太田述正コラム#13218(2023.1.3)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その31)>(2023.3.31公開)
「・・・日本の戦局と経済状況の悪化を背景に、東南アジア各地での抗日抵抗運動が次第に激しくなっていく。
フィリピンには、日本占領初期から2つの抵抗運動があった。
一つは、在極東米国陸軍の将兵による「ユサフェ・ゲリラ」<(注50)>と呼ばれた抗日活動だ。
(注50)アメリカ極東陸軍(U.S. Army Forces Far East,=USAFFE)。「コレヒドール要塞が陥落して降伏命令が発せられた後も、元<米>極東陸軍の兵士の中には、ユサッフェ・ゲリラを名乗って日本軍に対するゲリラ戦を継続する者があった。・・・
<米>軍もユサッフェ・ゲリラの活用を考え、潜水艦などで武器や通信機といった補給物資、連絡員を送り込み支援した。連合国軍のフィリピン反攻作戦の際には、<米>軍の正規部隊と連絡を取って共同作戦を展開し、掃討戦などで成果を上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E9%99%B8%E8%BB%8D
彼らはのちに連合国軍の支援下に置かれる。
もう一つは、タガログ語で抗日人民軍を意味する「フクバラハップ」<(注51)>と呼ばれるルソン島中部の共産党系抗日人民軍で、1942年3月から4月にかけて結成された。
(注51)フクバラハップ(Hukbalahap=抗日人民軍)。「1942年2月6日、日本軍占領下のフィリピンで、農民運動を母体にルソン島の山村でルイス・タルクをリーダーとして結成された。・・・
米軍とフクバラハップとの間には、かつて米極東軍ユサッフェ・ゲリラと地下で連絡を取り合って対日協力がなされ、対日作戦において両者には役割分担がなされるなど、極めて緊密な関係があった。
ところが<米国>は、「米軍によるフィリピン解放」の既成事実を作り戦後の米軍の権益を確保するため、また抗日ゲリラ活動に農地改革活動を結合していたフクバラハップの共産主義的性格を恐れたため、フクバラハップの武装解除および幹部の逮捕など、最終的にはフクバラハップの活動への弾圧を行った。この弾圧は、後の冷戦期に至るまで続くこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%97
ルイス・タルク(Luis Taruc。1913~2005年)。「マニラ大<中退。>・・・1946年、・・・独立を達成したフィリピン議会の議員に当選する<が、>選挙管理委員会より、他の5人の当選議員とともに、・・・選挙違反とテロ行為の理由で、当選を無効とされる。1947年に、フクバラ・ハップは、武装組織として再建され、ルイス・タルクも復帰する。フク団は、フィリピン政府との和平交渉はもたれたが、1948年7月から8月にかけてのキリノ政権との和平交渉は決裂、フク団は、1950年に『フィリピン人民解放軍』に改組、正規軍3万人後備隊25万人でルソン島中部を勢力地区とする勢いとなるが、1951年のマグサイサイ政権樹立以降、弱体化する。当時新聞記者であったベニグノ・アキノの4ヶ月もの説得活動の末、1954年5月17日、ルイス・タルクはフィリピン政府に投降する。ルイス・タルク自身は、反乱罪とテロ行為のため、懲役12年の判決を受ける。1968年9月に釈放される。その後、地域の農民運動に関わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%AF
⇒フクバラハップは、最初から米軍と微妙な関係にあったわけです。
’In his later year’s Taruc claimed to have never been a real communist, but rather always advocated Christian democratic socialism’、や、彼が漢人系ではない貧しい農家に生まれたこと、とも相俟って、興味深いものがあります。(太田)
彼らは、日本軍排除と地主制打倒を掲げ、土地改革を勧め農民の支持を得ながらルソン島中部を事実上、支配するまでに成長する。・・・
他方、英領マラヤでは、・・・1942年3月にマラヤ共産党<が>、山岳地帯やジャングルに弾圧を逃れた・・・華僑<の>・・・人々を組織化し、マラヤ人民抗日軍<(注52)>を設立する。
(注52)マラヤ人民抗日軍(Malayan People’s Anti-Japanese Army=MPAJA)。「1941年12月、日本軍がマレー半島に侵攻すると、英植民地政府は、チャンギー刑務所に収監していた約200人のマラヤ共産党員を解放し、英軍101特別訓練学校で約1週間ゲリラ戦の訓練を受けさせた後、日本軍の後方へ潜伏させた。彼らは、非共産系の一般中国系住民も糾合して、マラヤ人民抗日軍・・・に成長していった。
中国人、マレー人、インド人を表す三つ星のバッジを付けていたため、「三つ星軍」とも呼ばれた。
マレー半島の山中には、MPAJA以外に、少数の英軍野戦保安隊136部隊が潜伏しており、MPAJAを指導し、空輸によって兵器弾薬などの支援を行った。
終戦時には、MPAJAの勢力は、8個独立隊(大隊)約7,000名となっていたとされる。・・・
日本軍(第29軍)の統計によると、損害は将兵約600名、警官(多くはマレー人)約2,000名、抗日軍に与えた損害は約2,900名とされている。・・・
1945年8月に日本が無条件降伏し第2次世界大戦が終結した後、MPAJAは、英植民地政府およびその後を受けたマレーシア政府と対立、ゲリラ闘争を継続することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A4%E4%BA%BA%E6%B0%91%E6%8A%97%E6%97%A5%E8%BB%8D
これには、マレー人やインド系住民も一部参加した。
日本の占領初期、マラヤ人民抗日軍司令官の集会を日本軍は急襲し、指導者の大半を逮捕・処刑し、壊滅的な打撃を与えていた。
しかし、1943年半ば以降、各地で華僑の支持を得て勢力を伸ばし、日本の敗戦時には約1万人を擁していた。
彼らはジャングル内に基地を持ち、小規模な攻撃を行った<。>」(222~223)
⇒フクバラハップとは大違いで、マラヤ人民抗日軍は完全に英軍のお仕着せで発足、維持されたわけです。
英軍の大失敗と言えるでしょうね。(太田)
(続く)