太田述正コラム#13208(2022.12.29)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その26)>(2023.3.26公開)
「・・・<1943年>7月29日にビルマの独立を控えて、同盟条約の諮詢のために出席した枢密院会議で、東条は次のように述べている。
「ビルマ」国は子供というよりはむしろ嬰児(みどりご)なり、一から十までわが方の指導の下にあり、それにもかかわらず本条約が形式上対等となりおるは、「ビルマ」国を抱き込む手なり。軍事上の便宜供与、敵産の処理交通通信等につき、必要なる事項はあらかじめ諒解せしめあり、しかれども表向はどこまでも対等とし自尊心を傷つけざるよう計らいたるものなり
東条の発言からは、大東亜地域の諸民族を「嬰児」というように家族主義的な観点から捉えていたことがわかる。
東条は家父長的な階層秩序を志向し、独立は「東亜の解放」の成果と本心では考えていない。
小国であっても、形式上は対等の立場をとったのは、自尊心を持たせて抱き込み、日本に協力させる外交上の方策にすぎなかった。・・・
⇒例えば、デジタル大辞典では、子供は、「1 年のいかない幼い者。児童。小児。わらべ。わらんべ。また、多くの子。子ら。「幼稚園の子供」⇔大人。2 親がもうけた子。むすこやむすめ。・・・3 動物などの子、また、その幼いほう。・・・4 行動などが幼く、思慮が足りない者。・・・⇔大人。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%90%E4%BE%9B-503268
とあり、子供のウィキペディアは、このうちの1と2と4に基本的に絞り、2について「親子や権威を持つ人物(英語版)との相対的関係を表したり、氏族・民族または宗教内での関係を示す場合にも使われる。」、4について「思慮や行動などが幼く足りない者のことも指して使われる<場合>もあ<る>」としている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E4%BE%9B
ところですが、安達は、東條は、ビルマに関して、2の意味で嬰児・・子供の極限形・・という言葉を使ったと決めつけています。
しかし、そのためには、東條がビルマに対して日本が親である、的な発言を一方でしていることを示す必要があるところ、それを怠っています。
その上で、私自身も、東條は、2の意味で当時のビルマを嬰児と形容した、と見ているところ、当時から80年近く経ったビルマ(ミャンマー)の現在の政治(軍政)が依然としてまだ幼児レベルなのですから、嬰児と形容したのは当たっていたと言わざるをえますまい。(太田)
5月31日の御前会議で決定した「大東亜政略指導大綱」<(前出)>は、次の4つの重要な内容を定めている。
第一に、対支新政策をさらに進めて、重光が主張した汪兆銘政権と日華同盟条約を結び、汪兆銘政権に機をみて蒋介石国民政府との和平交渉を行わせる。
第二に、フィリピン独立の時期を早め、10月頃とする。
第三に、マラヤ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスといったマレー半島やインドネシアの地域を「帝国領土」とし、当分は軍政を継続し資源の供給地として開発、住民の民度に応じ政治に参与させる。
ただし、こうした方針は発表しない。
第四に、フィリピンの独立後に、各国の指導者を東京に集め大東亜会議を開催し戦争完遂の決意と大東亜共栄圏の確立を宣言する。
これらの決定は、政府。軍中央内での妥協の産物であり、重光による大東亜新政策は部分的に取り入れられたにすぎなかった。
この大東亜政略指導大綱を審議した大本営政府連絡会議は、なかなかまとまらず2回に及んだが、問題は以下の点だった。
一つ目の問題は、汪兆銘政権を通した蒋介石国民政府への和平工作についてだった。
蔵相、大東亜省、海軍が反対していた。
だが、東条の強い要望で決定したようだ。・・・
二つ目の問題は、フィリピン独立の時期だった。
海軍はフィリピンの親米エリートが対日協力政府を構成することに不満で、時期尚早と主張した。
東条は反論し、杉山元参謀総長も独立を早めることで治安がよくなると主張し、原案の時期を変更しないことになった。
三つ目の問題は、大東亜会議開催だった。
海軍と大東亜省は、会議開催が戦争の主導性堅持につながるのかと疑問を呈した。
これには重光が、あくまで独立国だけを招集する場として、独立をさせない民族の代表者による会議は、別に考えると提案し諒解を得た。
重光が独立国のみの会議を提案したのには、別の意図もあった。
重光は、会議で「大東亜会議の再宣言などでなく大東亜同盟を結成してはどうか」とも発言している・・・。
満州国、中国、フィリピン、ビルマと形式上、平等・対等の同盟条約を提案したようである。・・・
しかし、会議で参謀次長の秦彦三郎<(注43)>が、ビルマやフィリピンを中国、満州と対等に扱うことは中国と満州国が満足しない、同盟は日本と個々に結ぶべきと発言し、出席者一同はこの次長の意見に同意し重光の提案は通らなかった。」(134~138)
(注43)1890~1959年。陸士24期、陸大31期。「1922年、歩兵大尉となり参謀本部員(ロシア班)となり、翌年、関東軍の満州里機関長となる。1926年、ソ連大使館附武官補佐官となり、翌年、歩兵少佐となる。
1930年、ポーランド公使館附武官、ラトビア公使館附武官となる。1931年、歩兵中佐となる。1932年、ルーマニア公使館附武官となる。1933年、参本ロシア班長、翌年、ソ連大使館附武官となる。1936年、歩兵大佐(新聞班長)となる。
1938年、関東軍司附(ハルピン特務機関長)となり、翌年、陸軍少将となる。1940年、 関東軍参謀副長となり、1941年、関東軍参謀副長(兼秦機関長)となり陸軍中将となる。1942年10月に第34師団長、1943年4月に参謀次長・大本営兵站総監となり、戦局不利な状況の中で作戦指導にあたる。1944年3月から8月までは陸軍大学校校長も兼職した。1945年4月7日、敗戦濃厚の中、関東軍総参謀長となる。同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍が満州と朝鮮に侵攻し・・・<てき>た。
1945年12月2日、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があったが、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1956年12月26日に復員。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%BD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E
(続く)