太田述正コラム#13223(2023.1.5)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その33)>(2023.4.2公開)

 「・・・大東亜共栄圏の構想が本格的に浮上したのは、1940年4月、ヨーロッパ戦線でドイツが英仏蘭などに攻勢に出て、東南アジアが政治的に不安定になったためだ。
 国際情勢に乗じたためで、日本が主体的に動いたわけではない。

⇒「後れた資本主義の日本」(後出)が「主体的に」「国際情勢」を「動」かせるはずがないでしょう。
 私見では、日本の実質的な最高権力者達は、第一次世界大戦の後、再び欧米勢力が二つに割れた世界戦争が起きるであろうことを見込んで動き、この世界戦争が起きるとそれに乗じて更に動いたのです(コラム#省略)。(太田)

 <それは、>1937年7月に始まった日中戦争以後<の>場当たり的な日本の政策の一つだった。

⇒場当たり的な政策を取り続けたにもかかわらず、戦争目的がことごとく達成できた、などということはありえない、と、どうして私以外の人々は思わないのか、不思議でなりません。
 そもそも、戦争目的がことごとく達成できた、と、私以外の人々は誰も思わないのですから、何をかいわんや、ですが・・。(太田)

 1942年2月に大東亜建設審議会が設置され、具体的な構想の審議が始まったのも、41年12月の英米との開戦後であり泥縄の対応だった。・・・

⇒「1941年・・・12月12日の閣議において、「<12月8日に始まった>今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」が閣議決定された。この閣議決定の第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、支那事変(日中戦争)と「対米英戦争」を合わせた戦争呼称として「大東亜戦争」が公式に決定した。・・・同日内閣情報局は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、戦争目的はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89
のですから、泥縄の対応とは言えないでしょう。
 「具体的な構想の審議」は対米英戦劈頭の南方作戦の帰趨を踏まえたものでなければ絵に描いた餅なので、帰趨の見通しのついた翌年の2月に開始された、ということです。(太田)

 大東亜共栄圏の崩壊と日本の敗戦は、英米に経済依存しながら資本主義国家として成長する一方で、アジアで勢力圏を拡大し自立しようとしてきた日本が抱えた矛盾が、限界に達し破綻したと理解すべきだろう。
 後れた資本主義の日本が歩んだ帰結だった。

⇒日本がその経済(≒資本主義)を高度化することを自立と捉えるならば、当時、世界で最も高度な資本主義経済であった米国との関係をより緊密化する方法を採ることだってできたはずですし、その方が手っ取り早かったのではないでしょうか。
 日本は、あえて、やっかいな、大東亜共栄圏、と、その前提としてのアジアの欧米勢力からの解放、という「方法」を追求したのです。(太田)

 大東亜共栄圏構想が場当たり的だったことはすでに述べたが、構想を困難にしたのは日本の国家機構が分立的だったことにもよる。
 大日本帝国憲法下、主権者である天皇に多くの機関が直結し同等の権限を持っていた。
 こうした構造が総力戦を遂行する経済自給圏形成の障害となった。」(230、233)

⇒分立的とはいえ、実質的には、一、国務大臣の輔弼の管轄内のものでかつ議会が関与できるもの、二、国務大臣の輔弼の管轄内のものだが議会が関与できない外交大権、
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiWzqevhrD8AhWa0GEKHbfRA9IQFnoECAkQAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F32547%2Ffile_preview%2FHS%252061-163.pdf%3Fallow_aggs%3DFalse&usg=AOvVaw23zfUEXvocqCbiI8ns0WgY
三、国務大臣の輔弼の管轄外で議会も関与できない統帥権、の三分立に過ぎず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%A7%E6%A8%A9 ←全般
しかも、外交大権は、輔弼者たる外務大臣の実質的な任免権を内閣総理大臣が持っていて、その他の大臣の実質的な任免権も同様内閣総理大臣が持っていたことから、一と二の大権は内閣管轄内と言えるのであって、結局のところ、戦前の日本の国家機構は内閣と統帥部の二分立に過ぎなかった、と言っても過言ではありません。
 ですから、遅くとも日支戦争後の時点で、(対米英戦後に内閣総理大臣・陸軍大臣・参謀総長、と、海軍大臣・軍令部総長、の、それぞれの兼務によって一時期において事実上近似的に成就したところの、)内閣と統帥部の分立解消が図られてしかるべきであったにもかかわらず、そうならなかったのは、そもそも、統帥部が陸と海に分立していたからであり、その統合の機運がついに生じなかったからです。
 そこまで来ると、どうしてそうだったのか、更に、そもそものそもそも、どうして、統帥権が陸相と海相の管轄外とされたのか、が問われなければならないはずです。
 もちろん、これに答えようとした研究はそれなりにあるのだけれど、統帥権、就中、陸軍の統帥権、を、議会、ひいては世論、の影響から切り離すべく、維新後は事実上、そして、憲法制定後は厳格に、政府首班や陸軍卿/陸軍大臣の管轄外に置くところの制度設計を政府の事実上の最高権力者達が行ってきた、的な説(コラム#省略)を唱えているのもまた、私だけであることも不思議なことです。(太田)

(続く)