることを、見抜いていたと私が想像しているところの、明治天皇、によって「皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名<された>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
ところ、この明治天皇の目論見がものの見事に成功し過ぎて、昭和天皇によって、日本文明のプロト日本文明回帰がなされてしまう(コラム#省略)という悲喜劇が生じてしまったことを我々は知っている。(太田)
しかし、彼はトルストイの自己犠牲思想から離れ、自己を生かすための自己肯定の姿勢に傾いていった。
五四運動での周作人の活躍の方向も白樺派の影響を強く受けているといわざるを得ない。それは以下のような事実からも確認できる。武者小路はトルストイの価値観を学び、それを具現化するものとして「新しき村」を1918年に宮崎県に建設した。周作人は1919年の秋(五四運動開始の直後)に、その「新しき村」へ武者小路を訪れた。そして、その後、1919年から1920年の間に「新しき村」について八篇の文章を書き、日本の「新しき村」を熱心に紹介した。これが当時の『新青年』同人と文学青年に大きな影響を与えたのである。
この八篇の文章の一篇である「日本の新しき村」で、周作人はトルストイについて次のように論じている。「ロシアのトルストイは普遍の労働を実施したが、『手の仕事』に集中し、『脳の仕事』を排斥した。また、彼は極端な利他主義を提唱し、個々人の責任を抹殺したため、完璧とはいえない。」
これに対して、彼は「新しき村」の運動を高く評価した。「新しき村運動は普遍の労働を主張しながら協働する共同生活を提唱している。これは人類の義務を尽くし、かつ個人の義務をも尽くすということである。協働を賛美し、個性をも賛美している。共同の精神を発展させ、自由の精神も発展させる。これは実現できる理想で、真の普遍的な人生の至福である。」
⇒周作人のこの新しき村評は、実篤の話を踏まえたものであると考えられるのであって、新しき村が、トルストイの「思想」に拠っているものではないことが、ここからも推察できる。(太田)
周作人は「新しき村」の実現に非常に期待していた。「新しき村」を肯定する彼の力強い言葉からそのヒューマニズム思想が窺えるであろう。「人類の運命は万人の希望によって転変する。現在における万人の希望はまさしく人類の最も正当で自然な意志である。そのため、このような社会は将来必ず実現できる。そして、必ず実現する。」人類への関心は周のヒューマニズムの特徴で、彼は自国だけに固執せず、広い目で他国の現状、文化から人類全体の運命まで幅広く考察した。このような人類の運命への情熱的関心に基づいて救国を決心した周作人は、間接的なトルストイ主義の実践者として、日本の「新しき村」を学び、中国でそれを実践しようとした。このような計画は失敗したが、周個人の思想的人生に大きな影響を与えたのは確かである。」
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/12/12-05.pdf
「<周作人は、>1917年3月、<兄>魯迅の斡旋で北京大学の教職に内定する(9月に文科教授に就任)。4月に蔡元培を訪ね、北京大学国史編纂処に就職する。・・・
<そして、>・・・1918年・・・5月に「武者小路君作る所のある青年の夢を読んで」を作る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E4%BD%9C%E4%BA%BA
「 「新しき村」 に関する周の文章は次のとおり。 「日本的新村」 (1919年3月『新青年』 第6巻3号)、 「新村訪問記」 (1919年7月30日 『新潮』 第2巻1号)、 「新村的精神」 (1919年1月8日 『新青年』 第7巻2号)、 「新村的理想与実際」 (1920年6月23、 24日 『晨報副刊』) 等。 ・・・
「小河」は、・・・周作人の人道主義、 理想主義に基づく 「新しき村」受容から生まれたものであった」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/13201/pa015.pdf
⇒下掲のような新しき村説もまた、誤りだ。↓(太田)
「彼が最も共感を抱いていた日本人の近代作家は白樺派の武者小路実篤である。1918年実篤は新しき村を創始し、周作人はこれに共鳴して中国で「新村提唱」をした。・・・
今まで、武者小路実篤の新しき村はトルストイやキリスト教の影響下において認識されてきたが、1919年前後村における武者小路実篤の『論語』学習から考えれば、「新しき村の精神」は東洋思想の原点である儒教思想の精神と密接な関係を持っている。周作人の提唱によって日本の新しき村運動は五四期の<支那>にも影響を与えたが、周作人が提唱した“新村”は実篤の新しき村とは異なり、道徳・文学的なものであった。実篤の新しき村に対しても、周作人は単なる受け身ではなく、“逆影響”があったのである。日本人意識が強い実篤より、周作人はさらに徹底的な人類主義者であった。1925年前後、周作人も実篤もそれぞれの形で“離村”したが、その“離村”は儒家文化固有の「内聖」と「外王」の衝突として解釈できる。」(董炳月 東大博士論文より)
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/1998/106.html
⇒毛沢東は、下掲のような環境下で、周作人が新しき村について書いた文章を読んだだけでなく、直接、話を聞いて共感したに違いない。↓(太田)
「毛沢東<は、>・・・1919年5月の5・4運動期に、・・・北京大学の図書館に・・・司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀・胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
⇒新しき村そのものが私有財産を否定していなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91
し、そもそも、実篤が全財産を新しき村に投じたという話もないのだから、下掲の論考については、「個人が財産を放棄して共有財産とし」は間違いだが、その点を除けば、その通りだったと思われる。↓(太田)
東京大学教授の平野聡は、『SAPIO』2015年6月号で、「白樺派の作家・武者小路実篤は、社会問題を解決して博愛の心を育むため、個人が財産を放棄して共有財産とし、集団生活で平等な共同体を実現する「新しき村」の理想を説いた。中国共産党の国家主席・毛沢東は武者小路の考えに激しく共鳴して、格差が蔓延する中国において、武者小路が実践した平等・博愛精神あふれる「新しき村」を作ろうとして、やがてマルクス・レーニン主義に傾倒した」としている。」(上掲)
⇒で、ここが重要なのだが、私は、周作人が北京に残ったのは、杉山らと毛沢東との連絡役としてだと考えるに至っている。↓(太田)
「1937年、日本軍が北京に入城した後、北京大学は長沙・昆明に移転したが、自身の病弱と係累のために周作人は残留した。1938年5月、日本側が設定した「更生中国文化建設座談会」に出席・発言し、抗戦陣営の中国知識人に衝撃を与え、重慶の論壇を代表する茅盾ら18名連署による「中華全国文芸界抗敵協会」の公開状が発せられた。1939年元旦、自称李なる青年に自宅で狙撃されるが、後でこれは日本軍の手先が脅しに来たものと作人は考えた。同じ年8月に臨時政府の湯爾和の勧誘を受け、北京大学(中国側は「偽」北京大学と呼ぶ)教授と文学院長に就任する。1941年1月「偽」華北政務委員会の常務委員・教育総署督弁に就任し、10月には「偽」東亜文化協議会会長を兼ねる。1943年6月にはさらに「偽」華北総合調査研究所副理事長、1944年5月「偽」華北新報経理と報道協会理事、「偽」中日文化協会理事となる。
1945年に日本が降伏した後の12月に、北京の対日協力者250名の一人として逮捕され、そのうちの12名とともに1946年5月に空路で南京へ送られ、7月に国民政府高等法院で公判に付される。11月16日に「懲役14年」の刑が確定し、減刑嘆願は認められなかった。
1949年に中国共産党の南京解放により出獄し、人民共和国成立後は北京の旧邸において、変則的で自由な蟄居を営むことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E4%BD%9C%E4%BA%BA 前掲
(参考)「1946年・・・6月には蔣介石は中国共産党への攻撃を命じ、国共内戦が勃発した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E5%8D%81%E5%8D%94%E5%AE%9A
⇒いずれも、日本留学経験があり、中国共産党の立ち上げ時に中心的役割を果たしたところの、陳独秀(1879~1942年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80
と李大釗(1889~1927年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A4%A7%E9%87%97
についても、機会あらば、正面から追求してみたい。
李大釗に関しては、アジア主義の囲み記事の中でその小アジア主義を取り上げた(後出)が・・。(太田)
《毛沢東》
毛沢東(1893~1976年)については、今まで随分取り上げてきているし、この「原稿」でも、処々で取り上げているので、ここでは簡単に済ませる。
「従兄から贈られた<支那>の近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学した。この学校では康有為<(注123)>や梁啓超<(注124)>らの思想を学び、影響を受けた。・・・
(注123)1858~1927年。「皇帝・光緒帝に立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう上奏を幾度となく行い、1898年6月、ついに光緒帝から改革の主導権を与えられることとなった(戊戌の変法)。ところが康有為の改革は当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革は9月、わずか100日あまりで西太后のクーデターにあって失敗に終わった(戊戌の政変)。そしてこの時康有為の実弟を含む同志の幾人かは逮捕処刑されてしまった(戊戌六君子)。しかし康有為自身は一旦上海のイギリス領事館に保護され、その後大陸浪人の宮崎滔天や宇佐穏来彦らの手引きで香港を経由して日本に亡命している。 1898年10月9日、外相大隈は、康を保護するよう香港領事上野景範に訓令し、10月25日、康は神戸に着いた。 その日本で同じく亡命してきた愛弟子梁啓超と邂逅を果たすのである。ちなみに康有為はこれ以後日本に都合三度ほど滞在し、犬養毅や大隈重信、佐々友房、品川弥二郎、近衛篤麿、伊藤博文といった明治の著名人と親交を結んでいる。また須磨在住の際に知り合った日本人の女性を妻として迎えてもいる。・・・ 1899年3月11日、駐清公使矢野文雄は、康その他の欧米への転居、「清議報」発行停止等について、清国政府の希望を外相青木周蔵に報告した。3月22日、康はバンクーバーにむけ横浜を出発した。 その後、<米国>やインドを含む世界各地を清朝からの刺客を避けつつ周遊し、また保皇会を立ち上げて<支那>に立憲君主制を樹立すべく活動を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E6%9C%89%E7%82%BA
(注124)1873~1929年。「<戊戌の政変の地、>日本大使館に亡命を求めた。日本政府はこれを許可し、10月3日に軍艦大島丸に乗船させた。1898年10月20日、広島港経由で東京に到着する。
東京では、志賀重昂・犬養毅・柏原文太郎・高田早苗といった明治期日本の知識人に歓迎される。・・・
梁啓超はその後、横浜中華街で生活しつつ、ときにはオーストラリアやアメリカに赴き、ときには孫文、章炳麟、ファン・ボイ・チャウといった革命家たちと交流しながら、革命のための言論活動・啓蒙活動を日本の地で展開する。
1898年、横浜で麦孟華と会社を立ち上げて雑誌『清議報』を創刊、変法自強とともに清国民の意識改革を説いた。また、中華学校の開校にも尽力しており、同年には同地に大同学校(現在の横浜山手中華学校)、さらに翌年には神戸中華同文学校の開校にも携わっている。・・・
亡命時期の梁啓超は、日本の思潮・文化を積極的に受容する。日本語をある程度読みこなせるようになると、日本語を通じて西欧の思想を積極的に吸収し、それを著作に反映させていった。同朋の中国人に対しても、清では西洋の翻訳は軍事技術のものばかりであるため、日本での翻訳書や日本人が書いた政治経済に関する著作を学ぶことを薦めた。・・・
14年間の亡命生活を経て1912年、辛亥革命の翌年に39歳で帰国した。1914年8月の膠州湾周辺での日独戦争後に排日論へ転じ、かつて戊戌変法を裏切った袁世凱のもとで進歩党を組織して、熊希齢内閣の司法総長となる。しかし、袁世凱が唱えた帝政(帝政問題)に反対して天津に逃れ、かつて時務学堂の学生であった蔡鍔とともに討袁軍を組織し、護国軍軍務院の撫軍および政務委員長になって、第三革命をすすめた。
袁世凱死後、黎元洪大総統のもとで国会が回復すると憲法研究会を組織し、いわゆる研究系の指導者として活動。段祺瑞内閣のもとで財務総長となり、西原借款にも関係している。しかしわずか4ヶ月で内閣は崩壊し、1918年から1920年3月まで、ヴェルサイユ全権大使の顧問としてヨーロッパへ視察団を率いる。
一次大戦によるヨーロッパの荒廃に少なくない衝撃を受けた梁啓超は、国家主義的なスタンスから近代西欧の思想を紹介するそれまでのスタイルを改め、伝統中国の思想や文化への再評価へと向かい、物質主義的な西洋文明を中国文明の精神と融合させるための学術研究に没頭していくことになる。1923年には清華大学教授、ついで北京図書館の館長となっている。影響力を強めつつあったマルクス主義に対しては、中国には階級的な社会構造が存在せず、共産主義の理念は外来の理論ではなく中国の伝統の中にも求めるべきである、などの理由で批判的であった。ソビエトを赤色帝国主義と断じて排露を主張し、一部の地域が赤色共産党人の運動場となっていると評価して、当時の現状を嘆く評論が残る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%95%93%E8%B6%85
1911年・・・10月に辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する。半年後、清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊し・・・長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学し、中学への入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧である月性の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。・・・
男児 志を立てて 郷関を出づ
学もし成るなくんば 復還らず
骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を期せんや
人間 到るところ青山あり
<=世の中その気になれば何処ででも死ねるということ。また、そうであるから故郷を離れ世界に雄飛するのに躊躇してはいけないということ。
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%88%B0%E3%82%8B%E5%87%A6%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%81%82%E3%82%8A >・・・
⇒毛は、支那の近代化を期していたわけだが、この18歳頃の時点まで、彼は、もっぱら当時の日本にから影響を受け続けたと言えよう。(太田)
1913年春に湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋には湖南省立第一師範学校に編入した。いくつかの学校を転々とする間、毛沢東はアダム・スミスやモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れた。
⇒その後も、こういった欧米の思想に「直接」触れたとはいえ、スミス等の書物の翻訳は、邦訳からの重訳ではなかったとしても、用語は、全て和製漢語であったはずだ。(太田)
1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。
毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東はアメリカの記者であるエドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している。
「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」
当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです。
⇒近代化において支那に先行した日本の抱くアジア主義なる理念と日本が抱懐する人間主義に、24歳頃の毛沢東が気付かされた瞬間だと私は見ている。(太田)
同じ年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に最初の論文となる「体育の研究」<(注125)>を発表している。
(注125)「体育が精神と肉体にいかなる影響を及ぼすか、そして動くことによって身体の各部位を鍛えることの重要性が説かれていた。かつての<支那>においては、体操を含めて人間が身体を動かすということは下品であると考えられていたことから、毛沢東の体育の研究は画期的であった。・・・
この論文の中で、毛沢東は嘉納治五郎の創始した柔道やその理念を評価している。湖南省立第一師範学校で毛沢東を教えた楊昌済は、嘉納の推薦で東京高等師範学校に留学した経験があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E8%82%B2%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
楊昌済(1871~1920年)は、「1871年4月21日、湖南省長沙県に生まれた。1898年、岳麓書院入学。1903年、日本の弘文学院に入学しその後東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業。1909年、アバディーン大学入学。1913年—1918年、湖南第一師範学院教員。1918年—1920年、北京大学教員。・・・
毛沢東の2番目の妻・楊開慧の父として知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%98%8C%E6%B8%88
「日清戦争が終わった翌1896年(明治29年)、清朝政府は日本へ派遣する留学生の受け入れを日本政府に依頼した。駐日公使裕庚より依頼を受けた西園寺公望(外相兼文相)は、東京高等師範学校長であった柔道家の嘉納治五郎に一任し、嘉納は東京神田区三崎町の民家を借りて清国人留学生13名を受け入れる私塾「亦楽(えきらく)書院」を1899年に設け、日本語や数学・理科・体操などの教科を教えた。
留学生の増加に伴い、1901年に牛込区西五軒町の敷地3000坪の大邸宅に移転して弘文学院として発足、梁啓超は嘉納治五郎と友好的になり、1902年初めに東京大同高等学校を亦楽書院に併合し、弘文学院[5]として設立することを決定した。1903年(明治36年)乾隆帝の諱の「弘暦」の「弘」を避諱して、宏文学院と名称を改めた。在校生数は500名にのぼり、1904年には分校4校を開いた。
教育課程としては、日本語を中心に、英語、数学、理科、地理、歴史などの諸学を学び上級学校への進学を目指す普通科と呼ばれる3年の課程と、速成科と呼ばれる2年以下の課程があった。作家魯迅もこの弘文学院普通科で2年間学んでいる。
1906年頃の東京には約8000人の清国人留学生がいたとされ、当時、宏文学院は1556名の生徒を抱える最大の留学生教育機関であったが、清国の留学政策の転換や日本語学校乱立により文部省が公布した「清国人ヲ入学セシムル公私立学校二関スル規程」に対する留学生の反発があったことなどから生徒数が激減し、1909年(明治42年)7月に閉校した。創立から閉校までの入学者総計は7192名、卒業・修業者は総計3810名を数えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%99%A2
⇒毛沢東は、楊昌済を通じ、日本における縄文的弥生人の存在とその何たるかを知った、と見たいところだ。(太田)
師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は、1918年4月、学友たちと共に新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。
1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業した。1919年5月の5・4運動期に、教授で恩師の楊昌済(後の義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊昌済の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀・胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。
翌1919年には帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
⇒こんな毛沢東が、魯迅の非人間主義支那人、ひいては儒教、批判や、周作人を通じて知った新しき村、に入れ込んだのは当然だった、と言えよう。
なお、前にも指摘したことがある(コラム#省略)が、毛沢東が引かれたのはマルクス主義であって、マルクスレーニン主義/スターリン主義、ではなかったはずだ。
というのも、毛沢東は、同じ日本大好き人間だったところの、ハイネ、的マルクス理解・・人間主義者マルクスとの理解・・をしていた、と、私は見ているからだ。
これも、同じ頃に指摘したことがあるが、そもそも、中国共産党が創設された1921年の時点で、資本論すら漢語訳されてはいなかった(注126)ことを思え。
(注126)「『共産党宣言』が初めて翻訳されたのは1904年のことで、『平民新聞』の発刊1周年記念にあたる第53号に、幸徳秋水と堺利彦が英語版から訳したものが掲載されました。けれどもこの翻訳は桂内閣によって即座に弾圧されました。幸徳、堺、西川は、出版法違反で起訴されました。『共産党宣言』の全訳(前の翻訳では省略されていた第3章を含む)が出版されたのは、その3年後の1907年、『社会主義研究』という月刊誌においてでありました。
この雑誌が出版を許されたのは、一つには西園寺内閣の比較的自由主義的な政策のためであり、またこの雑誌の学術的な性格のためでした。」(丸山真男「戦前日本のマルクス主義」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjqpcGChtT9AhV1glYBHdb4ALYQFnoECCcQAQ&url=https%3A%2F%2Ftwcu.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D20182%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D29&usg=AOvVaw1aPQbCFdnr7A9vt-UVCatW
日本で資本論が完訳・刊行されたのは1922年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96
「郭沫若は、福井準造の著書『近世社会主義』(明治32年、1899年)が1913年に<漢>語に翻訳され、これが<支那>へのマルクス・エンゲルス思想の初めての紹介になったと述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
それなのに、どうして、マルクス主義ならぬマルクスレーニン主義/スターリン主義が、1920年代の支那を席捲したかと言えば、一つには、日本の、とりわけ第二次大隈内閣が島津斉彬コンセンサスに則ったかのような支那辱め政策とでも言うべき対華21カ条要求を行った(注127)ことであり、もう一つは、その延長線上での、原内閣下での山東問題のこじれ(注128)だ。
(注127)「五四運動<は、>・・・<支那で>1919年に発生した抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動。北京から全国に広がったが5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ<る。>・・・
政治的背景は2つある。
まず対華21カ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21カ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求の最後通牒を受けた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。
次の政治的背景には<支那>軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、<支那>は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは<支那>における様々な利権であった。1918年5月には「日支共同防敵軍事協定」が結ばれ、日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととした。これら軍閥と日本との癒着は、<支那>民衆の激しい反発を呼び起こし、抗日感情を非常に高める結果となった。
文化的な背景として、まず新文化運動・白話文運動を挙げることができる。これらの運動は1910年代に起こってきた啓蒙運動で、陳独秀・李大釗・呉虞・胡適・魯迅・周作人などが運動のオピニオンリーダーであった。彼等は『新青年』や『毎週評論』といった雑誌を創刊し、それによって新思想を鼓吹した。すなわち全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などがその内容である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95
(注128)「第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、<支那>全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。
この運動以降、<支那>の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
「日本は中国に対し 1915年の対華二十一ヵ条要求で,山東省の旧ドイツ権益の全面的譲渡を主張していたが,中国の反対により,この問題は紛糾した。その後アメリカは,5強国による山東の国際管理を提案したが,日本は受入れず,ベルサイユ講和条約で山東条項を承認させた (156~158条) 。しかし中国は講和条約の調印を拒否し,排日運動が起った。 1921~22年のワシントン会議では,日本の主張する勢力範囲設定案を退け,中国に対する門戸開放・機会均等主義が承認され,山東問題にも適用された。日本と中国は 22年2月3日,山東懸案解決に関する条約に調印した。条約のおもな内容は,膠州湾還付と同地域公有財産の無償返還,青島済南府鉄道沿線駐屯の日本軍隊の撤退,青島税関返還,鉄道借款の放棄と国庫債券による買収,日本は専管居留地,国際居留地の設置を要求しないこと,中国は山東地域を外国貿易に開放し外国人の居住と営業の自由を許すこと,などであった。同年 12月 17日,日本軍は撤退を完了した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%95%8F%E9%A1%8C-71216
そこまでは、日本の秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者、にとっては、想定の範囲内だったものの、支那におけるナショナリズム/反日感情の高まりを奇禍として、ソ連が敢行したマルクスレーニン主義/スターリン主義のマーケティングに当時の支那の識者達の多くがからめとられてしまったというわけだ。
但し、毛沢東は、かかる、日本の秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者の意図も見抜いた上で、あえてソ連にからめとられたフリをしていただけ、というのが私の見方であるわけだ。(太田)
《宮崎滔天》
「肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真<(注129)>とする郷士の家柄に、その9代目となる宮崎政賢と佐喜夫妻の八男として、1871年(明治3年)に生まれる。・・・
(注129)「近世までの日本では主に「大和魂」とは以下のような事柄を意味してい<た>。
・世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。
・特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。
・<支那>などの外国文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。
・知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。
・以上の根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力。
・日本民族固有の勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。
大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれた。和魂漢才とは、漢才、すなわち<支那>などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、<支那>から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられていた。
江戸時代になると、中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み、大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになって(真心)、「もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていき、後期には「日本の独自性を主張するための政治的な用語」として使われるようになった。そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82
⇒滔天は、生まれた家が菅原道真を祖と標榜していたことから、支那等の「魂」と比較しての大和魂とは何か、を考え続けざるをえない立場にあったはずであり、大和魂とは私の言う人間主義であることに気付くに至っていた、と見る。(太田)
7歳の時の1877年、八郎が西南戦争で戦死。<兄の>八郎戦死の訃報を聞き、「良いか皆のもの、今後一切宮崎家のものは官の飯を食ってはならぬ」と父が慟哭したことは滔天の記憶に鮮明に刻まれ、以後、「官」と付くものは「泥棒悪人の類」と見做すようになる。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。
⇒西郷隆盛と大久保利通(や山縣有朋)の違いは、一、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの完遂を期すべき時期を近い将来と捉えるか遠い将来と捉えるかの違いであったところ、宮崎は、前者と捉えるべきであると考え、しかし、二、完遂機運の醸成は、主として、日本の民間とアジアの民間への人間主義の広宣/普及によってなされるべきだ、と考えた、と見る。
一の点で滔天は近衛篤麿と見解を異とするも、二の点では一致していた(注130)、とも。
(注130)「滔天・・・は自分を「同情に生きる」人と定義した。人の同情によって生き、また人に対して同情の念の抱き、行動し、死す。・・・ただ、同情は求めるものではなく、人に頼ることを意味しない。「自立の心」も必要である。彼は生きるために誠実に働く人の側に立つ・・・「幾多民衆」に対して、同情を抱き、彼らに「永世奴隷ノ境遇」より脱却させることは「血ト涙ノ同情」であり、真の同情である。・・・彼は<これを>・・・道楽・・・<に>していた。」(何鵬誉「革命から改造へ:宮崎滔天の夢と中国」(63~64)より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiL-_aw0d39AhUzg1YBHWiKCAEQFnoECBcQAQ&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D6245%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3yvB1GamyZ1GHIVcZGORJC
「注130」から、滔天が、ここで使っている「同情」が私の言う人間主義と同じものであることは明白だろう。(太田)
熊本県立中学校に通うも、「中学同窓生の其志望目的を語るや、皆曰く吾は何々の吏となり、吾は何某の官に就かん」という有様であったため、1885年(明治18年)、「自由民権の思想を鼓吹して人材を養成しつつありし」徳富蘇峰の私塾・大江義塾に入塾した。当初、滔天は大江義塾に対し、「余が理想郷なりき、否余が理想よりも遥かに進歩せる自由民権の天国なりき」と期待したが、やがて塾生との問答から、徳富蘇峰や塾生たちが功名心や立身出世を願って自由民権を語っていることを知り、失望してわずか半年で大江義塾を去った。・・・
⇒やはり、蘇峰は、流れに掉さし続けた人物であったと見て間違いなさそうだ。
ちなみに、近衛篤麿も、「政党・・・も猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと批判した。松方正義内閣、大隈重信内閣、山縣有朋内閣、伊藤博文内閣などから入閣の誘いがあったが断っている」ような人物だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF (太田)
1886年(明治19年)に上京。偶然立ち寄った教会で生まれて初めて聞く讃美歌に感動し、宣教師の説教を聞いて「暗夜に光明を望むが如き感」を得る。「政治の共和的にして、信仰条目の自由なる」考えに共鳴して1887年に受洗した。この間、教会に通い、牧師の妻から英語を習った。また、東京専門学校(現早稲田大学)の英学部に入学している。 1887年、学資困窮となり帰郷。そこで貧しさにあえぐ荒尾村の農民たちの姿を目の当たりにし、「先ずパンを与うべきか、福音を先にすべきか」と、キリスト教への信仰が揺らぎ始めることになる。 伝道師となって世界を救うことを夢見て荒尾を再び離れ、1888年(明治21年)に熊本英学校、次いで1889年(明治22年)には長崎のミッションスクール「加伯里(カブリ)英和学校」に遊学した。カブリ英和学校在学中、スウェーデン人のイサク・アブラハムと知り合い、彼から「宗教の裏面に地獄あり…古来宗教の為に恐るべき戦争を惹起したること幾何ぞ」とのことばに衝撃を受け、さらに自由民権の本場である欧米社会でも貧困に喘ぐ人々が多くいる事実を知る。このことが、滔天がキリスト教を脱会する大きな要因となった。・・・
⇒蘇峰は生涯キリスト教徒であり続けたのに対し、滔天はキリスト教を捨てたわけであり、それは、滔天がキリスト教が人間主義を説く宗教ではないことに気付いたからだろう。
他方、蘇峰は、ひたすら、日本のみならず、欧米の流れにも掉さし続けた他律的な人物だった、ということになりそうだ。(太田)
長崎に滞在してい<た>ところ、兄・彌蔵が駆け付け、彼の革命的アジア主義を説かれる。 「パンを与ふるの道古人既に之を喝破し尽くせり、…(中略)…之を決行するの道、唯腕力の権に頼るの一法あるのみと。…腕力の基礎の切要にして且急務なるを認めたり。然らば乃ち何の処にか其基礎を定むべき。是に於て彼が過去の宿望たる支那問題は復活せり。」 「もし支那にして復興して義に頼って立たんか、印度興すべく、暹羅安南振起すべく、比律賓、埃及もって救うべきなり…(中略)…遍く人権を回復して、宇宙に新紀元を建立するの方策、この以外に求むべからざるなり」。 世界革命の必要性、そしてその第一歩としての<支那>革命というこの考えに滔天は深く共感し、以後、兄弟で<支那>革命を目指すようになる。
⇒滔天は、この頃までに、篤麿・・「篤麿の外交政策は、中国(当時は清)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。」(上掲)・・が抱懐してたところの、件のコンセンサス完遂の鍵は、支那の阿Q(非人間主義者)であるところの大半の漢人達をして自分達の人間主義性に目覚めさせ、人間主義者達へと回心/回帰させることにある、という認識と同様の認識に至っていた、と見る。(太田)
1891年(明治24年)、初めて上海に渡航した。・・・
⇒1893年には、篤麿は、大久保利通が創立したと言ってよい振亜会(1878年)が姿を変えた興亜会(1880年創立)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E4%BC%9A
に継ぐ2番目に組織された本格的なアジア主義団体たる東邦協会(1891年創立)の副会頭に就任、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%82%A6%E5%8D%94%E4%BC%9A
この興亜会と東邦協会をコアとして1898年に創立された東亜同文会の会長に、彼はアジア・モンロー主義を呼号しつつ就任するが、滔天もこの時会員として加わっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A
この頃までには、上出のコンセンサス完遂時期も含め、滔天と篤麿の考えは完全に同期するに至っていたと見たい。(太田)
外務省の命によって<支那>秘密結社の実情観察におもむき、<支那>革命党員との往復があった。
1897年(明治30年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後<支那>大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蔣介石を援助した。1898年(明治31年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同1898年(明治31年)のフィリピン独立革命においては参画するところがあった。
哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、1900年(明治33年)に恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。
恵州事件の失敗から同志間で滔天への「悪声」が聞かれるようになり、「胸底を去る能わざりき」不快の念を抱いた滔天は浪花節語りに転身することを決意。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた。 この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、1902年(明治35年)8月20日に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。・・・
1905年(明治38年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。
1906年(明治39年)、板垣退助の秘書である和田三郎や、平山周、萱野長知らと革命評論社を設立。1907年(明治40年)9月5日、『革命評論』を創刊(~1907年3月25日、全10号)して、孫文らの辛亥革命を支援。
1912年(明治45年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。
1917年(大正6年)、湖南省を訪れ、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを講演を行った場に、毛沢東がいた。・・・
⇒これは、決定的に重要な出来事と見なければならない。
この時に、毛沢東はアジア主義者(秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者)になった、と考えられるからだ。(太田)
1929年(昭和4年)、南京で行われた孫文の奉安大典に、槌子・龍介・震作の滔天遺族が国賓として招待された。1931年(昭和6年)にも龍介・燁子夫妻が国賓として招待されている。
戦後の1956年(昭和31年)の孫文誕生九十年の祝典に龍介夫妻が招待され、毛沢東・周恩来と共に臨席した。その後も宮崎家と中国の交流は続き、現在も東京の中国大使館に新たに大使が着任した際には自宅に訪問があり、孫文の友人「井戸を掘った人」として5年に一度、国賓として中国に招待されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%BB%94%E5%A4%A9
⇒中国国民党による滔天遺族の国賓招待と中共によるそれとの本質的意味は全く異なり、前者は辛亥革命への滔天の貢献に対するものであるのに対し、後者は、アジア主義(秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス)に基づく毛沢東(中国共産党)による支那権力の革命的奪取に向けての思想形成への貢献に対するものである、と、私は見るに至っている。
その傍証の一つとして、同じ九州生れだが、宮崎滔天(熊本県)よりも、物心両面でより大きな孫文支援を行った梅屋庄吉(1869~1934年。長崎県)の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B1%8B%E5%BA%84%E5%90%89
子孫に対して、中共が「2008年、胡錦涛国家主席(当時)が、庄吉の孫の嫁ぎ先が営む<ところの、>・・・孫文の妻[で、中共の国家副主席になり、国家名誉主席として1981年に亡くなった]宋慶齢が愛用したピアノが展示されている・・・日比谷松本楼(東京都千代田区)を訪れ<た>」
https://www.j-cfa.com/report/feature/20230101_05/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%B0%8F%E4%B8%89%E5%A7%89%E5%A6%B9 ([]内)
ことくらいのことしかしていないことが挙げられる。(太田)
《近衛篤麿》
「下落合417番地に住んだ近衛篤麿と、そのすぐ北隣りにあたる高田町雑司ヶ谷上屋敷3621番地に住んだ宮崎滔天は、欧米列強に侵略されつづける清朝の「中国革命」を支援し「アジア主義」を標榜したが、両者の思想はまったく異なっている。
⇒既述したことからすれば、そんなことはありえないことになる。(太田)
前者は東亜同文会を結成(合同)して組織的にも具体性があり、その主張は欧米政治家の間でも(危機感とともに)よく知られていたが、後者は日本国内や中国の革命派の一部にはよく知られていたものの、欧米諸国ではほとんど認知されていなかった。
近衛篤麿の思想は、ひとことでいえば“日本主導”で中国革命を支援し、中国に革命政府が成立したのちは“日本主導”でアジア諸国の独立を助け、ゆくゆくはアジア諸国が連携して“日本主導”で欧米の植民地勢力を追い出そうという、日本を中心としたアジア型の「モンロー主義」をめざすものだった。
⇒否、「“日本主導”で・・・日本を中心としたアジア型の「モンロー主義」」は、あくまでも「欧米の植民地勢力を追い出<す>」までのことだったのだ。(太田)
あくまでも日本を中核にすえた「同人種同盟論」は、のちの「大東亜共栄圏」を生みだす思想的な出発点のひとつを形成している。
⇒この同人種は、欧米植民地勢力が白人種であることを念頭に置いたところの、非白人(有色人種)地域/被植民地地域、という意味に他ならない。(注131)
(注131)「篤麿が・・・欧州(欧米)列強の帝国主義的野望とその裏にある白色人種の人種主義(レイシズム)に対抗するために「同人種同盟論」を説き、東亜同文会を組織したのに対し、<欧州留学中の、津軽家に入ったところの、篤麿の弟の>英麿は<、>いわば〈名誉白人〉として欧米帝国主義国家の仲間入りすることを主張する。英麿によれば、白人優位の世界は「優勝劣敗」の法則に照らしてもはや「已む得ざる」ものであり、日本はこの現実を直視し、中国を助けて「欧洲各国の怨みを買」うよりも、「今のうちに泥棒(欧米列強のこと)の仲間入り」すべきである、と主張する(同上、同書)。それが、帝国主義列強の国家内にあって少青年期を過ごした英麿の眼には、兄の「同人種同盟論」はあまりにも理想主義的に見えたのかもしれない。・・・
<ちなみに、>英麿の養父承昭は、熊本藩主細川斉護の四男であり、その弟(斉護六男)が、東亜同文会副会長長岡護美である。」
https://www.kazankai.org/media/cl/a311
それに対し、東亜同文会や東京同文書院の「文」は、「漢字」を指しているのではなく、東京同文書院が支那のみならず、ベトナムやインド等からも留学生を募集したことが示しているように、仏教が念頭にあるところの、「文化」、を指している。
更に言えば、私は、この「文化」は、私の言うところの、人間主義、を指している、と見ている。
そもそも、インドは、仏教が生まれた所ではあっても仏教国(地域)ではないわけだが、これは、このインドも含め、かつて、仏教なる、人間主義追求宗教を主要宗教としたことがある、ということを踏まえたものであったはずである、と。(太田)
1898年(明治31)に刊行された雑誌「太陽」1月号に掲載された、近衛の「同人種同盟 附支那問題の研究の必要」が欧米に衝撃を与えたのは、著者が華族の中心的な一族の人物のみならず、当時は貴族院議長の職にあったせいもあるが、それ以前に1893年(明治26)にニューヨークとロンドンで出版された、チャールズ・ピアソンによる『国民の生活と性質』が欧米でベストセラーになっていたからだろう。ピアソンの同書は、現在は欧米の植民地として虐げられている有色人種(特にアジア人)が、将来的には結束して逆に欧米を脅かす存在に成長するという、「黄禍論」のさきがけのような内容だった。
近衛篤麿が、「同人種同盟 附支那問題の研究の必要」を発表したのと同年、東亜会と同文会を合同させ東亜同文会を結成し、「支那を保全す、支那および朝鮮の改善を助成す、支那および朝鮮の時事を討究し実効を期す、国論を喚起す」という綱領を発表した。ここにもあるとおり、中国革命を支援するにしても対等の立場ではなく、あくまでも中国を「保全す」るのは日本であり、「保全」されるのは中国だという優越的な関係性がすでに見えている。
⇒既述したことから、「東亜会と同文会を合同させ東亜同文会を結成」は誤りだ。(太田)
「同文」は同文化の略だが、上海に東亜同文書院が、東京の下落合437番地の近衛邸敷地内には東京同文書院が設立され(のち目白中学校併設)、中国をはじめベトナムやインドなど、アジアからの留学生を募集しはじめたことで、欧米諸国はさらに神経をとがらせたことだろう。
⇒東亜同文会が、とりわけ支那を重視したのには、支那がインドと並ぶ、人口の多い地域であることに加え、支那においては、インドと違って仏教が生き延びていたこと、かつ、万物一体の仁(コラム#12103)なる人間主義志向思想を、宋時代に創出していたからではなかろうか。(太田)
当時、中国の人口は4億人であり、インドもほぼ同数の4億人、それに最新の軍備を整えつつあり日清戦争に勝利した日本を加え、清の外交官だった曾紀沢<(注132)>の論文(英文)のように、アジア諸国が自主独立をめざす「東洋連合」が実現すれば、欧米の植民地勢力はひとたまりもなく、また本国の欧米、特に地つづきの<欧州>はその勢力に呑みこまれてしまうという危機感が、中世のモンゴル帝国の侵略記憶とあいまってリアルに受けとめられはじめていた。
(注132)Zeng Jize(1839~1890年)。「清末の外交官。曽<(曾)>国藩の長男<。>・・・1870年、父の功で戸部員外郎に任ぜられる。1877年、父の爵位を継いで一等毅勇侯となる。1878年、駐英公使兼駐仏公使に任命され、太常寺卿に補任される。
当時新疆はコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが占領していたが、清の陝甘総督左宗棠によって滅ぼされた。ロシアはこの混乱に乗じてイリ地方を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の崇厚を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うというリヴァディア条約(英語版)を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、曽紀沢に駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、1881年にイリ条約を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。
その後曽紀沢はイギリスとのアヘン貿易問題や朝鮮・ミャンマーなどの問題の交渉にあたる。1884年、清仏戦争の際にはフランスに強硬姿勢をとったため、和平論が主流になった朝廷により駐仏公使を解任された。1885年には駐英公使を免ぜられ帰国した。帰国前に清の内政外交と列強の対清政策を論じた『China, the Sleep and the Awakening』(『中国先睡後醒論』)を発表した。帰国後は戸部右侍郎、総理各国事務衙門大臣などを歴任し、外交政策の改革と不平等条約の改正に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E7%B4%80%E6%B2%A2
もっとも、徹底的に差別し虐げた人々に対して、その「負い目」や「罪悪感」から現実以上の危機意識や被害妄想をつのらせるのは、別に当時の欧米人に限らない。
近衛篤麿も大きな影響を受けたとみられる、当時は英文で発表された曾紀沢の論文を、2020年に筑摩書房から出版された嵯峨隆『アジア主義全史』から孫引きしてみよう。
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今日東洋諸国に就て、余輩が最も憂ふる所は、各々些細の猜忌のために分裂して相好からず、東洋国同士の間柄よりも寧ろ其の西洋国に対する間柄の方をして、較や相近からしむるが如き迹あるは何ぞや。東洋国同士は宜しく一致連合して、其西洋国との交通関係をば戦敗より余儀なく生ぜるものにあらずして、彼我対等の条約より自から好て造りたる者となし度ものにあらずや。
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曾紀沢の「東洋連合論」を、近衛篤麿はそのまま日中提携をはじめとする「同人種同盟論」に置きかえたわけだが、文中にある「宜しく一致連合」はあくまでも日本がヘゲモニーをにぎって他国を従え、日本の「保全」あっての「同盟」であって、個々の国々が独立して主体的な政体を形成するとは想定されていなかった。
⇒既にお分かりだと思うが、これは、為にする議論に他ならない。
なお、人間主義と無縁の「東洋連合論」が、イコール「同人種同盟論」、たりえないことも、再度、強調しておこう。(太田)
それは近衛篤麿が死去した直後、1905年(明治38)に日露戦争で日本が勝利したことにより、東亜同文会をはじめとするアジア主義者の間では、ますます強まり傾斜していく志向だったと思われる。
⇒「思われる」ではなく、具体的な典拠を挙げるべきだろう。(太田)
現在でも、日本が中国と政治・経済的に親密になると、欧米諸国はあからさまな不快感を隠さない。当時は、日中印あるいは日中露の同盟が欧米から怖れられたが、ロシアや東ヨーロッパなどスラブ系も欧米から見れば「異人種」ととらえられていたことに留意したい。いまでこそ、中国は独裁政権下で日本からは「遠い国」と見られがちだが、同国が民主化されたその先には、地理的に近く歴史的にも交流が深い日本が親近国として位置づけられるのはまちがいないだろう。そのとき、欧米諸国の不安や恐怖は、おそらく激しく再燃するにちがいない。欧米諸国にとっては、日中あるいは日露の仲が悪いことがベストな環境であり、関係が緊密になることは当時にも増して「悪夢」なのだろう。
⇒英米が民主主義国であるなどという皮相な見方はさておき、欧米諸国のこの種の「悪夢」については、杉山らも毛沢東らも百も承知であり、だからこそ、中共は、支那の権力奪取後、インドと日本に対して、インドとは政治的に、また、日本とは経済的に、提携しつつ、インドに対しても日本に対しても軍事的緊張関係を間歇的に意図的に惹起することで、欧米の目を欺き続けているわけだ。(大東亜)
近衛篤麿が訪中しただけで、欧米のマスコミが危惧した様子を、2020年に講談社から出版された廣部泉『黄禍論―百年の系譜―』から引用してみよう。
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同人種同盟論の提唱者である近衛篤麿が北京を訪問すると、欧米各紙は、日中同盟締結は近いのではないかと危惧した。ロンドンの『タイムズ』は、近衛は中国で日中同盟を求めると予測したし、『シカゴ・トリビューン』は、近衛は日中同盟を締結するために訪中したと論じている。『ロサンゼルス・タイムズ』も、「東洋の二つの帝国が引き寄せあっている」と題する記事を掲載し、日中同盟は近いとの考えを示している。近衛の訪中という情報だけで、根拠のない日中同盟が強く疑われたことから、日中合同という形の黄禍論的考えがこの時期に広まっていったことがわかる。
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近衛篤麿とは正反対に、アジアの革命・独立や連合は、日本ではなく中国革命が中心となって推進されるべきだと主張したのが、近衛より8歳年下の宮崎滔天(虎蔵)だ。それは当時、日本とは桁ちがいの歴史と文化の蓄積や、人口4億人を抱えていた中国のマンパワーとも、深く連関づけていた視界であり思想にちがいない。
もともと自由民権運動に参加していた宮崎は、国と国の関係は対等であるべきであり、先々の国利国権ばかりをめざす同盟論者は、結局は欧米の侵略者たちと変わらないエセ・アジア主義者と見なしていた。このような思想的立場をとる人物はきわめて少なく、日清戦争そして日露戦争ののち日本が有頂天になっている社会状況の中では、「民権派アジア主義者」としてきわめて異彩をはなっている。今日の中国や台湾で、宮崎滔天が大きく顕彰されているのを見ても、近衛との思想的な対立軸は明らかだろう。
⇒実際は、篤麿と滔天は同志なのであり、台湾でというより中華民国で、ということなのだろうが、そちらはさておき、滔天が中共で大きく顕彰されているのは、滔天≒篤麿、だからこそだ、ということを既述したところだ。(太田)
宮崎の政治的な立脚点は、帝政(帝国)ではなく資本主義革命(市民革命)をへたうえでの共和制(共和国)を理想としていた。つまり、帝政に立脚する近衛篤麿とは対極に位置する革命思想であり、そういう意味では資本主義革命の先達であるフランスをはじめ、ヨーロッパ諸国の共和制を理想政体としたように見える。彼は中国にわたり、実際さまざまな革命運動にかかわることになり、近衛よりもはるかに主体的かつ実践的だった。
⇒若くして死んだ篤麿にないものねだりしているに等しい筆致だ。
また、篤麿は、「伊藤博文<の>・・・憲法<解釈論は>・・・批判されるべきものであ<るとしており、>・・・主権とは象徴的なものにほかならない<とし、>・・・「全く彼(天皇を指す―引用者註)は主権者なれば無責任ならざる可からず」と結論づけ・・・る。・・・<すなわち、篤麿>の政治的立場は、概ねイギリス流の立憲主義を基礎とするものであったということができる」
https://www.kazankai.org/media/cl/a595
のであり、滔天も同様だったと考えられるからだ。
「明治35(1902)年<に>・・・滔天が・・・執筆した・・・「明治国姓爺」<の中で、彼は、>・・・政治は・・・部族連合国家の酋長政治から始まり、君主専制の時代に進<み、>立憲政体というのが次に来るのだが、これは君主制と共和制の雑種政治とでも言うべきもの<で、>これが終わると真の共和政治の時代となるが、最後には歴史の到着点として無政府の世が来ると言<っている。」>
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiL-_aw0d39AhUzg1YBHWiKCAEQFnoECCcQAQ&url=https%3A%2F%2Ffukuoka-u.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D6336%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0YX_miA4b3GDT__fOEFjVM
からだ。
つまり、私の言葉で説明すれば、滔天は、弥生人だけの(日本以外の)国や縄文的弥生人が縄文人を率いる日本のような国は過渡的な存在であり、我々は、最終的には縄文人だけからなる世界社会・・当然それは無中央政府社会を意味する・・を目指すべきだ、と、私見では篤麿と同じ考えを抱いていたのであって、共和制を理想視など全くしていなかった、ということなのだ。(太田)
だが、当時の帝政清国にそのような変革を求めるのは困難であり、宮崎は革命家の孫文を支援しつつ、古代中国に存在したといわれる理想的な国家体制に惹かれていく。宮崎滔天『三十三年之夢』(岩波書店)より、孫文の言葉を引用してみよう。
▼
抑も共和なるものは、我国(中国)治世の神髄にして先哲の偉業なり、則ち我国民の古を思ふ所以のものは、偏へに三代の治を慕ふに因る。而して三代の治なるものは、実に能く共和の神髄を捉へ得たるものなり、謂ふことなかれ我国民に理想の資なしと、謂ふことなかれ我国民に進取の気なしと、則ち古を慕ふ所以、正に是れ大なる理想を有する証的にあらずや。(カッコ内引用者註)
▲
宮崎滔天がイメージしていた共和制は、すでに古代中国に存在していた「三代の治」に近似したものであり、最終的に達成されるべき民主革命後の中国は、その理想に近い政体(近似的共和制)になるべきだと考えるようになる。
だが、さまざまな経験や挫折をへるにつれ、彼が理想とする「三代の治」はアナキズム的な色彩を強め、また日本が革命の支援者ではなく、あからさまに中国革命の妨害者として立ち現れるにいたり、徐々に悲観的な見方を強めていく。最終的には、理想社会とは「過激主義でもなく、共産主義でもなく、又無政府主義でも国家社会主義でもない一種の社会主義であって、(中略)至極穏和な社会観」(宮崎滔天「出鱈目日記」1920年/『アジア主義全史』より)へと収斂していく。
⇒「徐々に悲観的な見方を強めていく」だの「収斂していく」だのは、滔天(や篤麿)に対して失礼千万なのであって、彼(彼ら)は、人間主義者として、政体についても、ブレない、確固とした考え方を、若い頃から抱いていたのだ。(太田)
宮崎滔天の思想は、革命後の中国(中華民国)を除き欧米はもちろん、国内でも大きな注目を集めなかったが、彼の思想に強く反応した人物がいた。早くから中国問題に注目し、アジア革命を基盤にゆくゆくは世界革命を視野に入れていた思想家・北一輝だ。彼は、日清戦争で同胞である中国にダメージを与えた「罪滅ぼし」として中国革命を支援し、アジアから欧米列強を駆逐しなければならないと説く。
1906年(明治39)に自費出版された北一輝『国体論及び純正社会主義』は、内務省からわずか5日で発禁処分を受けている。その2ヶ月後、北一輝は宮崎滔天の革命評論社へ参画するようになるのだが、それはまた、別の物語……。
⇒「別の物語」どころか、北もまた、滔天(と篤麿)と、本来的な同志なのだ。(太田)
下落合の近衛篤麿邸から、上屋敷(あがりやしき)の宮崎滔天邸まで、直線距離でわずか650mほどしか離れていない。当初は東亜会に所属していた宮崎滔天と、同文会を設立した近衛篤麿とは、両組織が1898年(明治31)に合同したあともお互い会員でいたが、ふたりの思想は大きくかけ離れていった。両者の息子である宮崎龍介と近衛文麿もまた、思想的な一致点はほとんどなかったと思われるのだが、少なくとも1937年(昭和12)の夏に起きた「特使事件」まで、ふたりにはなんらかの交流がつづいていたのかもしれない。」
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2020-12-22
⇒だから、この引用のこの結論部分は、その最終の「ふたりにはなんらかの興隆がつづいていたのかもしれない」という一文を除き、これほど完璧な間違いはないと言いたいほどの間違いなのだ。(太田)
《備考》
「・犬養毅 頭山満の親友、盟友。東亜同文会会員。中国から亡命してきた孫文や蔣介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまう。
・玄洋社 頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。在野の立場を貫き、日本政府の「大東亜共栄圏」構想に与しなかったため、のち迫害される立場になった。広田弘毅は正規のメンバーだったといわれる。
・黒龍会 内田良平が主宰。朝鮮での甲午農民戦争時に東学と連携しつつ清軍を挑発するために派遣された玄洋社の別働隊「天佑侠」を起源としている。なお名称の「黒龍」とは黒い龍ではなく、黒龍江(アムール川)を指す。
・中国同盟会 宮崎滔天や梅屋庄吉、和田三郎、北一輝らが参加。東遊運動を開始し、辛亥革命に協力した。・・・
・孫文「大アジア主義講演」 1924年11月、日本の神戸で講演し、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べる。東洋の仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張し、日本政府に対して中国との不平等条約を改正することを暗に求めた。カラハン宣言により不平等条約を破棄したソビエト連邦を王道の側に立つ国家とし、日・中・ソの提携を提唱している点に特徴がある。
・汪兆銘 汪兆銘は国父孫文の大アジア主義の意思を継承した人物。1912年1月1日、南京で孫文は臨時大総統に就任し列国に向かって中華民国成立の宣言を発表したが、この宣言の起草を行った。日中戦争中には徹底抗戦を主張する蔣介石に対し日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信し、中国共産党や蔣介石とは異なる独自の道を目指した。「一面抵抗、一面平和」の哲学のもと日中和平を唱え奔走したがついに叶わなかった。
・李大釗 新文化運動の中心的人物、後に中国共産党の創設者の一人となる。1919年に論文『大亜細亜主義与新亜細亜主義』で旧来の大アジア主義に代わる新アジア主義を掲げてアジア連邦を説いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
「大正ユートピア運動を背景として、徳當蘆花の「美的百姓」<(注133)>、有島武郎の共生農園<(注134)>、宮沢賢治の羅須地人協会<(注135)>を検討する。新しき村のユートピア思想は、明治後期および大正における 3つの思想および文学の動向と綿密に繋がっていることを論じる。 (1) 大正教養主義の展開とその白樺派に及ぼす影響 (2) 夏目漱石の「個人主義」から武者小路実篤の「自己主義」ヘの転換 (3) 私小説の発展と新しき村との関連性。」
https://www.jstor.org/stable/25791324
(注133)「「世界一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。諸君が手をたたいて喝采しました。お世辞ではありません。全然(まったく)です。
この気<にい>った場所で「幼稚な我儘とと頑固な気まぐれ」の持ち主で、兄から「多情多恨」と言われた蘆花は、土の生活に入った。・・・
昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。」
https://plaza.rakuten.co.jp/hisatune/diary/201209040000/
(注134)「北海道後志(しりべし)総合振興局管内のニセコ町(旧狩太(かりぶと)村)に白樺(しらかば)派の有島武郎(たけお)が所有していた農場で、・・・有島は、小作人の悲惨な生活、クロポトキンの影響などによって、早くから農場解放を考えていたといわれるが、1922年7月、農場を小作人の共有という形で解放、旧小作人は「有限責任狩太共生農団信用利用組合」を組織して農場を運営した。1949年(昭和24)の農地解放により、農場は個人の私有地となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E8%BE%B2%E5%A0%B4-1265238
「『中央公論』1918年7月に、新しき村を批判する評論「武者小路兄へ」を発表した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E
(注135)「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは、1926年(大正15年)に宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾<。>・・・私塾がこの名称で活動したのは1926年8月から翌年頃までであったが、・・・その前後に賢治<は>この住宅で独居生活を送った<。>・・・
賢治は周囲の田畑で農作業にいそしんだ。その一方、1926年11月29日から「農民講座」を始める。植物や土壌といった農業と関連する科学的知識を教え、それとともに自らが唱える「農民芸術」の講義も行われた。この講義の題材として執筆されたのが「農民芸術概論綱要」である(詳細は後述)。協会設立に先立つ5月から、賢治は周囲の人々を集めたレコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会も始めていた。
さらに賢治は農民による楽団の結成も考えて自らチェロを購入して練習に励んだ<。>・・・
<「農民芸術概論綱要」の中に、>「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」といったフレーズ<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E9%A0%88%E5%9C%B0%E4%BA%BA%E5%8D%94%E4%BC%9A
[『藤野先生』–縄文人(人間主義者)と君子]
「新青年』にのせられた論文のうちで、陳独秀は「儒教の忠孝節義は、奴隷の道徳である」といい、呉虞は「儒教は家族道徳を根本とする教であるが、この家族道徳こそ、二千年来の中国民族を苦しめ、奴隷化した張本人である」とし、儒教にたいして激しい攻撃を加えた。
この『新青年』は、初期のうちは民主主義、自由主義を基調としており、まだ共産主義の傾向は見られなかったのであるが、民国八年(一九一九)に起こった五四運動の前後から、急速に左翼的な色彩を強め、翌民国九年には完全に中国共産党の機関誌となった。したがって儒教が・・・共産主義の敵であることは、決定的になったといってよい。」(森三樹三郎「儒教と共産主義」より)
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DH/0025/DH00250R004.pdf
「魯迅は11歳の時に紹興で最も厳格な塾であった三味書屋(さんみしょおく)で学び科挙備えていましたが、父が亡くなったため17歳の時に南京に行き、海軍の学校である江南水師学堂(こうなんすいしがくどう)に給費生として入学、続いて陸軍の学校の鉱路学堂(こうろがくどう)に入学しました。ここは鉱山採掘と鉄道の実務について教えるところで、魯迅はここを3番の成績で卒業したと言われています。・・・
魯迅は1902年に鉱路学堂を卒業した後、他の同期生とともに官費留学生として日本に留学しました。当時の清朝政府は日清戦争後ということもあり、近代化を担う人材育成のための日本留学を勧めていました。・・・
⇒魯迅は、ここは筆を曲げていないとすれば、支那のために尽くそうと決意していたに違いない。(太田)
1904年9月、魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学しました。無試験で、授業料は免除されていました。
⇒他方、(秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達が主導する)当時の日本政府も支那人の啓蒙に積極的に乗り出していたわけだ。(太田)
魯迅は医学の道を選んだ理由について後に、「(鉱路学堂)卒業後、私は人種を改良して強種をつくっておかなければ強国になれないという考えから日本に行って医学を学んだ」と語っています。
⇒魯迅だけではなかったと思われるが、彼は、日本人や欧米人に対する人種的劣等感に苛まれていたのかもしれない。(太田)
また、医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由でした。
⇒日本語を身につけたいという意気込みの表れ、と、言いたいところだが、仙台で、魯迅が藤野先生を除いて友人を作った形跡がないところを見ると、ここは筆を曲げているのではないか。(太田)
当時の仙台は人口が約10万で全国11番目の都市でしたが、この年の2月には日露戦争が始まっており、市内は戦時色に染まっていたと言われています。・・・」
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kokusai/rojintogenkuro.html
⇒以下、『藤野先生』からの抜粋だ。
この著作が、「小説」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85
、より詳しくは、「自伝的短編小説」
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02066/
であることを念頭に置いて読んで欲しい。(太田)↓
「おそらく物は稀なるをもつて貴しとするのであろうか。北京の白菜が浙江(せつこう)へ運ばれると、先の赤いヒモで根元をゆわえられ、果物屋の店頭にさかさに吊され、その名も「山東菜」と尊んで呼ばれる。福建に野生する蘆かい(=草カンムリに、會。ろかい)が北京へ行くと、温室へ招じ入れられて「龍舌蘭」 と美称される。私も、仙台へ来てから、ちようどこのような優待を受けた。
学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、二、三の職員は、私のために食事や住居の世話までしてくれた。・・・
⇒明らかに、魯迅は、藤野先生を持ち上げるためにと思いたいが、ここ、筆をまげている。(太田)
解剖学は、二人の教授の分担であつた。最初は、骨学である。そのとき、はいつて来たのは、色の黒い、痩せた先生であつた。八字ひげを生やし、眼鏡をかけ、大小とりどりの書物をひと抱(かか)えかかえていた。その書物を講壇の上へ 置くなり、ゆるい、抑揚のひどい口調で、学生に向つて自己紹介をはじめた──
「私が藤野嚴九郎というものでして……」
うしろの方で数人、どツと笑うものがあつた。つづいて彼は、解剖学の日本における発達の歴史を講義しはじめた。あの大小さまざまの書物は、最初から今日までの、この学問に関する著作であつた。はじめのころの数冊は、唐本仕立(とうほんしたて)であつた。中国の訳本の翻刻もあつた。彼らの新しい医学の翻訳と 研究とは、中国に較べて、決して早くはない。・・・
⇒「漢才」(前出)は、日露戦争当時においてさえ、かつてのように、いわば日才、を凌駕してこそいなかったけれど、決して遅れてはいなかったことを示唆しているわけだが、日支の差の核心はそんなところにはない、という、この小説のテーマをプレイアップするために魯迅は、恐らくはだが、筆を曲げたのだろう。(太田)
「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
「少しできます」
「持つてきて見せなさい」
私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取つて、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持つてきて見せるように、と言つた。持ち帰つて開いてみたとき、私はびつくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあつた。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終るまで、ずつとつづけられた。<(注136)>・・・
(注136)「魯迅が仙台医専在学中にとった講義ノートは失われたものとされていたが,1951年紹興で発見された。内容は病理学,脈管学,解剖学,有機化学,五<感>学および組織学にわたり,・・・これらのノートには担当教師こよる添削が施されているが,中でも作品「藤野先生」で知られるこの解剖学ノートに施された藤野先生の添削はもっとも績密なものである。」とあり,医専での添削が藤野先生だけでなく担当教師全員によるの綴織的な指導の手が加わっていたように思われる。」
https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000003446/3-142.pdf
⇒「和魂(大和魂)」(前出)の核心が、私の言う人間主義であること、それが支那には欠如していることが、支那の欧米/日本の半植民地化をもたらした、と言いたいがために魯迅は筆を曲げたのだろう。
魯迅が、それを全教師・・全日本人!・・ではなく藤野先生で代表させたのは、劇的効果を意図したものなのだろうが、後述するところと合わせれば、完全なウソになってしまっている。(太田)
ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、.パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は──
「汝悔い改めよ」
これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、トルストイによつて引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。<(注137)>
(注137)「と魯迅は考えていた。だが、・・・トルストイが書いたのは手紙ではあったかもしれないが,一般的には,少なくとも日本では,「手紙」ではなく「戦争論」乃至「戦争観」或いは「非戦論」とみなされていたのである。・・・
<正しくは以下の通り。>
〔一月〕二十七日,日露戦争勃発。三十日,日露戦争について『反省せよ!』起草。「六月十三日,イギリスの「自由黨」社から『反省せよ!』を出版,翌日,英独仏紙に転載,日本では「タイムス」紙より幸徳秋水と堺利彦が共訳,「平民新聞」に発表。トルストイの論旨はキリストの教えにもとづいて戦争に反対し,自国の敗北をよびかけると同時に日本帝国主義が今後日本人民にたいする抑圧を教化する事態をうれうる。当時学習院の学生であった武者小路実篤と志賀直哉はこれにつよく影響される。」(前掲)
⇒蛇足ながら、前述したことを踏まえ、私は、武者小路が「つよく影響され」たとは思わない。(太田)
しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。
それで思い出したのは、二、三日前にこんな事件があつた。クラス会を開くというので、幹事が黒板に通知を書いたが、最後の一句は「全員漏レナク出席サレタシ」とあつて、その「漏」の字の横に圏点がつけてあつた。圏点はおかしいと、そのとき感じたが、別に気にもとめなかつた。その字が、私へのあてこすりで あること、つまり、私が教員から問題を漏らしてもらつたことを諷していたのだと、いまはじめて気がついた。
私は、そのことをすぐに藤野先生に知らせた。私と仲のよかつた数人の同級生も、憤慨して、いつしよに幹事のところへ行つて、口実を設けてノートを検査した無礼を問責し、あわせて検査の結果を発表すべく要求した。結局、この流言は立消えになつた。すると、幹事は八方奔走して、例の匿名の手紙を回牧しようと 試みた。最後に、私からこのトルストイ式の手紙を彼らの手へ戻して、ケリがついた。
中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。<(注138)>
(注138)「この解剖学の試験開題漏洩の流言に闘わる事件について一書すれば,起こりそうもない奇怪な事件であったといえよう。なぜなら,これまで指摘されてきたように,魯迅の当該学年の総合成績は進級要件を満たしてはいたが,解剖学そのものの成績は及第していないからである。」(前掲)
⇒「魯迅が過去の事実そのままを書いたというよりは,むしろ,歴史的真実を描いたと解釈すべきではないか,もちろん,そこには,事実ではない曲筆もあるであろう。」(前掲)どころではない。
ウソ、捏造、と言ってよかろう。
しかし、このくだりを「創作」したことによって、結果としてだが、島津斉彬コンセンサス中の、支那を辱めよ(コラム#省略)、を、支那人たる魯迅が、勝手に実践してくれたことにはなろう。
なお、魯迅が解剖学で落第点を食らった理由として、もう一人の解剖学の先生の教え方が下手過ぎたのか、二人の先生がどちらも下手だったのか、それとも、解剖学がその時の諸科目の中で最も語学のハンデのある者にとってはきつい科目だったのか、といったことも考えられないわけではないが、私は、藤野先生の教え方が下手過ぎ、それが語学のハンデのあった魯迅には特にこたえたせいではないか、と、勘ぐっている。
というのも、藤野先生が、1915年に、仙台医専改め東北帝国大学専門部が東北帝国大学医学部に改組された際に、教授として残れなかったところ、その理由として「帝国大学の教員には帝大卒の資格が必要であったため」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E9%87%8E%E5%8E%B3%E4%B9%9D%E9%83%8E
だとか、「「学位がないとか、県立の愛知医学専門学校卒業の経歴しかないとか、果ては外国留学の実績がないなどといわれ<た>」
https://www.qkamura.or.jp/echizen/blog/detail/?id=71268
とか理由が定かではないのだが、彼が、一旦教育研究職を志しながら、東北大に残れなかっただけでなく、その後、一耳鼻咽喉科開業医として余生を送らざるをえなかったのは、要は、研究業績がなかった、というか、研究業績をあげる能力がなかったからであろうところ、大学レベルにおいては、研究者として秀でていることが良い教育者であるための必要条件だ(と、少なくとも私は考えている)からだ。
「幸弥さんは「魯迅先生がいなければ、祖父<の>・・・藤野先生、つまり幸弥さんの祖父、厳九郎・・・は普通の村医者だった。少しばかりの好意をしただけなのに、祖父を有名にしてもらい、中国にはとても感謝しています。でも、もし祖父が、自分が今これほど有名だと知ったら、きっと喜びながらも苦笑するでしょう。学術上の業績で有名になったわけではないので」と語った。・・・」(コラム#12989)という、藤野先生の孫の、決して謙遜とは思わない、率直な言を噛み締めて欲しい。
以上を踏まえれば、「魯迅(ろじん)は『藤野先生』を発表し、またその後、日本で『魯迅全集(ろじんぜんしゅう)』が出版されるにあたって、音信不通となっていた藤野との再会を強く願ってい・・・たが、再会の夢は叶<わなかっ>た」
http://rekishi.dogaclip.com/2015/06/post-2340.html
一方、「藤野が名乗り出ること<も>なく、身内にも固く口止めしていたという。北京医科大学から教授として招請されたこともあったが、これも固辞した。ただ魯迅の死後、藤野の居場所を知った新聞記者が彼を取材しており、その時のインタビューが残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E9%87%8E%E5%8E%B3%E4%B9%9D%E9%83%8E
「<その時、藤野は、支那>人留学生の周樹人を大事にした理由をおおむね次のように説明している。
「日清戦争から相当の年数が過ぎていたが、まだ多くの日本人が中国人を『チャンチャン坊主』とののしり、悪口を言っていた。仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の同級生にも周樹人を白眼視してのけ者にする者がいた。自分は少年時代に漢文を勉強したことがあり、<支那>の先賢を尊敬しているため、<支那>から来た人を大切にしようとした。これが周樹人<(魯迅の本名)>に親切だ、ありがたいというように考えられたのだろう」
http://www.peoplechina.com.cn/whgg/202112/t20211203_800269094.html
、というわけだが、魯迅も藤野も、言っていることの殆ど全てがウソに聞こえてくる。
(「北京医科大学から教授として招請された」時期が魯迅の死の前であれば何をかいわんやだが、)藤野は音信不通であったのではなく、単に、魯迅も藤野も互いに音信を取ろうとしなかっただけのことではなかろうか。
『藤野先生』は藤野を不当に持ち上げ、他のあらゆる日本人を貶めることによって名作となったフィクションであることを藤野が知っていたとすれば、または、藤野が零落していたことを魯迅が知っていたとすれば、いや、それぞれ、知らなかったとは考えにくい(注139)以上、音信をとれば、お互いに気まずいだけだからだ。
(注139)「「藤野先生」は1926年・・・10月12日に完成し・・・12月10日に範月刊雑誌『莽原』(第一巻第二十三期)に発表され、27年7月に回想散文集『朝花夕捨』に収録された文章である。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwif4IbV1-L9AhX6xDgGHVwfDcI4ChAWegQIKhAB&url=https%3A%2F%2Fobirin.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D798%26file_id%3D21%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3Vll3JBfF2W7ISA8nVJOL5
「『藤野先生』<が収録されている>・・・岩波文庫の・・・『魯迅選集』<が1935>年<・・魯迅の死の前年・・>出版され、厳九郎はかつての教え子が高名な作家になっていたことを知った」
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02066/
ことに一応なっている。
しかし、上掲引用中、藤野が唯一本当のことを語っていると思われるくだりが、「<支那>の先賢を尊敬している」だ。
というのも、「藤野<は、>・・・父から漢文を学び、元福井藩士であった野坂源三郎の塾で漢学を学」んでおり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E9%87%8E%E5%8E%B3%E4%B9%9D%E9%83%8E
「<19>37年に・・・盧溝橋事件・・・が勃発し、日本軍は全面的に<支那>を侵略し<、>軍需品の薬品購入が激増したため、薬品価格は暴騰した<ところ、>田舎にあった藤野の診療所には多くの備蓄薬があった<けれど>、彼は高価な買い取りを望む薬品業者を前に、それらの薬は地元の村民らの需要を満たすために保管していると言い張り、少しも売らなかった。彼は子どもたちに「覚えておくんだ、<支那>は日本に文化を教えてくれた先生だ」と話し」ている
http://www.peoplechina.com.cn/whgg/202112/t20211203_800269094.html
からだ。
こんな藤野の善良さは疑いの余地がないが、彼は、ついに、最後まで、魯迅を全く理解しないままその生涯を終えたと言えよう。
魯迅は、藤野とは逆に、支那の先賢を軽蔑していたのだし、生きておれば、蒋介石政権相手の日支戦争にも(毛沢東のホンネ(コラム#省略)同様)賛成しただろうからだ。
そもそも、魯迅(~1936年10月)は満州事変に関してだって、日本を批判した形跡はない。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol3/son3.pdf
(ちなみに、1931年当時、第一次国共内戦下にあった中国共産党の毛沢東は、党の主導権を取る前でもあり、やはり、日本を批判した形跡はない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1 ) (太田)
だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつて いた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、 ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。
⇒このくだりも、フィクションであるとの指摘もネット上で目にした。(URLを思い出せない。)(太田)
その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺 をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。・・・
[ 「魯迅<いわく・・吶喊(とっかん)」より
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kokusai/rojintogenkuro.html 前掲
・・>・・・私<(魯迅)>は、<仙台で>医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D ]
⇒これは、魯迅の本心である、と、信じることにしよう。(太田)
彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い、痩せ た、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」<(注140)>の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。」(魯迅『藤野先生』より)
http://hanaha-hannari.jp/emag/data/ro-jin01.html
(注140)(formal, sometimes sarcastic) an upright and honest person
https://en.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%BA%BA%E5%90%9B%E5%AD%90#Chinese
⇒「子曰(いわ)く、君子は言に訥(とつ)にして、行いに敏(びん)ならんことを欲す。
子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
子曰く、唯(た)だ女子と小人とは養い難しと為(な)すなり。・・・
中国の「聖書」として読まれてきた『論語』。中で孔子さまは人間を「君子」と「小人」に二分化して差別している。にもかかわらず人々は、この差別主義者を「聖人」と呼び、未(いま)だにその言葉を生きる「道」にし、子どもに暗唱させたりしている。
善悪だの仁義だの道徳だの偉そうな口調で説教するものだから、聖人の顔は、孔子廟(びょう)に祭られる石像よりも硬くて冷たくて、人らしい温もりなどちっとも伝わってこないが……。」(高橋源一郎)
https://book.asahi.com/article/13199253
なる、孔子観を魯迅は記している、と私は見る。
すなわち、魯迅は、阿Qを創り出し、支那に満ち溢れさせたのは儒教だ、そんなものを捨て、藤野先生(実は日本人の象徴)を見倣って人間主義者になれ、と喝破した(注141)のであって、これが言いたいがためにこそ、魯迅は『藤野先生』を書き、これを支那人民に徹底させるためにこそ、毛沢東は、『藤野先生』を中共の教科書に掲載させた(注142)のだ、と見ている次第だ。
(注141)「雑誌《新青年》を中心に,中国の社会と文化を改革するためには,中国の封建体制の基礎となっている家族制度とそれを支えてきた孔子の教え(儒教)を否定せねばならぬ,という認識が進歩的知識人の共通のものとなった。陳独秀は〈孔子の道と現代生活〉など多くの文章で,孔子の思想が封建的なものであって民主主義とは両立しえないと主張し,呉虞は〈儒教の害毒は洪水猛獣〉のごとくはなはだしいものだと痛烈に批判し,魯迅は,儒教は〈人が人を食う〉教えであるとのべて《狂人日記》のなかで,人を食ったことのない(儒教に毒されぬ)子供を救え,と書いた。このほか,胡適,李大釗(りたいしよう),周作人,銭玄同,易白沙,高一涵など多くの人々が儒教の打倒を論じた。・・・
<ちなみに、>胡適<は>17年1月に雑誌《新青年》に・・・〈文学改良芻議〉・・・<を>発表し<たところ>・・・,形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,〈今日の文学〉をつくろうというその主張は,大きな衝撃を与えた。ついで,陳独秀が〈文学革命論〉を発表してこれに呼応し,〈国民文学〉〈写実文学〉〈社会文学〉を提唱するにおよんで,〈文学革命〉は時代の合言葉となった。文学革命に最初の実体を与えたの<が>,魯迅の短編《狂人日記》(1918)であった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80-98751
(注142)「「藤野先生」は、「故郷」とともにほぼ継続的に中学校の国語教科書に掲載されていることから、中国人の大半は「藤野先生」を読んだことがあるか、少なくともこの作品の存在を知っていると言われています。」
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kokusai/rojintogenkuro.html
そのことを間接的に裏付けているように思う話を以下に掲げておこう。
芹洋子が歌って有名になった「四季の歌」だが、その歌詞は以下の通りだ。↓
春を愛する人は 心清き人
スミレの花のような 僕の友だち
夏を愛する人は 心強き人
岩をくだく波のような 僕の父親
秋を愛する人は 心深き人
愛を語るハイネのような 僕の恋人
冬を愛する人は 心広き人
根雪をとかす大地のような 僕の母親
ララララ… (作詞・作曲:荒木とよひさ(注143))
https://lyricjp.com/ats/a0008d7/l003bc0h
(注143)1943年~。「大連の出身。敗戦で熊本に引き揚げた。[両親が離婚し、東京へ働きに出た母を思う日々を過ごす。ようやく同居を始めても、生活のために働く母とはすれ違い、寂しさを消せぬまま非行に走った。母を求める心が荒木の詩心を育んだ。]・・・〈スキーの選手で大きなけがをした・・・17歳の時に〉入院中に書かれた曲が「四季の歌」である。〈看護婦さん(当時の名称)やボランティアの人に伝えたら口伝えで広がっていったという。〉・・・日本大学芸術学部を卒業・・・1972年、<この>「四季の歌」の作詞・作曲でデビュー。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E3%81%A8%E3%82%88%E3%81%B2%E3%81%95
https://www.joqr.co.jp/qr/article/33791/ (〈〉内)
しかし、「プロの作詞家になったものの全く売れず、CMソングで生計を立てていた荒木。ふとした巡り合わせで書いた演歌『哀しみ本線日本海』がヒット。さらに、欽ちゃんファミリーへの楽曲提供をきっかけに、生涯の盟友となる作曲家・三木たかしと出会う。・・・テレサ・テンの三部作『つぐない』『愛人』『時の流れに身をまかせ』、堀内孝雄の『恋唄綴り』など、偽りのない真っすぐな表現で、心震わせる名曲を世に送り出した<。>」
https://www.bs-asahi.co.jp/ijinden/lineup/prg_117/ ([]内も)
荒木は、満州生れだし、中共人民にも大人気だったテレサテンの有名諸作も手掛けていて、中共とは大いにご縁のある人物だが、この歌の歌詞は、あたかも人間主義を歌ったかのような内容である上、ハイネが登場するのがミソだ。
この四季の歌について、かつて、この歌のウィキペディアからの引用である下掲を紹介したことがある(コラム#13141)。↓
「1981年、日中文化交流音楽大使を務める芹洋子は初の国賓女性歌手として北京公演で「四季の歌」を歌い、中国で大ヒット。中国語の「四季の歌」が歌われるようになった。中国におけるヒットには、NHKが中国向け国際放送で「四季の歌」を流し、学生が中心となって熱心にリクエストをしたことが寄与している。そこへ中国政府が動いた。芹洋子によると、「北京大学の学生さん達の運動がきっかけで北京コンサートが実現しました」ということである。
革命の詩人としても知られるハイネは、革命家マルクスと親交があった。マルクスの理念は毛沢東思想に導入され、1949年、指導者毛沢東たちによって中華人民共和国が誕生した。「中国近代文学の父」魯迅は、中国にハイネを紹介した初期の人物である。魯迅の弟・周作人によると、魯迅はハイネに傾倒していた。魯迅は、指導者毛沢東の『新民主主義論』(1940年)において英雄として讃えられ、「魯迅の方向こそが、中華民族新文化の方向である」とまで言われた。毛沢東と同時代の政治家郭沫若は、ハイネの翻訳家である。
1984年、中国の指導者胡耀邦は青年交歓活動として日本人青年3000人を中国に招待した。後に中国共産党中央委員会総書記習近平夫人となる歌手の彭麗媛は、その歓迎パーティーに参加して「四季の歌」を芹洋子と歌った。2人は日本語で歌った。この時の芹洋子は「日本の音楽の使者」として招待されている。このパーティーには、習近平の父親・習仲勲(当時、中央書記処書記)が参加していた。また、当時中華全国青年連合会主席であった胡錦濤は、指導者胡耀邦からのプレゼントとして用意された中国式の赤い上着(ジャケット)を芹洋子の娘に直接渡した。このプレゼントのために胡錦濤連合会主席が芹親子の宿泊先で1時間待っていたことが芹洋子を感激させた。胡錦濤主席は「四季の歌」をとても気に入り、芹洋子の中国コンサートに毎回のように来ている。習近平総書記は2015年に日本からの観光交流訪中団3000人を招待した。汕頭大学教授加藤隆則(元・新聞記者)によると、その原型は1984年の胡耀邦総書記による日本人青年3000人の招待である。彭麗媛と芹洋子の2人はその後も機会があるごとに「四季の歌」で競演している。日本で競演することもあり、2009年11月に日本各地で開催され日本の皇族も観賞した彭麗媛団長率いる歌舞団のミュージカル「木蘭詩篇」公演では、カーテンコールに「四季の歌」日本語版を彭麗媛と芹洋子で歌った。彭麗媛は訪日の度に芹洋子を訪問しているという。・・・
2010年6月18日、中国遼寧省大連市の大連大学において、第二次世界大戦終結65年と1972年日中国交正常化38周年を記念し、菅原やすのりと荒木とよひさによる「四季の歌ふるさとコンサート」が開催された。兄が遼寧省大連市で生まれ、自身は遼寧省瀋陽市生まれの菅原が、大連生まれの荒木をゲストに誘いこのコンサートは実現した。菅原は「四季の歌」を中心とする約10曲を大連大学の学生およそ1000人の前で熱唱した。荒木はこのコンサートで戦後初めて大連に来ることとなった。菅原が「大連は我が家のふるさとです」と言うと、学生たちは「ふるさとへようこそ」と歓迎した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%AD%A3%E3%81%AE%E6%AD%8C
これ↑を読み返してみると、四季の歌が、大袈裟に言えば、中共の準国歌扱いされている感がある。
毛沢東は、日本大好き人間で、今回分かったように、アジア主義者(≒秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者)であり、当然、人間主義者でもあったわけだが、以前に指摘したように、毛沢東はマルクスが思い描いた原始共産主義社会に日本社会は近いと見ていたと思われるところ、この私の直感が正しいことが、このような、中共における四季の歌の賞揚が物語っていると言えよう。
というのも、ハイネ(注144)は、日本以外で、日本人の人間主義性に最も早く気付き、讃嘆した著名人なのであり、魯迅がハイネに注目したのはそのためであり、恐らく、毛沢東は、魯迅を通じてハイネを知り、自分のマルクス/共産主義観の正しさを確信したのではなかろうか。
(注144)ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine。1797~1856年)。「1843年、パリで25歳のカール・マルクスと親交を結び、1845年のマルクスの出国まで頻繁に会う。マルクスはハイネの『ドイツ冬物語』(13年ぶりのドイツ旅行を題材にしたもの)の出版の手助けをするなど援助に努め、ハイネもマルクスに多くの詩を読み聞かせて意見を求めた。1844年、シレジアの窮乏した織物工が起こした蜂起を題材にした時事詩「貧しき職工たち」(のち「シレジアの職工」)を『フォーアベルツ』誌に発表、社会主義者の機関紙でフリードリヒ・エンゲルスの激賞を受ける。・・・
ハイネは親友モーゼス・モーザー(Moses Moser; 1797-1838)宛の書簡(1825年10月8日付け)において、«Gollownins Reise nach Japan»(ゴロヴニンによる『日本幽囚記』)を薦めて、この本からは、日本人が地球上で最も文明化した、最も洗練された民族(»das civilisirteste, urbanste Volk auf der Erde»)であることが読み取れる、私は日本人になりたい(»Ich will ein Japaner werden.»)、と書いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8D
『藤野先生』に戻るが、1926年のこの『藤野先生』は、1918年の『狂人日記』(注145)、1921~1922年の『阿Q正伝』(注146)と共に、支那人(漢人)の非人間主義性を批判し、人間主義性を追求すべきことを訴えた3部作と言えよう。
(注145)「『狂人日記』は、・・・魯迅によって1918年に雑誌『新青年』に発表された短編小説。38歳であった魯迅の処女作である。
<支那>の古い社会制度、とくに家族制度と、その精神的支えである儒教倫理の虚偽を暴露することを意図している点では、魯迅も当時の新思潮と共通の認識に立っていた。ただ、この作品では、それを人間が人間を食うことへの恐怖感という独特で感性的な形でとらえ、かつ、作中人物の「私」が被害者であると同時に加害者であるという、追い詰められた罪の意識に貫かれている点に、他の同時代者に見られない深刻さを指摘し得る。また以下のように直接的な背景を指摘する研究者もいる。『狂人日記』の書かれた年については従来、1918年4月執筆で、同年5月15日発行の『新青年』4巻5号に掲載されたと言われてきた。しかし上海の新聞『申報』の出版広告や、『周作人日記』などの記述から、『新青年』誌の発行は一カ月遅れており、『狂人日記』も4月でなく5月執筆の可能性があると後掲藤井論文は指摘する。同論文では、この仮説をもとに、同年5月に北京紙『晨報』社会面に掲載されたセンセーショナルな記事をもとにして書いた可能性を指摘する。その記事とは、「狂婦が子を食べるという奇妙なニュース」ならびに「良妻が自分の腕の肉を夫に食べさせ病気を治す」という儒教的観点から書かれたニュースをもとに書かれたものであった。同論文は、魯迅が孝子賢婦が自分の肉を食べさせるという儒教社会と、それをマスメディアが称賛するという事実に衝撃を受け『狂人日記』の筆をとったとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E4%BA%BA%E6%97%A5%E8%A8%98_(%E9%AD%AF%E8%BF%85%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
(注146)「魯迅<の小説である>・・・阿Q正傳<は、>・・・1921年12月4日から1922年2月12日にかけて新聞『晨報』の週刊付録に一章ずつ発表されたもの。・・・
主人公は、観念操作で失敗を成功にすりかえる「精神勝利法」,面従腹背,卑屈と傲慢の二面性など,封建植民地社会内における奴隷性格の典型といえる人物で,その後「阿Q精神」は、このような性格の代名詞ともなった。特にこの作品を気に入った毛沢東が談話でしばしば引き合いに出したため、魯迅の名声が高まった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D
その中で、『藤野先生』は、支那人の非人間主義性の淵源が儒教にあることを摘記した点で、3部作の掉尾を飾るにふさわしい作品であると言えそうだ。
「魯迅・・・は、左派的な理念によって育まれた多くの人にとって突出した文化的英雄であった。彼の死後、ほどなくして20巻からなる『魯迅全集』が出版されたが、これは現代中国文学界における空前の出来事であった。中国現代作家の中で、このような栄誉に浴したのは魯迅以外にはいない。このような栄誉は、中国共産党により作り出されたものである。国民党との奪権闘争を通じて、かれは中国共産党にとって人民に愛される反政府的な愛国主義を宣伝する代弁者として非常に利用価値の高い存在だったからである。毛沢東は、国防文学論戦ですでに魯迅を盾にして、党内の敵対派閥を叩くという巧みな戦術を展開していたが、魯迅の死後には、中国共産党統治の正統性を宣伝するために徹底的に魯迅を利用していった。日中戦争開始直後の1937年10月、共産党中央と中国紅軍総司令部が置かれていた延安では、魯迅逝世1周年を記念する集会が開かれ、毛沢東が「魯迅の中国における価値は、わたしの考えでは、中国の第一等の聖人とみなされなければならない」と講演した[30]。民国期の言論界で、欧米・日本の帝国主義国に対し抵抗しつつ、その近代文化を主体的に受容しようとした点、および左翼文壇の旗手としての国民党批判者としての「戦歴」により、魯迅は中国革命の聖人へと祭り上げられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85 前掲
は、執筆者達も、この執筆者達の諸典拠も、中国共産党に批判的な日本共産党系の人々ではないかと想像されるが、私自身は、掛値なしに、毛沢東は、魯迅を師としていた、いや、より端的に言えば、魯迅を媒介として、魯迅が心酔していた日本人達/日本社会を師としていた、と考えている。
なお、最近の中共における儒教復権の動きについてだが、その契機となったのは、私が、新しき村に範を取ったもので、ソ連のコルホーズに範をとったものではない、と見ているところの、人民公社(注147)、の失敗、つまりは中共人民の大半を占めていた農民達の人間主義者化の失敗、だったのではなかろうか。
(注147)「コルホーズは組織構造、住民構成などにおいて分化・分業が進み、その意味で都市的な農村を土台としていたが、人民公社は未分化でかつ地域的組織と対応した、農村そのものを温存する体制だったということである。
第一に、地域組織との対応関係についてみれば、ソ連のコルホーズは一般に 1 共同体=1コルホーズで構成されたといわれる。ただしコルホーズというのは会社組織にも似た、あくまで機能的な組織であり、地理的な領域概念ではなかった点には注意が必要である。さらに、フルシチョフ期には小規模コルホーズの合併が進められ、巨大なソフホーズへの転化も進められたことで、ロシア農村はミールの伝統からは遠く隔たったものとなった。人民公社の場合、各組織は機能的組織であると同時に、地理的な領域性も含意しており、ごくおおざっぱに言えば、人民公社=市場圏、生産大隊=村落、生産隊=集落に対応していた。
第二に、農村の党組織、行政組織、集団経済組織の関係についてみれば、コルホーズ体制において党委員会、村ソビエト、コルホーズの三者は「分業」の関係にあったが、人民公社体制においては「一体化」していた。つまり、人民公社はそもそも行政組織が集団経済組織と一体化した構造になっていた上に、公社党委員会と人民公社の関係も、事実上は前者が後者を指導するもので、トップリーダーは公社党委員会の書記であった。
第三に、農村住民の職業分化程度についてみれば、コルホーズでは機械化により多くが非農民になっており、分化程度は高かったと考えられる。人民公社では農業の機械化は全体的に低調で、そのためほとんどが人力、蓄力にたよった農耕が営まれ、幹部以外は基本的に全員が農民のままであった。 ・・・1970 年代の後半からは農村内部の工業化を進めたものの、工業部門に吸収された住民も「農民」であることには変わりはなく、あくまで工業部門での就業は農民の「副業」としての意味が強かった。
最後に組織が継続した時間であるが、コルホーズ体制は1930年前後から1990年前後まで、少なくとも60年は継続し、農村の「非農村化」を深化させて行ったのに対し、人民公社体制は、1958~1982年としても25年しか継続しなかった。」(東大総合文化研究科 田原史起「都市=農村関係の中露比較」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiT5JXNv-X9AhUKb94KHbz4BUUQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fread0163212%2Fpresentations%2F13580528%2Fattachment_file.pdf&usg=AOvVaw3CKX0CcAz_fT8pNkbrxaN8
文化大革命は、毛沢東の、この挫折に由来する焦り、が惹き起こしたものだったのではなかろうか。
そこで、恐らく、1976年に亡くなった毛沢東の遺志に基いているのだろうが、中共当局が採用したのが、日本から中共人民に直接人間主義を学ばせるという方法だった、と見るわけだ。
それを象徴するのが、1978年の鄧小平の訪日であり、彼の訪日時に「自らを不老不死の霊薬を求めて来日した徐福に擬えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3
のは、彼の本心を言い得て妙だったという感を深くする。
その後、鄧小平が打ち出した改革開放について、我々はえてして、経済的なものとしてだけ見がちだが、むしろ、経済的なものは副次的であって、中共人民/社会の人間主義への改革と、そのための人間主義の日本への中共の開放、が、その主眼であったとさえ言えるのではないか。
(当時の日本は経済高度成長の真っただ中であり、「人間主義への改革と、日本への開放」をすれば、経済高度成長は自ずとついてくる、という発想ではなかったか。)
しかし、そうなると、そんなものは、日本の真似・・私の言う日本文明の総体継受・・でしかないということになりかねず、中国共産党の権威が地に落ちかねない。
つまり、人間主義思想は、支那の正統思想の中においても見出すことができる、と言わざるを得なくなったのではないか。
そのために、儒教の復権が行なわれた、と考えたらどうか、と、私は言いたいのだ。↓
「孔子祭典は孔子一族及び一部の保守的な知識人などによって1948 年まで継続されたが、1949 年中華人民共和国成立後、民衆レベルの祖先祭祀と共に禁止された。毛沢東が組織した文化大革命時代には儒教思想は毛沢東の「革命の障害物」として全国レベルで徹底的に弾圧され、各地の孔子廟なども閉鎖または破損された。
<しかし、>毛沢東の死後、改革開放が進む中で、各地の孔子廟は徐々に修復され、儒家古典を基にした国学が「中華民族の優秀な伝統文化」として再評価されるようになった。21 世紀に入ってからは儒学を宗教及び倫理道徳として考え、儒教の制度復興を提唱する学者が相次いで現れ、儒教を再び宗教として再構築し、外来宗教のようなマルクス・レーニン主義を儒教の仁政思想に代え、現実問題を解決しようとしている。
⇒「儒学を宗教及び倫理道徳として考え」以下は不同意だ。(太田)
他方、儒教は社会全体の上下秩序と仁愛調和を重んじ、天命に基づいて道徳的に統治を行なう皇帝に服従することも民衆に説いてきた。この点において、仁徳をもつ皇帝のように中国を永遠に統治しようとする共産党指導部にとって、思想界の儒教復興提唱は欧米流の民主主義制度よりも分かりやすく都合のよい論理である。
⇒この点も不同意だ。(太田)
従って、2004年9月から孔子祭典や観光開発などを中心とする孔子文化節が政府主催で公式に行われ、曲阜を中心に各地へ急速に広がり、同年 11月以後には中国政府は世界各地の教育機関と協力して孔子学院および孔子教室を相次ぎ設立し、2016 年11 月現在、140の国家に510の孔子学院がある。」(秦兆雄「儒教復興からみた中国社会」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2017/0/2017_B15/_pdf/-char/ja
⇒ここの「同年 11月以後には」は実質的には完全に誤りだ。(注148)
(注148)「儒学の始祖孔子の名を冠しているが、儒学に関する教育機関ではない。教育部の管轄する国家漢語国際推広領導小組弁公室(「漢弁」)が管轄し、本部は北京市にあり、国外の学院はその下部機構となる。
中国共産党は、孔子学院が宣伝機関であることを公式に認めており、李長春中国共産党中央政治局常務委員は、「(孔子学院は)中国の外国におけるプロパガンダ組織の重要な一部」と述べている。
なお、孔子77代目の嫡孫孔徳成が1949年に台湾へ移住した後、孔子の嫡流は代々中華民国に居住しており(2009年9月以降は孔子79代目の嫡孫、孔垂長が世襲職大成至聖先師奉祀官となっている)、孔徳成と孔垂長は中国大陸では国務院の管轄する曲阜市の中国孔子研究院の永久名誉院長になっているが、孔子研究院は儒学研究機関であって孔子学院とは直接の関係はない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2
そうであるすれば、儒教の復権の最大の目的は、万物一体の仁・・私の理解では人間主義のこと(コラム#省略)・・の賞揚と中共人民達への普及にある、と、いうことになりそうだ。
例えば、東日本国際大学東洋思想研究所・儒学文化研究所『研究東洋』創刊号(2011年)に収録されている、成均館大学校教授崔一凡の論考が直截的に万物一体の仁を賞揚し、中国安徽大学教授解光宇の論考が(その万物一体の仁を唱えた)程顥(ていこう)(コラム#12103)を賞揚していること
https://www.shk-ac.jp/img/lab/02/08/pdf/toyo01_z.pdf
が、私のこの「期待」の背中を押してくれているように思われるのだが、いかが。(太田)
(7)菊池寛(1888~1948年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AF%9B
「菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた。
<紆余曲折の末、>京大・・・文学部英文学科・・・卒業。・・・
1923年(大正12年)1月、人気・・・大衆・・・作家となった寛は若い作家のために雑誌『文藝春秋』を創刊する。・・・
1935年(昭和10年)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を創設した・・・。1926年(大正15年)日本文藝家協会を設立。
1925年(大正14年)、文化学院文学部長就任。1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。しかし1937年(昭和12年)には、東京市会議員に当選した。
言論の自由を何よりも重んじた菊池は、「左傾にしろ、右傾にしろ、独裁主義の国家は、我々人類のために、決して住みよい国ではない」と主張し、政治家として、「反資本、反共産、反ファッショの三反主義」を掲げる穏健派の社会主義の社会民衆党で活動した。・・・
1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った。1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅する。・・・
終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。・・・
告別式は音羽の<真言宗の>護国寺で行われた。」(上掲)
⇒菊池寛は、大衆の一員であるところのその代表的な人物であり、代表的な人物であれ、大衆の一員である以上、およそコメントの対象たりえまい。(太田)
(8)尾崎士郎(1898~1964年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%A3%AB%E9%83%8E
「早稲田大学政治科在学中に社会主義運動にかかわり、大学を中退。大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てるようになる。
1933年(昭和8年)から都新聞に『人生劇場』を連載開始、大ベストセラーとなり、文芸懇話会賞も受賞。以後20年以上執筆し続ける大長編となった。また戦前は、雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰した。
早くに右傾し、日本文学報国会に参加して軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となるが、以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%A3%AB%E9%83%8E
⇒尾崎士郎は、小菊池寛である、で終わりだろう。(太田)
(9)林芙美子(1903~1951年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90
「山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとな<る。>・・・
その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」と言われるように波瀾万丈だった。・・・
1937年(昭和12年)の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地に赴いた。1938年(昭和13年)の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出(女性作家は林と吉屋信子の2人のみ)、同年9月11日、陸軍班第一陣の13人とともに大陸に向かった。出発時、東京駅で行われたセレモニーを避け、途中の横浜駅から乗車する気配りを見せたが、 戦地では同年10月28日、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りを果たした。漢口への従軍記は同年10月31日の東京朝日新聞に「美しい街・漢口に入るの記」として掲載されたほか、後日、『戦線』、『北岸部隊』として出版された。
「おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年(昭和15年)5月からは、全国各地をめぐる「文芸銃後運動大講演会」に参加。久米正雄、横光利一らとともに時局に応じた熱弁をふるった。さらに同年には北満州と朝鮮半島にも出かけた。
1941年(昭和16年)には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。 同年8月には情報局により風俗壊乱の恐れのある小説として『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分(当時は対象小説の題名は秘匿されていた)を受けた。
太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90
⇒林芙美子は、さしずめ、女性尾崎士郎といったところか。
赤旗は触れていないが、いずれも超一流文学者であるところの、一応戦争協力をした川端康成(1899~1972年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
ちょっとだけ戦争協力をした志賀直哉(1883~1971年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89
全く戦争と関わらなかった谷崎潤一郎(1886~1965年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E
等についても、機会があれば論じてみたい。(太田)
9 エピローグ
時流に乗ろうとしただけの者、役に立ちたいという気持ちはあってもまるで役に立たなかった者、等も含め、日本人達のほぼ全員が、とにもかくにも、杉山元らに乗せられて、その大部分はその明確な自覚がないまま、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの「概ね完遂」のために、甚大なる人的・物的損害を、自分達自身が甘受させられただけではなく支那人等にも与えつつ、全力を尽くして戦った結果、その目的が達成された上に、「概ね」がとれた「完遂」を中国共産党に引き続きやってもらうべく同党に任務付与することができたおかげで、その後数十年経った現在、「完遂」目前の世界を我々は目撃できているわけだ。
もはや、日本は世界の主役ではないし、将来は、端役を演じることができるどころか、日本列島に日本人など誰もいなくなるのかもしれないけれど、ぜひとも、皆さん、この日本に、世界の主役を演じ、世界史を大転換させた、この上もなく輝かしい瞬間があったことを、太田コラムを参考にしつつ、代々語り継いでいっていただくと共に世界にも広めていただければ大変幸いだ。
(一応完)
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太田述正コラム#13382(2023.3.25)
<2023.3.25東京オフ会次第>
→非公開