太田述正コラム#13216(2023.1.2)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その30)>(2023.3.30公開)
「・・・<1943年>9月末、東京を訪問したラウレル一行らに日本は連合国に対するフィリピンの参戦を提示していた。
だが、ラウレルらは政治力量不足と国民の親米感情を挙げ強く抵抗した。
日本が提案した日比同盟条約については、大東亜戦争完遂のための協力の条文を大東亜建設のための協力へと修正を受け入れなかったが、附属了解事項で即時対米参戦とならない内容に譲歩し、ビルマとの同様の条約と比較すると、軍事協力に消極的なフィリピンに配慮した内容となった。
日比同盟条約<(注47)>は、独立の同日に締結されたが、即時の対米参戦は見送られ、フィリピンが実際に参戦するのは、独立から約1年後、米軍がマニラ攻撃を始めた後の1944年9月だった。・・・
(注47)Treaty of Alliance between Japan and the Philippines。「1943年10月14日にマニラにおいて在フィリピン特命全権大使・村田省蔵と国務大臣・レクトの間で調印され、同年同月20日に公布された。同条約においては、日本がフィリピンの「独立」を承認することが明記されるとともに、相互の主権尊重、両国間の政治・経済・軍事における協力、両国間の「大東亜建設」のための協力などが謳われた。」
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/term/00000614
日本の<蘭領東インド>占領後、日本軍は統治にあたって、民衆に大きな影響力を持つスカルノやハッタの協力を得るために、<投獄されていた>彼らを救出してジャカルタに連れ戻した。
彼らは対日協力することで、インドネシア独立に向けての政治的譲歩を日本から獲得することを考え、1943年3月に民衆総力結集運動(プートラ)<(注48)>を発足させる。
(注48)「日本軍は3年半にわたって軍政をしき,〈大東亜戦争〉完遂のために,短期間のうちに大量の各種資源,農産物などの戦争用物資と戦時労働力の調達を図る一方,兵補・義勇軍のような軍事組織<(後出)>,隣組・警防団のような民間組織を通じて軍事技術と闘争精神の注入を図った。また,軍政下で組織されたプートラ(民族総力結集運動。1943年3月より開始),ジャワ奉公会(プートラに代わって1944年3月に組織)のような大衆運動,イスラム教徒の組織化(マシュミ,ミヤイなど)は,官製のものであったが,民族独立の希求を広く社会の全般にわたって高めていくことになった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9-1406665
スカルノらは、民族結集の強化と組織化のため、日本への食糧供出や労務動員に積極的に協力した。1943年10月に日本軍は、スカルノらの支持を得ながら手薄な防衛力を補う補助軍隊としてジャワ防衛義勇軍(ペタ)<(注49)>を編成した。
(注49)PETA(Tentara Pembela Tanah Air)。「1943年10月、日本軍政下におかれた東インド(現在のインドネシア)のジャワで、民族軍として結成された軍事組織である。・・・
その編成の中心メンバー「助教」となったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランにあった、1942年の末から設立されていた「青年道場」(インドネシア特殊要員養成隊、隊長:柳川宗成中尉)のインドネシア人青年たちだった。「青年道場」に入る資格は、愛国心と宗教(イスラム教)心があることと、中学校を卒業したインドネシア人であることであった。この青年道場は日本の中野学校出身の情報士官らによって設立された機関で、インドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた。・・・
同様の組織は、バリ郷土防衛義勇軍(1944年6月には3大団、約1600名)、ラスカル・ラヤット(スマトラ義勇軍)、マライ義勇軍(1944年1月結成)など、占領各地に創設された。・・・
各地の大団を統括する上部機関が置かれなかったため、独立戦争期とそれ以降を通じて、各地に成立した地方軍はその独自色が強く、それぞれが地方軍閥化していく素地をもっていた。こうした地方軍の再編成と合理化は、独立後のインドネシア政治に大きな政治問題として残されることになった。・・・
軍政当局はガトット・マンクプラジャ(元インドネシア国民党)ら民族主義運動のリーダーや、イスラーム指導者のラデン・ワリ・アリ・ファタらに依頼して、民族軍設立の建白書を提出させた。軍政当局は、こうした現地住民からの要望にこたえるという形をとり、自らの主導によって住民の武装化をすすめるという体裁を避けた。・・・
日本の敗戦後、1945年8月19日付で解散されたが、この郷土防衛義勇軍出身のインドネシア人が、その後のオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)で、インドネシア側の武装勢力で中心的な役割を担った。・・・
義勇軍と士官学校を合併したような機関で、総勢3万8千人の将<兵>が養成された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%9C%9F%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%BE%A9%E5%8B%87%E8%BB%8D
柳川宗茂(やながわむねしげ。1914~1986年)。「陸軍大尉<。蘭印作戦当時は中尉>・・・1940年 陸軍中野学校卒業 1942年2月~3月 蘭印作戦に参加<。>・・・現地住民に変装してジャワ島の連合軍司令部に単身で乗り込み、ポールテン中将に降伏を迫る。・・・1943年1月 タンゲラン青年道場責任者<。>インドネシアの青年に軍事教育を施し、後のインドネシア独立戦争の中核要員を育てる<。> 1964年 家族と共にジャカルタに永住」
http://decision1971.starfree.jp/Jinbutsu/yanagawa.html
「青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった20歳前後の青年47名が第1期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。
訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、1日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。
訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。
青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。
実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。
ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、1人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。2人は1時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。
私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。…インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。
土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。」
https://www.mag2.com/p/news/192427/3
⇒「注49」の最後に紹介した回想から、岩畔豪雄は、中野学校を作った時、杉山構想の核心だけはスタッフや学生に開示したのではないか、という気がしてきました。
(土屋競も中野学校出身だったのか等については調べがつきませんでした。)
ペタ出身のスハルトは、大統領時代の2009年に、柳川や土屋に感謝しつつも、「私の実感では日本軍のインドネシア占領は「アジアの解放」ではなく日本自身のためだった。」と言っています
http://blog.livedoor.jp/iroiro_ocr/archives/44306.html
が、私は、柳川(ら)が謀略的にインドネシア独立を語ったのでは決してない、と信じています。(太田)
こうした対日協力を得ながらも、先述したように1943年5月の段階で、日本は資源が豊富なインドネシアの自国領への編入を決めていた。
そのため大東亜会議にはスカルノやハッタは招かれず、日程をずらして11月13日に日本に招待されていた。・・・
1944年9月、日本はインドネシアの自国領編入の方針を変更する。
小磯国昭内閣は帝国議会の施政方針演説で、「東インド民族永遠の福祉を確保するため将来その独立を認めんとす」と述べる・・・。」(202~203、210)
(続く)