太田述正コラム#13385(2023.3.27)
<皆さんとディスカッション(続x5485)>

<TDZMc/7M>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 「戦争が始まれば、自衛隊は「アメリカ軍の言いなり」で戦う…そのとき「日本だけ」がさらされる「圧倒的なリスク」・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/60858b3c41fb6b2fdf12e5e7b7a9c9784507dae1
 太田さんが70年代に策定した共同作戦計画ってこれの事ですか?↓

 「1978年、日米両政府は初めて「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」を策定し、米軍と自衛隊の共同作戦計画の研究が公式にスタートします。
「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)の策定過程で、日米間で最後までもめたのは「指揮権」の問題でした。
 アメリカ側は、共同作戦を行う場合は米軍が指揮権を握ることを強く主張しました。それに対して日本側は、自衛隊が米軍の指揮下に入ることはできないと抵抗したのです。
 指揮権に関する日米協議の内実については、当時、統合幕僚会議事務局の幕僚としてガイドラインの交渉を担当した石津節正氏が明らかにしています。
 アメリカ側は当初、共同作戦の指揮は米軍がとるのが当然という姿勢で一歩も引かなかったといいます。
 「だって、NATO(北大西洋条約機構)だってそうでしょう。例外はないんですよ。最初からスタートしたときから米側は共同作戦をやって、
 統合部隊をつくったときは『トップは米だ』という常識で動いているわけです。『それは待て』と、日本の実情をいろいろ話して(以下略)」」(防衛省防衛研究所『オーラル・ヒストリー冷戦期の防衛力整備と同盟政策3』)

⇒「ガイドライン」そのものが策定された1978年は、私が1976年にスタンフォード大留学から帰ってまだ当時の人事第一課にいた時であり、その翌年、当時の防衛課に移った時も、私は最初は海上自衛隊担当であり、それを1年務めた後、同じ課内で総括・政策班長になった時に、日米指揮調整所を設けて双方が調整しつつ共同作戦を実施するという内容の日本有事の(最初の)日米共同作戦(OPLAN-5098)(注)案が私の所に当時の統合幕僚会議から上ってきたんだな。

 (注)「作戦計画には米軍による数字のコードネームが付与され、アジア地域は「5000」番台としている。」
https://www.nishinippon.co.jp/wordbox/9609/

 でも、この日米共同作戦計画5098って、どういうわけか、そういうものとしてはネット上に出てこないんで、私がナンバーを記憶違いしてるのかも・・。
 (ちなみに、私が防衛課を去った後に策定されたところの、最初の朝鮮半島有事の日米共同作戦計画・・これは日本政府の米軍支援について書かれたものであり、当然、自衛隊の実働部隊は関与しないことになっている・・は、別物だ。)
 なお、前にも書いたことがある(コラム#省略)が、日本有事の共同作戦計画は、既に日本に駐留している米軍部隊や米本土からやってくる米軍部隊が日本のどこにどのように配置されるかまでしか書いてなくて、いわゆる「作戦」的なことは全く出てこない。
 (また、これも既に書いたことがあるかもしれないが、)もう一点、作戦調整所は設けるけれど、それは原則トップレベルの話であり、下のレベルでは、大部分の場合、客観的状況に応じ、ほぼ自動的に日米どちらの部隊指揮官が全体を指揮するかが決まり、自衛隊の指揮官が米軍を指揮する場合もありうる。(太田)

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 なし。

 ウクライナ問題。↓

 <イワンの馬鹿。↓>
 「“軟禁”女子大生がロシアを脱出していた!・・・
 実は家を出たときは追跡装置を外していなかったんです。家からかなり離れてから外しました。追跡装置の中に居場所を追跡するGPSが搭載されていると思っている人が多いですが、それは嘘です。自宅には機械がおいてあってその機械から200メートル離れると私が自宅を出たという信号が当局に送られますが、私がどこに向かったのか追跡することはできません。追跡装置は頻繁に誤作動することもあって当局が私の家に来たのは翌日でした・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b488a2544a1b4e9f914be90dc09337e4d4d0871a

それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 ひょっとして日米間に戦争があったことも忘れている?
 アメちゃん、国際音痴だけじゃなく、歴史音痴でもあったのね。↓

 「・・・サンフランシスコ市側は現在、どんな認識なのか。市の公式サイトを調べると、不思議な状況が確認された。姉妹都市提携を結ぶ世界19都市が表示されているが、その一つに大阪市が紹介されている。しかもリストの1番目に挙げられ、最も古い関係だと示されている。サイト上では関係を解消したことにはなっていないようだ。  見解を聞くために毎日新聞は担当者にメールで質問した。すると、こんな返答があった。「このプログラム(姉妹都市提携)を通じて市民間のつながりを育みながら、文化的、教育的、経済的なつながりを築いて橋渡しすることを続けている。今後も市民間の友好関係を支援することに取り組んでいく」  大阪市との関係について具体的な回答は得られなかったが、姉妹都市の解消について両市で認識に差が生じている可能性が高い。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/83ee6de404cf3e9291c68db0391fcf614a94843b

 多分、和辻自身が、解答、分かっていなかったのではないか、と、現時点では見ているが、そうだとして、よくもまあこんな出題をしたもんだ。↓

 「・・・1941年10月、大学生の修業年限の「3ヵ月短縮」が決まった。翌年3月に卒業予定だった学生たちは、この年12月に卒業し、早々と徴兵検査を受けることになったのである。  
 12月8日の真珠湾攻撃の数日後には、東京帝国大学文学部でも「繰り上げ卒業」のための試験が行われたが、倫理学教授の和辻哲郎が黒板に書いた出題は「大東亜戦争の世界史的意義について」だった。その瞬間、学生たちのあいだから「ワァーという歓声」があがったという。英米との開戦に感激した学生たちが、この時局にあった出題に「盛り上がった」のだろうか。どうもそうではないらしい。  
 〈和辻に師事したことのある市倉宏祐によると、「ワァーという歓声」は「授業とは関係のない出題であったので、ノートが十分でなかった学生たちを喜ばせた」というあたりが真相だという。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4032bbaef4d426e6a68691ed960e4ebc2455e667

 こんな家康のせいで、世界への人間主義の普及が遅れに遅れて現在に至っているってワケ。↓

 「・・・家康は実は案外、剣が上手、剣の達人だったという話があって、なかなか腕前がよかった。それから彼が亡くなるまで一生の楽しみにしていたのが鷹狩り。鷹狩りで体力をつけるという、現代でいえばスポーツの概念が、彼にはあったのですね。  
 そこらへんまではいいのですが、家康は馬術の練習もとても大切にしていました。なんで熱心に乗馬をやっていたかというと、戦場で瀕死の重傷を負ったときに、愛馬と心を通わせていると、馬が「ご主人様が危ない」と察知して自発的に逃げてくれるのだそうです。要するに乗馬の技術を磨いておくと、いざ戦いに負けたときに効力があって「ふつうなら討ち取られるところを逃げられる」という大きなメリットがあった。だから家康は日ごろから乗馬を好んだそうです。  
 もうひとつ、これも家康が死ぬまで鍛錬していたのが水泳です。歳をとっても欠かさず水泳の訓練を行っていた。なんで水泳かというと、これもやはり逃げるため。戦いに負けて自分ひとりで逃げるとき、川を渡ることができるかどうかが生死をわかつ。水泳ができないと逃げきれない可能性も高くなるわけです。だからともかく水泳をやった。  
 つまり馬術も水泳も、すべて逃げることを前提にして訓練しているのですね。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/33bfc7ec8e72cd76875d75cffa1a4d3505ee7f8d

 3年前の記事がどういうわけか、再アップされていたので紹介。
 前から指摘してきたように、信長は、日蓮主義に基づき、天下統一、大陸出兵、という大義を心に秘めていたところ、そのことをどの程度、部下や味方に明かしていたのかは分からないけれど、いずれにせよ、大義音痴の武家が存在するなんてことは彼の理解を超えてたんだと思うな。↓
 
 「織田信長が味方の裏切りを頑なに信じなかった驚きの理由とは・・・
 味方を疑わないというより、彼は他人の情緒を理解するのが苦手だったのではないか。・・・」
https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20191202-nobunaga12

 ナニ、大した家系じゃあないよ。↓

 「・・・氏真と早川殿(糸)・・・の間には、この苦難を乗り越えた後に嫡男範以(のりもち)が誕生します。実は、この範以の系譜がすごいんですよ。今川義元の母は武田信虎(信玄の父)の娘ですから、範以は、武田家、今川家、北条家の血を引いているということになるわけです。・・・
 そして、範以の娘が吉良家の嫡男義弥(よしみつ)に嫁ぎます。義弥の母は氏真の娘ですから、ふたりはいとこ同士になるのですが、義弥の孫が赤穂事件で知られる吉良上野介義央なんです。・・・
 しかも吉良家というのは足利一門の名門中の名門。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%A1%E6%B5%81%E8%BB%A2-%E6%B0%8F%E7%9C%9F%E6%AD%A3%E5%AE%A4-%E7%B3%B8-%E3%82%92%E8%A5%B2%E3%81%A3%E3%81%9F-%EF%BD%97%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87-%E5%AD%90%E5%AD%AB%E3%81%8C%E5%90%89%E8%89%AF%E4%B8%8A%E9%87%8E%E4%BB%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%90%8D%E9%96%80%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%A7%AB%E6%A7%98-%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AE%B6%E5%BA%B7-%E6%BA%80%E5%96%AB%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88-%E7%A7%98%E8%A9%B1%E7%99%BA%E4%BF%A1%E7%B7%A8/ar-AA195O8U?ocid=msedgntp&cvid=b52b76cf40cb4433a99669e12d7f03f2&ei=35

高力、天野? は知らんかったわ。
 でも、「どちへん無し」は聞いたことあるな。↓

 「・・・永禄7年(1564)、三河一向一揆を収拾した家康は、念願の東三河制圧に成功した。東三河の家老には酒井忠次(さかいただつぐ)を置き、西三河のトップに石川数正(いしかわかずまさ)を据えた。その翌年には、三河領内の民政や訴訟を担当する3奉行を設置した。この3奉行には、本多重次(ほんだしげつぐ/1529~96)・高力清長(こうりききよなが/1530~1608)・天野康景(あまのやすかげ/1537~1613)が起用された。いずれも松平一族ではなく、家康家臣団からの抜擢であった。  
3人の世評は「仏・高力、鬼・作左、どちへん無しの天野三兵」と謳(うた)われるほどの称賛を受けた。  
 本多作左右衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)は、三河生まれ。7歳の時から家康の祖父・清康(きよやす)に仕え、次いで父・広忠(ひろただ)、家康と3代に渡って仕えてきた。三河一向一揆では、家康側に付いて戦った。剛直・果敢の人柄でその名前から「鬼作左(おにさくざ)」と評された。3奉行となってからも、短気ではあるが私心がなく決断力に富み、誰にも同じように対処したので家康からも領民からも信頼された。  
天野康景も三河生まれ。家康が駿府・今川氏の人質として赴く際に小姓として仕えている。三河一向一揆でも、自らの一向宗を捨て家康側について一揆鎮圧に当たった。公平無私の人物であったところから「どちへん無し」と言われた。「どちへん」とは「彼是偏」と書く。偏りがない、という意味らしい。天野の民政は、寛大で思慮に富んでいたという。ただし、その後の出世はかなり遅く、関ヶ原合戦(1600)の後にやっと駿河・興国寺城主1万石となった。  
 高力清長も三河生まれ。6歳の時に父を失い、以後は叔父に育てられた。「仏・高力」と呼ばれたのは、家康側として戦った三河一向一揆の際に、寺が所持していた仏像や経典・経巻を保護して、和議の後に赦免された者たちにそれを変換してやったことから「仏」の高力、ということになったらしい。だが、3奉行に任じられてからも、温厚で慈悲深く、その異名「仏」通りの民政を行って民衆の支持を集めた。豊臣秀吉からも人柄を愛されて、一時は「豊臣」姓を与えられ、従5位下河内守に叙任されている。家康の関東入国後は、武藏国・岩槻(いわつき)城主となったが、浦和郷1万石の年貢を1石も自分のものに納めず、すべて江戸に送るという実直さでも知られる。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/3ffe35cbedbef7128b991001860a85f09bdc5ff3

 日・文カルト問題。↓

 <文カルト健在?↓>
 「韓国野党議員、日本に「安重根の遺体はどうしたのか、反省しているなら発掘に協力すべき」・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/03/27/2023032780025.html
https://japanese.joins.com/JArticle/302502
 <同じく。↓>
 「韓国憲法裁判官候補者「強制徴用、被害者の意思が最も重要」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302487
 <こういう日本の引き合いに出し方は許す。↓>
 「尹大統領「核武装、日本は6ヵ月でできるそうだが」・・・」
https://www.donga.com/jp/home/article/all/20230327/4047475/1
 <こういったストーキングは可。↓>
 「・・・ 日本の写真週刊誌FLASH(フラッシュ)は2018年5月1日、「大谷翔平『通勤カー』はたった200万円の韓国製セダン」という見出しの記事を掲載した。同誌はロサンゼルス・エンゼルス入団後、大谷の年俸は10年総額で数百億円になると言われているのにもかかわらず、「大谷の“ふだん”は変わらない」と伝えた。そして、大谷が高級車ではなく200万円ほどの現代自動車製セダン(ソナタ)に乗っている、と紹介した。当時撮影された写真には、大谷がソナタの助手席に乗り降りする姿が写っている。
 これは、大谷が直接リクエストして球団側から提供された車だという。この報道によると、当時の球団関係者は「もっといい車を」と提案したそうだが、大谷はこれを断ったとのことだ。大谷は2019年に運転免許を取るまでこの車を使っていたという。当時は免許がなかったため、運転は日本人通訳が担当し、大谷はいつも助手席に座っていた。その理由は、「後部座席でエラそうにするのがイヤだから」だという。
 このようなエピソードを知った韓国のコミュニティー・サイトのネットユーザーたちは「質素でもあるなんて、短所がない」「年俸が高額なのにぜいたくをしない姿がカッコいい」「大谷にとっては『外車』を選んだのだから、本人なりにぜいたくをしたと思ったのかもしれない」「『みえ』がなさそうなので、見ていて気持ちがいい」などのコメントを寄せている。
 一方、2018年にこの記事を読んだ日本のネットユーザーたちは当時、同国のコミュニティー・サイトに「私ならもっと高い車に乗る」「いくら新人だとは言え、意外な選択だ」「大谷は車のロゴの『H』を見てホンダだと思ったのではないか」「大リーグに行ってもぜいたくをしない姿がカッコいい」などのコメントを書き込んだ。「体格が大きいから韓国人かなと思っていたが、やっぱり」と冗談を言うネットユーザーもいた。
 免許を取得した後の大谷はテスラのモデルXを使っていたという。現在はポルシェとスポンサー契約を結び、ポルシェの車を利用している。・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/03/27/2023032780017.html
 「・・・「月の収入は両親から渡される小遣いの10万円だけ」とし「それもほとんど使わず貯金している」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302485
 <単なるストーキング。↓>
 「WBC優勝が決まった瞬間、帽子を放り投げて歓呼する大谷翔平・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302499
 <大袈裟な。しばらく前の日韓関係に戻りつつあるだけやろー。↓>
 「対日協力はグローバル外交の出発点・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302501
 <健闘を祈る。↓>
 「大韓航空の羽田―仁川深夜便が再開 若い日本人客の利用に期待・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20230327001300882?section=japan-relationship/index

 いや、世界史とは、人間主義の毀損と回復の歴史でっせ。↓

 「・・・世界史とは、戦争の歴史です・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/611fa9a8e32b24a1969e4c945b82b1e2fde8547c

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓ 

 <中央日報より。
 岸カルトに対し、日本もスパイ防止法を制定するよう、習ちゃんが圧力をかけてる、とも言えるな。↓>
 「「スパイ容疑の可能性」…日本大手製薬会社の幹部、中国で拘束・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/302488
 <英語媒体より。
 中身ねーぞー。↓>
 How China Keeps Putting Off Its ‘Lehman Moment’・・・
https://www.nytimes.com/2023/03/26/opinion/china-finance-banking-evergrande-crisis.html
 <ここからは、レコードチャイナより。
 鄧小平、色々やったのねえ。↓>
 「・・・囲碁の歴史は古く、中国で生まれたのは3000年以上も前の事とか。また日中囲碁交流の歴史も古く、古くは遣唐使の時代から、近代に於いても国交回復前から交流は盛んで、国交回復時「ピンポン外交が実った」と多く言われましたが、囲碁外交も大きな役割を果たしました。
 私が読売新聞社主催の囲碁訪中団に加わらせて頂いたのは1981年6月の事。当時19歳、六段だった私は、大変大きな刺激を受けたし、後に10回程訪中の機会は有りましたが、この時の思い出は強く鮮明に残っています。・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911352-s10-c60-d0052.html
 <ご心配なこっで。↓>
 「日本企業にとっての中国がもたらす「向心力」と「離心力」とは―北京のシンクタンクが分析・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911415-s25-c20-d0198.html
 <人間主義化度は、まだまだ、台湾>中共。↓>
 「日本でバス遅延に立腹した中国人女性らが運転手を取り囲む? かばった台湾人男性にも矛先・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b911338-s25-c30-d0052.html

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太田述正コラム#13386(2023.3.27)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その17)>

→非公開