太田述正コラム#13225(2023.1.6)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その34)>(2023.4.3公開)
「・・・1960年代に入ると、50年代半ばからアジア各国との間で賠償・準賠償協定が成立し、経済開発や経済協力プランを、役務賠償<(注57)>プロジェクトとして、日本企業が東南アジアに進出する。・・・
(注57)「戦争などの賠償は一般に金銭または現物で支払われるが、賠償国にこのような形での支払い能力が不足している場合には、賠償請求国との合意のもとに、技術や労働力を提供する形をとることがある。このような技術や労働力の提供による賠償方式を役務賠償とよんでいる。技術提供による賠償方式には、技術者の派遣、沈没船の引揚げ、発電所や各種工場の建設にあたっての技術協力、学生・技術者の研修・教育などがある。また労働力提供による賠償方式には、労働者を賠償請求国に送り、その国の生産力に貢献させる場合(労務賠償)と、賠償請求国から受け取った原材料を加工して生産物を提供する場合(加工賠償)とがある。第二次世界大戦後はこのような役務賠償がかなりの比重を占めた。戦後<米国>を中心とする戦勝国は、敗戦国日本とドイツなどに対して役務賠償を非軍事化と実物賠償の範囲内で展開したが、具体的提示は不明確であった。被賠償国の自立の条件のなかで役務賠償がなされた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BD%B9%E5%8B%99%E8%B3%A0%E5%84%9F-444228
なお、役務賠償を受けた諸国も、受けなかった中華民国同様、日本の現地在外資産の提供による賠償を受けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%A3%9C%E5%84%9F
⇒日本の戦後賠償について、深堀りするのは、私の能力を超えるので控えます。(太田)
日本占領により甚大な被害を受けた東南アジア各地は、日本企業の活動再開に忌避感が強かったはずである。
しかし冷戦下、東南アジア各地はアメリカの影響下にあり、日本の再進出は可能だった。・・・
⇒説明になっていません。
「はず」とはこれいかに。
単に、東南アジア各地の政府や人々が、「日本企業の活動再開に忌避感」など抱いていなかった、で終わりのはずです。(太田)
戦後の冷戦、植民地の独立、イギリスの撤退とアメリカの覇権という戦後の東南アジアをめぐる新しい国際的枠組みが形成されるなかで、日本は盟主としてではなく、アメリカの「ジュニア・パートナー」・・・として、アメリカに次ぐ二番目の地位にあって、東南アジアへ進出していた。
つまり、戦前と戦後の日本と東南アジアを取り巻く国際環境が大きく変化し「断絶」したからこそ、戦前や大東亜共栄圏建設過程で得た人脈や現地情報を利用して、日本企業の再進出という「連続」が可能となったのだ。
⇒そうではなく、戦後において、戦前と「断絶」したところの、「冷戦、植民地の独立、イギリスの撤退とアメリカの覇権という・・・東南アジアをめぐる新しい国際的枠組みが形成される」ことをも目的として、杉山らは、(実質的には満州事変から始めた)大東亜戦争を戦い、予定通り、軍事的には敗北しつつ、この目的もまた全て達成したのであり、そのような戦後において、日本の、東南アジアへの再進出もそれが貢献したところの、経済高度成長、もまた想定通りのものだったのです。(太田)
戦後の国際環境の激変によって、戦前と戦後に大きな「断絶」が生まれ、外部から日本の戦前の行動への責任追及は厳しくなかった。
戦前の大東亜共栄圏による自給圏形成の記憶は多くの日本人から徐々に薄れ<てい>った。」(235、238)
⇒安達がここで書いていることも意味不明です。
ここも、「日本の戦前の行動への責任追及<が>厳しくなかった」のは、厳しく追及されるほど「日本の戦前の行動」はひどいものではなかった、というだけのことでしょう。(太田)
(完)