太田述正コラム#13212(2022.12.31)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その28)>(2023.3.28公開)

 「・・・タイは大東亜会議に首相のピブーン<(注45)>が出席しなかった。」(157)

 (注45)プレーク・ピブーンソンクラーム(Plaek Phibunsongkhram。1897~1964年)。「バンコク近郊のノンタブリー県で農業を営んでいた林姓の華人・キートとタイ人の妻・サームアンの間に二男としてに生まれる。生まれたときに耳の付き具合がおかしかったため、プレーク(おかしな)と名付けられた、その家族にはまだタイ語の名字がなかった。
 1913年ラーマ6世により名字令が発布されたため、林家もタイ語の名前、キータサンカを名乗るようになり、プレーク・キータサンカ(・・・ Pleak Khittasangkha)となった。プレークは少年時代、チュラチョームクラオ陸軍士官学校に学び、1915年に60人中12番目の成績で卒業する。
 1921年参謀学校に入学し、首席で卒業した。また、首席卒業が称えられルワンという官位と、ピブーンソンクラームという欽錫名が与えられ、陸軍少将に配属された。(ちなみに後にピブーンソンクラーム男爵の呼称は国王に返上した。)この後プレークを名前とし、ピブーンソンクラームを名字として正式名称とした。
 首席で卒業した特典として1924年5月(26歳)からフランスへ3年間・・・留学<し、>・・・近代的民主主義思想に触れ、・・・帰国した。
 帰国後、ピブーンソンクラームは人民党に入党し1932年に立憲革命を起こした。この後、第1~3代目首相をつとめたマノーパコーンニティターダー伯の元で閣僚をつとめ・・・た。・・・
 1938年12月15日、そのときの首相パホンポンパユハセーナー伯の不信任に伴い・・・陸海軍の支持を受け12月20日ピブーンソンクラームは首相に就任した。・・・翌年1月21日、王族・官僚・民選議員・・・合わせて51名を逮捕し、うち18名を処刑、その他は国外退去命令や王族籍の剥奪を被った。
 その後、ラッタニヨムと呼ばれる一種の愛国主義政策を次々と発表。国名の変更(サヤームからタイへ)や、服装制限、タイ文字の改変など各種の政策を実施した。これは華人をタイ人化させる一種の同化政策、あるいは国民統制の性格を持っていた。これと平行してピブーンソンクラームは華語学校をすべて閉鎖させ、華語新聞も『中原報』のみとし、たばこ産業の独占化(タイ・タバコ専売公社 (TTM) の成立)、燕の巣(燕窩)の採掘ライセンスの保留、食品商やタクシー・ドライバーの外国人締め出しなど、強攻策を行い華人を閉め出した。その一方で華人への帰化自体は許可していたことからこれは華人の同化を促進した。
 対王族政策では、王室財産局を設置し、王室・王族の財産を制限しようとした。この政策は一時的に効力を上げたが、実際には後々、タイ経済の発展に伴い財閥化し、タイ最大の企業グループとなった。
 第二次世界大戦勃発後の1940年6月12日に、ピブーンソンクラームはフランス – タイ、日本 – タイで同じ日に相互不可侵条約を締結し、中立政策を吹聴した。しかしドイツがフランスを占領するとピブーンソンクラームはこれをすぐに翻し、同年9月10日、フランスと対仏国境紛争を開始した。三日後インドシナ半島の一部の割譲をフランスに要求することで事態を打開しようとしたがしかしフランスがこれを拒否したため、紛争は翌年までもつれ込んだ。1941年日本がこの仲介に入り、5月9日には東京条約が締結され、フランスがタイに旧タイ領の4県を返還することで同意した。同年7月28日この功績によりピブーンソンクラームは元帥に昇格し、以降は中立政策を吹聴したが、10月に日本とタイが両国の公使館を大使館に格上げしていることなどから、以降は日本寄りになっていったと考えることが出来る。
 ・・・<しかし、日本の対英米>開戦直前1941年11月にもピブーン首相<は>英国の駐タイ公使に「タイが侵略を受けたら英米が対日宣戦を布告する、と英米が共同で声明するように要請し、あるいは英国の単独声明でもいいと訴え<ている>。
 1941年12月頃、ピブーンソンクラームは太平洋戦争勃発による危機感から、国民総動員体制を導入。同5日と7日には日本の坪上貞二大使が日本軍のタイ通過を求めてピブーンソンクラームを訪れたがバンコクには不在であった。これは・・・、日本・・・に便宜を図って<英国>の恨みを買うのを恐れたためである。結果、同8日には日本は強引にタイ領通過をもとめて日本軍をタイ領に侵攻させた。・・・各地で文民・軍人を問わず抵抗運動が起きタイ側は183人が死亡、日本側は141人が死亡した。ピブーンソンクラームは同11日には日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定を承認し<、>・・・タイ<は>事実上、日本の占領下に置<かれることになった>。・・・
 <その後>、ピブーンソンクラームは・・・態度が一変する。この協定では・・・、機密事項として日本はタイの失地回復に協力するとしていたからである。ピブーンソンクラームは、・・・1942年1月8日に<英>軍が首都・バンコクを爆撃したのを機に25日、・・・中立政策を完全に翻し英国、米国に宣戦布告。タイは枢軸国となった。・・・
 日本は日本国内の慢性的な食糧不足を改善するために、タイ米を日本に送ろうとし、バーツを円と等価に切り下げた。またタイ政府から大量の軍費を借り入れ、それを、戦時で物流の乏しかったタイの市場で大量に消費したが、これはタイ国内で大きなインフレを生じ、農村経済に打撃を与えた。同盟国であったため泰緬鉄道の建設現場以外ではあからさまな虐待が行われなかったものの、店の商品をくすねたりと言うようなことも行われ、官吏・一般人を問わず素行の悪い一部の者により、日本は大いに評判を下げていた。現在、タイにある日本人にたいする蔑称(ユンピー「ニポ公」やアイティア「ちび」)もこのころ生まれたと考えられている。
 1943年2月13日<、日本の>敗戦の色が濃くなってきたため、ピブーンソンクラームは辞表をラーマ8世(アーナンタ・マヒドン)に提出する<が、>2日後気を取り直して辞表を撤回する・・・。
 1943年・・・7月4日には東條英機がマレーの4州とビルマ(ミャンマー)のモンパン州、ケントン州を手みやげにピブーンソンクラームを訪れたが、ピブーンソンクラームはあまり興味を示さず、大東亜会議には日本から要求されたものの病気であると称してラーマ4世(モンクット)の孫であるワンワイタヤーコーン親王を代理として派遣するに留まった。
 翌<1944>年7月22日、これまでのピブーンソンクラームの独裁ぶりに反感を持つ者のたまり場と化していた人民代表院によって・・・不信任案を突きつけた。ピブーンソンクラームは2日後自ら辞表を提出し、首相を退いた。・・・
 <戦後、>自由タイ系の不安定な政府が、インドシナ共産化の危機を感じていないことに対する危機感が軍部内部で高まり、ピブーンソンクラームは軍部から政変団(・・・National Soldier’s Committee)と呼ばれる組織を作り、1947年11月8日、・・・「仏暦2490年のタイ・クーデター」・・・を起こし、・・・クアン・アパイウォン<を>新たに首相に就<け>た。・・・
 翌年、ピブーンソンクラームは軍部を使ってクアン・アパイウォンに圧力をかけ、・・・退陣させ<、首相になっ>た。これをピブーンの返り咲きという。・・・
 1957年9月16日・・・<彼の政権打倒の>革命が行われるとピブーンソンクラームは・・・カンボジアへ亡命。その後、・・・日本へ移り住み東京で亡命生活を送っていたが、後にインドへ渡りブッダガヤへ行き出家する。還俗後、神奈川県相模原市で一生を終えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0

⇒ピブーンは、純タイ人ではなく漢人系であったことから、王制の廃止やその英国並の象徴化にまでは踏み込めなかったと考えられ、また、軍人出身で軍の支持のおかげで二度にわたって権力の座に就いたことから、王室と軍の近代化を徹底できなかったと思われ、そのことが、彼の退出後のタイの政治の発育不全状態を決定づけたのではないでしょうか。
 そこに、戦前、戦後の日本と首相時代のピブーンとの関係がどのような影響を与えたのか、も含め、いつか機会があれば掘り下げてみたいですね。(太田)

(続く)