太田述正コラム#1777(2007.5.23)
<スターリン(その2)>(2007.11.25公開)
3 独裁者スターリン
(以下、
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B02EFD7143BF935A25757C0A9629C8B63&sec=&spon=&pagewanted=print
http://www.ashbrook.org/books/1400042305.html
http://www.powells.com/review/2004_07_06.html
http://www.popmatters.com/books/reviews/s/stalin-court-of-the-red-tsar.shtml
(いずれも5月23日アクセス)も参照した。)
(1)知性・感性溢れる家庭人スターリン
若かりし頃、天才的な詩人であったのだから、スターリンの知性と感性が傑出していたことは確かだ。
これまで、レーニンと比較して、知的にははるかに凡庸であるとされてきたスターリンの評価は間違いであり、スターリンは、少なくともボルシェビキの指導者群の中では、レーニンに匹敵する群を抜いた知性と感性の持ち主だった、ということだ。
スターリンの愛読書は、ゴーゴリ(Gogol)、チエホフ(Chekhov)、プーシキン(Pushikin)、シモーノフ(Konstantin Simonov)らのロシア文学書はもちろんのこと、ゲーテの書簡集、バルザック(Balzac)、フランス革命時の詩、ユーゴ(Hugo)、シェークスピア、サッカレー(Thackeray)、等の外国文学に及んだ。
彼が特に好んだのは、ゴールズワージー(Galsworthy)のThe Forsythe Saga、ジェームス・クーパー(James Fenimore Cooper)のThe Last of the Mohicans、ヘミングウェーの諸作品、等であったと伝えられている。奇しくもすべてが英米文学だ。
スターリンは歴史も大好きだった。
ヘルツェン(Herzen)の『7年戦争史』、ピーター・スコット(Peter Scott)の『海戦1939~1945年』等を読みふけったと伝えられている。
そして、1941年のモスクワ攻防戦のさなか、スターリンは当時出版されたばかりのクトゥーゾフ(Kutuzov)・・ナポレオンがモスクワを攻めた時にモスクワを放棄して戦いを続けた・・の伝記を読みふけり、最後の最後までその心中を空かさなかったクトゥーゾフに感銘を受け、スターリンは逆に最終的にモスクワを放棄しない決断を下したされている。
また、気持ちを落ち着けたい時には、スターリンは、モーツアルトのピアノ協奏曲第23番を何度も繰り返して弾いたという。
薔薇やミモザを育てるのも好きだった。
彼はまた、映画狂でもあった。”It Happened One Night”や “Mission to Moscow” やジョン・フォード(John Ford)監督の西部劇や、チャップリンのすべての作品が大好きだった。もっともヒットラーも金正日も映画狂だが・・。
(もっとも、この知性溢れるスターリンが、時には致命的な情勢判断ミスを犯す場合があった。一番有名なのが、1941年の独ソ戦の前、そして独ソ戦が始まってからもしばらくの間、ヒトラーの電撃戦能力を見くびったことだ。しかも、スターリンは、馬に挽かせた火砲といったソ連の軍事戦略の欠陥を理解しようとしなかった。)
しかもスターリンは、良き夫にして良き親、つまり良き家庭人でもあった。
1930年にスターリンは妻ナディア(Nadya)に以下のように書き送っている。
「タツカ(妻の愛称)へ・・タトーチュカ(妻のもう一つの愛称)、君に会いたい。僕は角が生えたフクロウのようにさびしい。・・私は今仕事を終えつつあり、この町を出て明日子供達の所に戻る。・・だから、家に戻って君に会うのはもうすぐだよ。キッスを送る。君のヨセフ。」
その妻が翌年自殺した時は、スターリンは棺に崩れかかるように嘆き悲しんだという。
総じて言えば、スターリンは人間的な魅力に溢れる人物だったのだ。
(2)独裁者にして殺戮者たるスターリン
独裁者にして殺戮者たるスターリンについては、従来からよく知られていたところだが、ソ連崩壊後、詳細が分かってきた。
彼がレーニンが亡くなってから5年目の1929年にソ連の権力を掌握してから1953年に73歳で死ぬまでの間に、2,000万人にも及ぶソ連の人々が、粛清や強制収容所送りによって殺戮された。
スターリンは、ソ連の人々を、元富農(kulak)、帝政ロシアの元官僚、非ボルシェビキ政党の元党員、宗教活動家、投機家、等様々なカテゴリーに分け、カテゴリーごとに処刑枠を設定した。このほか、個別にスターリンが直接特定の個人を処刑を命じる場合があった。前者によって処刑された者は、1937年から39年間の2年間だけで77万人近くに達したし、後者によって処刑された者は、スターリンの全治世下で4万4,000人に達した。
1941年の独ソ戦開戦は、スターリンを驚かせ、呆然とさせた。
しかし、しばらくするとスターリンは、敵前逃亡した約50万人の赤軍兵士をつかまえ、1万人以上の将校を銃殺した上で、残りを再編して前線に再投入した。
この過程で、銃殺された将校の妻達も処刑された。
1935年に制定されたソ連の法律によって、罪を犯した人物の家族や親戚は、たとえ全く無実であっても連座責任を問われることになった。この結果、粛清された人物の妻、子供、兄弟姉妹に対しても処刑等がなされるようになっていった。
例えば、1938年に拷問されて死んだブリュッヘル(Vasily Blyukher)元帥の場合、その最初と二番目の妻は銃殺され、三番目の妻は強制収容所での8年間の重労働が科された。
帝政ロシアでは、レーニンの兄が大逆罪を犯して処刑されたけれど、レーニンは処刑されるどころか、学業を全うすることを許された。また、シベリア送りになった流刑囚だって、ソ連の場合のように、餓死させられたり死ぬほどこき使われるようなことはなかった。
だから、ソ連は帝政ロシアよりはるかに人間性に悖る体制であったと言える。
この恐怖政治の下で、レフチェンコ(Trofim Lysenko)の遺伝学等のエセ科学がはびこったし、政治エリートは萎縮し、知性が鈍磨したため、スターリンの死後、ソ連はフルシチョフのようながさつな指導者やブレジネフのような凡庸な指導者をいただく羽目になった。
(悪いイメージが確立しているベリア(Lavrenti Beria。1899~1953年)だが、スターリンの死後、彼がソ連の権力を掌握していたならば、ソ連は40年早くペレストロイカの時代を迎えていたことだろう。
ベリアは、共産主義の根本的問題点を理解しており、私有財産制を導入しない限りソ連が早晩体制崩壊を迎えるのは必至であると考えていた。
スターリンの死後すぐに、彼は、ソ連の経済の自由化、スターリンが抑圧した諸民族の解放、強制収容所に収容されている人々の恩赦、粛清裁判のインチキさの暴露、ソ連による東独支配の終了等を唱えた。しかし、ベリアはフルシチョフらによって、一年も経たないうちに粛清されてしまう。)
このソ連に、少なからぬ欧米のインテリがいかれ、ソ連のシンパになったことは遺憾なことだった。
ソ連における粛清を、ユダヤ系ドイツ人小説家のリオン・フォイヒトヴァンガー(Lion Feuchtwanger。1884~1958年)、フランス人小説家にしてジャーナリストにして共産主義者のアンリ・バルビュス(Henri Barbusse。1873~1935年)、フランス人作家のロマン・ロラン(Romain Rolland。1866~1944年)、米国人自然主義作家のセオドア・ドライサー(Theodore Dreiser。1871~1945年)、米国人ヒューマニストにしてマルクス主義哲学者のコーリス・ラモント(Corliss Lamont。1902~95年)らが擁護したことを我々は決して忘れるべきではない。
(続く)