太田述正コラム#1805(2007.6.12)
<名誉革命(その4)>(2007.12.8公開)
しかし、なまじ、北米植民地サイドからの英国王に対する一方的期待が高まってしまっただけに、本国の議会が、「非道理にも」北米駐留軍経費を賄うために植民地に税金をかけてきた際に、英国王が自分たちを守ってくれないことを知った時の怒りは大きなものとなったのです。
そして、米独立革命が始まった頃から、北米植民地の人々は、本国議会の至上権(supremacy)ならぬ、植民地議会(複数)の至上権を主張するようになりました。ただし、それは、本国におけるように、議会主権を意味するものではありませんでした。
英本国では、crown-in-parliamentに主権が存したけれど、北米植民地の人々は、自分達人民に主権が存すると考えたのです。
名誉革命は、英領北米植民地において、このような考え方を生んだわけです。
オ 名誉革命はオランダを衰亡に導いた
1689年9月9日、ウィリアム3世は、英国王として、対仏アウグスブルグ同盟(League of Augsburg)にイギリスを加盟させました。
このことにより、対仏戦争上、オランダの立場は極めて強固なものとなりました。
しかし、このことが、ウィリアムをして、フランスに対して非妥協的な姿勢をとらせることになります。
こうして、カネを湯水のように使った大戦役が繰り返し行われることになり、その費用はほとんどオランダがまかなったことから、1712年にはオランダ共和国は財政破綻を起こしてしまいます。
また、ウィリアム3世が、すべての英蘭連合艦隊を英国人の司令官の下に置くこととし、しかもオランダ海軍の規模を英海軍の規模の60%に押さえることとしたため、オランダ海軍は弱体化してしまいます。
このような財政力と海軍力の弱体化の結果、オランダは国際政治から退き、英国が世界一の海上パワーとなるのです。
オランダ経済も、国家債務の累積と高い課税水準により疲弊した上に、欧州の他の国々の保護主義的政策によっても大きな打撃を被ります。
もう一つ悪いことには、1688年に成立した英蘭同君連合の下、オランダの主要商会や銀行が、そのほとんどの活動をアムステルダムからロンドンに移してしまいます。
この結果、1688年から1720年にかけて、世界の商業覇権が、オランダから英国に移ってしまったのです。
トドメを刺したのは、米独立革命が起こった時に、オランダが叛乱軍に味方したことです。反発した英国との間で、第4次英蘭戦争(1780~84年)(注3)が起き、これに敗れてオランダは完全に衰亡するのです。
(注3)第1次英蘭戦争(1652~54年)は引き分けに終わった。第2次英蘭戦争(1665~67年)はオランダ優勢のうちに終わり、その結果オランダの海軍力は世界一となり、オランダは繁栄の絶頂期を迎えた。第3次英蘭戦争(1672~74年)の実態は、ルイ14世のフランスとチャールス2世のイギリス対オランダの戦いだったが、オランダ優勢のうちに終わった。
それからのオランダの運命は無惨でした。
フランス革命が起きると、やがてナポレオンによってオランダはフランスの保護国に転落し、オランダの植民地は、すべて英国の管理下に入り、オランダ国旗が翻っているのはオランダ本国外では、長崎の出島だけになってしまうのです。
(以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Dutch_Wars
(6月12日アクセス)も参照した。)
(完)
名誉革命(その4)
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