太田述正コラム#13233(2023.1.10)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その4)>(2023.4.7公開)
「・・・女戸<(注9)>主についてであるが、婚姻中の費用負担は男性の戸主と同じく女戸主の負担とされた。
(注9)「戸の制度は,朝鮮諸国を媒介にして日本にも継受され,6~7世紀ごろ,朝鮮からの帰化系氏族を朝廷に組織する際に,〈部〉とは異なる新しい組織原理として,〈戸〉の制度が施行されたと推定される。中国律令では,同居共財の家をそのまま戸とする原則であり,日本律令も〈家長を以て戸主とせよ〉という唐律令の規定をそのまま継受するが,古代日本の家や家長のあり方は,中国とはいちじるしく異なっていた。豪族層では,家は家長を中心とする一つの経営体として存在していたと考えられるが,庶民層では,夫婦と子どもからなる小家族が一般には複数集まって生活しており,家長がはっきりとは存在していなかった可能性が強い。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E4%B8%BB-64756
「武士の場合、13世紀後半になると分割相続による所領の細分化が進行し、嫡男ひとりが親の土地財産の大部分を相続する単独相続が、しだいに増加のきざしをみせることとなる。・・・
農民の場合、苗字<のほか、>・・・藤次郎(とうじろう)<や>勘右衛門<といった>・・・通名(つうみょう)とも呼ばれる・・・屋号<、>・・・など家名にあたる名が用いられ始めるのは14世紀後半以降、それが一般化するのは16世紀であり、また、遺産相続の形態が分割相続から単独相続に変わったことによって、嫡男が相続した遺産が事実上の家産となるのは16世紀のことである。」(坂田聡「日本の家制度・その歴史的な起源」より)
https://yab.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20130115.html ※
坂田聡(1953年~)は、「中央大学文学部を卒業し、・・・同大学院文学研究科博士前期課程修了。・・・神奈川県立伊勢原高等学校教諭となり、その後、教員として勤務しながら大学院に戻り、・・・中央大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学した。・・・函館大学商学部専任講師となり、・・・助教授へ昇格し・・・中央大学文学部助教授となり、・・・教授へ昇任。この間、・・・中央大学より博士(史学)を取得した<。>・・・専門は、日本中世の民衆生活史、村落史、家族史・女性史であり、氏姓などの人名に関する研究も行なっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E8%81%A1_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
「壬申戸籍<は、>1872年(壬申の年),前年の太政官布告戸籍法に基づいて作成された,明治政府による最初の全国的戸籍。それまでの戸籍の代りをなす宗門人別改帳が身分別記載であるのに対し,華族・士族・平民の別なく現実の戸(屋敷)単位に記載するものとされており,形式的ではあるが身分制を克服している点が画期的である。・・・
<しかし、>士族・平民・新平民などの族称を残していた<ことから、>・・・人権上の問題を含むため・・・、昭和四三年(一九六八)以降、・・・縦覧が禁じられている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E6%88%B8%E7%B1%8D-82002
しかし、女戸主<(注10)>は家に入る夫(「入夫」)の財産を管理する権利を有しなかった(民法第801条第1項)。
(注10)「徳川260年のあいだ、すべての藩の藩主が一つの例外もなく男性であったということは、たんに軍事指揮の問題ではなく、徳川幕府による大名支配という集権システムの中で、家督は男という意識(ジェンダー規制)が大名家督の承認手続きに反映したからに他ならない。大名分家の八戸南部家清心尼の場合や、朝廷における明正天皇の場合のように、幕府のコントロールが及ばなかったところでは、家の個別事情によって例外的な女性家長が登場した<。>・・・
<他方、>農村にお<いては、>姉相続と呼ばれた第一子相続の慣行<も見られた。>」(大口勇次郎「<書評>柳谷慶子著『近世の女婿相続と介護』」より)
http://www.igs.ocha.ac.jp/igs/IGS_publication/journal/12/161-163.pdf ☆
柳谷慶子(1955年~)は、「お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専攻、日本近世史・女性史。現在、東北学院大学文学部教授」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%9F%B3%E8%B0%B7%E6%85%B6%E5%AD%90_200000000676437/biography/
財産管理能力について、女は男よ劣り、男は女より優れている、と考えられていたからである。
⇒☆に出てくる姉相続の割合にもよりますが、※が指摘しているように、江戸時代において、農民においても家制度が一般的であったというのは、私の認識からこれまで抜け落ちていた史実です。
ということは、家制度は、私の言う、(潜在的には女性優位であり続けたところの、)日本文明下で、武家からそれ以外へ次第に普及していった制度であったところ、戦後の日本において、(女性優位性が顕在化すると共に、家制度の占領軍による破壊もあって、)プロト日本文明への回帰が次第に本格化していった、と、捉えることができそうです。
いずれにせよ、「財産管理能力について、女は男よ劣り、男は女より優れている、と考えられていた」といった史実は、日本文明下にあっても、必ずしも存在したとは言えないのではないでしょうか。(太田)
女戸主の家に入った夫は無能力者にはならなかったのである。
また、女戸主の場合、入夫と婚姻すれば女戸主を止めて、入夫が新たに戸主となるのが原則であった。
ただし、入夫と女戸主との間で、入夫を戸主にせず、女戸主にしておくという特別の合意があれば入夫は戸主とならなかった。」(194)
(続く)