太田述正コラム#1830(2007.6.23)
<アイク・マーシャル・マッカーサー>(2007.12.20公開)
1 始めに
 本格的なマッカーサー(Douglas MacArthur。1880~1964年) 論は他日を期したいと思いますが、ウェイントローブ(Stanley Weintraub)の’15 STARS–Eisenhower, MacArthur, Marshall Three Generals Who Saved the American Century, Free Press’ の書評等をてがかりに、アイゼンハワー(アイク=Dwight David “Ike” Eisenhower。1890~1969年)やマーシャル(George Catlett Marshall, Jr.。1880~1959年)との比較でマッカーサー像を浮き彫りにしてみることにしました。
2 アイク・マーシャル・マッカーサー
 先の大戦における米国の三人の元帥(注1)のうち、マッカーサーは、大統領になったアイク、国務長官になりマーシャルプランの功績を称えられてノーベル平和賞を受賞したマーシャルほどの人物ではありませんでした。 三人のうちで一番年下のアイクは、人柄は誉められても頭が良いと言われたことはありませんし、マッカーサーは、同期生の凡庸なマーシャルを尻目に米陸軍士官学校を首席で卒業したのですから、この三人のうちではずば抜けて頭が良かったことは疑いありません。
 (注1)米議会が元帥(General of the Army)位を設けたのは、1944年12月だ。
 ずば抜けて頭が良かったからこそ、マッカーサーは第一次大戦後に例外的に格下げにならず准将(Brigadier General)位にとどまり、かつ1930年に49歳の時に大将(General)/陸軍参謀長(Chief of Army Staff)になっています。同期のマーシャルが陸軍参謀長になったのは、その実に9年後の1939年ですし、アイクが陸軍参謀長になったのは1945年であり、15年後、年次を補正しても、マッカーサーより約5年後、ということになります。
 もっともこれは、最初はアイクやマーシャルの上司だったマッカーサーが、後にまずマーシャルの、次いでアイクの部下に転落したことを意味します。
 アイクとマーシャルの性格は対照的であり、開けっぴろげですぐに誰とでも親しくなったアイクに対し、マーシャルは、一見とりつく島もない感じのぶっきらぼうな、しかし根は暖かい人物でした。
 この二人はどちらも、米国民が実は戦争が嫌いであり、戦争に長けてもいないことを熟知していました。ですから二人とも、米国がやる戦争は長期化してはならず、かつ単独で戦ってはならない、という信念を持っていました。
 このあたりの政治的感覚が、朝鮮戦争の時に中共に対する核攻撃を求めてトルーマン大統領に馘首されたマッカーサーには欠けていました(注2)。
 (注2)アイクもマーシャルも先の大戦中は、主として欧州戦線に精力を注いだが、このアイクやマーシャルも英国のモントゴメリー(Bernard Law Montgomery)将軍には頭があがらなかった。アイクらは短期決戦を主張し、ただちにフランスに上陸してベルリンを目指すべきだとしたのに対し、モントゴメリーはまずアフリカと地中海を押さえるべきだと主張した。これは、英国の植民地を守りたかったということもあるが、同時に未熟な米軍に経験を積ませるためでもあった。実際、モントゴメリーは正しかったのであり、北アフリカでの戦いにおいて、米軍の未熟さと臆病さは英軍を呆れさせ、彼らは米軍を「我がイタリア人達」と呼んだものだ。
 帝王然とした(imperious)マッカーサーは、アイクもマーシャルも敬遠していました。
 フィリピン時代に一度マッカーサーに使えたアイクは、大戦の始まる前、マッカーサー率いる部隊の参謀長をしていましたが、マッカーサーのことを「我慢ならない将軍閣下(General Impossible)」と陰口をたたいていましたし、マッカーサーはマッカーサーで、アイクのことを「今まで出会った中の最高の事務員だ(Best clerk I ever had)」と嘲っていました。後にアイクは、「私はマッカーサーの下で素人芝居(dramatics)の何たるかを学んだ」とマッカーサーを揶揄しています。更にはアイクは、マッカーサーを50人もらったとしても1人のマーシャルと交換したくない、とまでマッカーサーをこき下ろしています。
 マーシャルは、陸軍参謀長として、慎重に、しかし何度となくマッカーサーに対し、メディアに対して、米国防省が自分の太平洋における作戦の邪魔をしているなどと言うな、と注意喚起しています。
 それにマッカーサーは、自分の手柄を誇張し、自分のライバルを貶めるのを習いとしていました。
 もう一つ。
 先の大戦初期において陸軍参謀長のマーシャルの下で参謀をしていたアイクに、ある日マーシャルが、「君は参謀だから昇任はないよ」と言ったところ、アイクは「あなたが昇任させてくれるかどうか何て私にはどうでもよいことです。私がここにいるのは自分の義務を果たすためです。」と返答して席を立って歩いて出て行こうとしました。ドアの前でアイクが後ろを振り向いてみると、マーシャルが笑みを浮かべていた。アイクはにやりと笑って外に出たといいます。こんなことをしたら、マッカーサーは激怒したに違いありません。
 なお、実際にはマーシャルの部下時代に、アイクはとんとん拍子の出世をしています。
 アイクは大統領になったし、マーシャルだって十分大統領になれたでしょうが、マッカーサーは、到底大統領の器ではなかったのです(注3)。
 (注3)この3人の違いを更に二つ挙げておこう。
    まずは取り巻きだ。アイクは腹心(confidant。運転手やブリッジ仲間等の気の置けない人々のほか、有名なのはブッチャー(Harry Butcher)やスミス(Walter Bedell (“Beetle”) Smith))を、マーシャルは顧問(counsel。大戦中に英国からワシントンに派遣されていたディル元帥(Sir John Dill, Field Marshal)が有名)を、そしてマッカーサーは廷臣(court。ウィロビー(Charles Willoughby)とホイットニー(Courtney Whitney)が有名)を取り巻きとした。マーシャルはマッカーサーには廷臣はいてもスタッフはいない、と心配していた。
    次に住んだ場所だ。中西部の田舎出身のアイクは田舎暮らしが好きで晩年をゲティスバーグ近くの農場で送ったのに対し、ペンシルバニア州西部の小さな町で育ったマーシャルは郊外が好きで首都ワシントンから20マイル離れた小さな町をすみかとし、マッカーサーは都市が好きで、ワシントン、マニラ、東京を経て引退後はニューヨークのウォルドルフ・ビルの37階で晩年を過ごした。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/15/AR2007061501131_pf.html  
(6月17日アクセス)、及び
http://www.diesel-ebooks.com/cgi-bin/item/555163423X/15-Stars-Eisenhower-MacArthur-Marshall-Three-Generals-Who-Saved-the-American-Century-eBook.html#
http://www.bordersstores.com/search/title_detail.jsp?id=56620751&ref=list+newhistory  
(どちらも6月23日アクセス)による。)
3 感想
 先の大戦当時に米国で最も有名であった三人の米軍人のうち、格段に器の小さいマッカーサーを戦後米国から派遣され、彼を絶対君主として崇め奉らされた日本人が哀れでなりません。
 しかも、アイクもマーシャルもマッカーサーも、先の大戦のおかげで、しかもその大戦に米国が勝利したおかげで、実像以上に虚像が膨れあがったに違いない、と考えるとなおさらです。
 現に、その後、パウエル前国務長官のように、軍人出身の国務長官は出ていますが、一人の大統領も米国では出てはいません。
<太田>(2007.8.5)
 ニューヨークタイムスも、コラム#1830で紹介したウェイントローブらの本の書評を載せました。
http://www.nytimes.com/2007/08/05/books/review/05besc.html?pagewanted=print
(8月5日アクセス)
 
 その中に、マーシャルについては、
・・in 1938, Roosevelt tried to pressure Marshall, then the Army’s deputy chief of staff, into consenting to a delay in the development of large ground forces until seven airplane factories could be built.
As a dozen officials’ bobbleheads went up and down, Roosevelt asked Marshall, “Don’t you think so, George?” Marshall resented Roosevelt’s “misrepresentation of our intimacy.” He said, “I am sorry, Mr. President, but I don’t agree with that at all.” As Marshall later recalled, Roosevelt “gave me a startled look, and when I went out they all bade me goodbye and said that my tour in Washington was over.”
It wasn’t. Roosevelt was not used to such frank disagreement in large meetings, but he admired Marshall’s grit and conviction and soon promoted him.
アイゼンハワーについては、
A lifelong Army man, Eisenhower had watched Marshall and MacArthur during their differences with Roosevelt and Truman. When he entered the White House in 1953, he was probably better schooled to know both the importance and the limits of military advice than any other president of his century.
Though the story does not appear in either book, in the late 1950s, Eisenhower’s generals – especially in the Air Force – were clamoring for a huge increase in the defense budget. The Soviet leader, Nikita Khrushchev, was declaring that his country was cranking out planes and nuclear missiles “like sausages” and would soon overtake the United States.
Knowing from secret intelligence that Khrushchev’s claims were a fraud, Eisenhower held down military spending. His fortitude opened him to charges from Senator John F. Kennedy and other politicians that he was tolerating a “missile gap” and leaving America undefended. But his decision probably meant the country was able to avoid the ruinous inflation that afflicted its economy in later years.
というくだりが出てきます。
 やはりこの2人に比べるとマッカーサーは一段劣る、ということのようです。
 
 もっとも、やたら格好良いマーシャルも、『マオ』の張戎らにかかると、支那情勢が全く分からないでくの坊ということになってしまうのが面白いところです。
 トルーマンは、1945年12月に陸軍参謀長のマーシャルを支那に送り込み、国共内戦回避に当たらせますが、1947年1月まで現地に滞在しつつ、当時の中国共産党がソ連の傀儡であることも、毛という人物についても把握できず、従っていくら腐敗しきっていたとはいえ、中国国民党の方がまだマシであることもついに自覚せず、内戦が始まると共産党軍の方を支援した挙げ句、毛と中国共産党に好意を抱いたまま帰国して国務長官に任命されるのです。(『マオ』PP287~289)
 とはいえ、これはマーシャル一人の罪ではなく、当時の米国がいかに国際情勢音痴であったかを示すものでしょう。
 こんな米国のために東アジア全体がどれほどの災厄を被ったか、米国人に骨の髄まで分からせる必要があります。