太田述正コラム#13231(2023.1.9)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その3)>(2023.4.6公開)

 「・・・第四版における女性の採録者数は、13名であり、全体の0.09%である。
 これに対して、『日本帝国人口静態統計』(大正2年)の戸数を見ると、総戸数9,664,075戸に対して、女性戸主は833,846戸であり、その割合は9%である。
 第四版の女性の採録者は、女性戸主と比較しても100分の1程度しかなく、『人事興信録』に採録される女性は、きわめて少ないことがわかる。・・・

⇒明治政府は、女性差別の家制度を全国民に導入したのですから、こういう結果になるのは当然でした。(太田)

 人事興信所のビジネスの柱の一つが、商業興信と異なる、結婚情報調査にあったことは、<累次、>既述したところである。
 依頼に基づく探偵調査、「令嬢カード」の閲覧、そして『人事興信録』の編纂・販売という、営業品目が整えられていった。
 娘、息子の「縁組」が家の重大事であった富裕層にとって、都市部などで地縁血縁情報に頼れない場合、こうした事業へのニーズが発生していたことが推測できる。・・・

⇒個人情報保護の観念がなかった時代だからこそ、こういう形の商売が成り立ったわけです。(太田)

 どのような公職であれば女性は就くことが許されていたのか。
 学校教職員のほか、権利としては、農会<(注7)>、商工会議所<(注8)>の議員の選挙権、または所得税の調査委員<(注9)>程度であった。」(163、183、188)

 (注7)「農会法(1899年),農会令(1900年)に基づき,農業の改良発達を図ることを目的として設けられた団体。市町村,郡,都道府県の系統農会の3種と中央組織の帝国農会があった。農業技術・経営の指導,普及を通じて政府の農政を浸透させ農民を把握する役割を果たしたが,1943年農業会へ発展統合された。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BE%B2%E4%BC%9A-111819#:~:text=%E3%81%AE%E3%81%86%E2%80%90%E3%81%8B%E3%81%84%20%E2%80%A5%E3%82%AF%E3%83%AE%E3%82%A4,%E3%81%A6%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82
 (注8)「商工会議所としての意見の公表・具申・建議、調査研究、証明・鑑定・検査、技術や技能の普及・検定、取引の仲介・あっせん、貿易振興などを行う。
 商工会議所の起源は1599年のフランスのマルセイユに組織された商業会議所とされている。以来、各国に同種の経済団体が組織されているため、国内外における調整機関として役割を持つことが可能。その形態は大きく仏独系(強制加入)、英米系(任意加入)に分類される。
 日本の商工会議所は1878年(明治11年)、東京、大阪、神戸の3箇所に商法会議所として設立されたのがはじまり。1892年(明治25年)15の商業会議所がその連合体として商業会議所連合会を結成、今日では商工会議所法に基づく認可法人の位置付けとなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%B7%A5%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E6%89%80
 「わが国では、すでに江戸時代に町会所制度なるものがあり、ここに商工会議所の萠芽をみることができる。町会所は、寛政3年(1791年)松平越中守定信によって・・・官治万能を廃して市民の自治に俟つことが考慮され、町会所の創設がなされたのである。・・・寛政の改革・・・によって江戸の各町の冗費は徹底的に切りつめられ、その余剰金の一部(そのうちの7分(7割))が町会所の事業基金として充当された。この基金は、市中の富豪紳商から選任された市民総代によって管理、運用され、凶作、飢饉、災害の際の救済に備えたほか、困窮者に対する救済資金の貸付けをも併せて実施し、市民の福祉の増進に寄与したのである。 町会所制度は、実に83年の永きにわたり活動を続けたが明治5年に解散し、同年3月改めて自治機関として東京営繕会議所が設けられ、町会所の残余基金はこれに引継がれた。翌年9月、東京営繕会議所は東京会議所と名を改め、養育院の設置、ガス事業の創設経営、共同墓地の設置、商法講習所(後の商科大学)の開設等を行い、また、言論機関として非常な権威を保持し、大きな業績をあげた。しかし、その後しだいに基金の枯渇をみ、他方東京府による公共事業の活発化、民選府議会の実現等を契機として明治10年に解散された。・・・
 条約改正に当って伊藤博文等が、条約改正は国民の世論である旨を英国公使パークスに述べたところ、日本には多数の集合協議する仕組がないではないか、個々めいめいの違った申し出は世論ではないと反駁されたという裏話が残っている。このような事もあって、政府は、海外における実情等をみても商工会議所制度の実施が必要であると認め、かっての町会所以来の伝統と諸外国の制度を参考として「商法会議所」の設置を全国的に勧奨するに至った。その結果、渋沢栄一を中心として、益田孝、大倉喜八郎、福地源一郎、五代友厚等の尽力があって、明治11年に東京、大阪、神戸で設立され、その後、横浜、福岡、長崎、熊本、徳島、富山、下関、名古屋、津、岡山、鹿児島、松山等ほとんどの主要な産業都市に相次いで設立がみられ、明治18年には、その数は32にのぼったといわれる。この商法会議所は、おおむね英米系の制度を範として会員組織によるとともに各地方の実情に従って任意に運営されるのを原則とした。」
https://hachioji.or.jp/about/history 
 (注9)「申告納税制度が導入される以前、個人の所得金額を決定する際の諮問機関として所得調査委員会が設置されていた。調査委員は納税者の代表として、選挙で選出された。
 調査委員会は明治20年(1887)の導入当初から、制度を変えながら昭和22年(1947)の申告納税制度導入により廃止されるまで存続した。・・・
 調査委員会は税務署ごと、市部と郡部にそれぞれ設置された。市や郡が選挙区であったため、町村会議員選挙と府県会議員選挙の中間に位置するとみられたようである。選挙資格を得るには申告書の提出が必要で、選挙の年には申告数が増加する。納税者の関心は高かったが、他の選挙と違い政治色は薄かったようである。
 調査委員の選挙関係史料をみると、定員や有権者数を勘案して、事前に候補者の調整が図られる例が少なくない。・・・
 記名・連記制から無記名・単記制へと選挙方法が変化する過程で、それぞれ地域の事情を背景に成立したと考えられる。また、立候補制ではないため、地域の納税者の代表にふさわしい人物を選出するためには、逆に調整が必要となったようである。」
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/network/141.htm

⇒結構、戦前、女性に公職が開かれていたのだな、という印象を、むしろ私は持ちました。(太田)

(続く)