太田述正コラム#13237(2023.1.12)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その6)>(2023.4.9公開)

 「・・・なお、文部省直轄の官立専門学校中、唯一の共学<は>東京音楽学校<だった。>・・・
 男女共学<(注11)>への拒否感について、1909年(明治42)に実業団の一員として渋沢が訪米した時の経験を紹介する。

 (注11)「日本では、[強い儒教主義道徳のもとに、]明治時代以降、第二次世界大戦降伏の時期まで、就学前教育(幼稚園など)と初等教育(小学校・国民学校など)を除いて、「男女別学」が主流であった。[中等学校においては、男女別学がさらに徹底して、いわば男女の隔離主義がとられ、両者の交流の機会はほとんどみられなかった。なお、旧制の高等学校は男子の独占するところであり、したがって帝国大学への女子の入学はほとんど認められないなど、性別による教育機会の差別がはっきりと存在していた。]これは、1891年(明治24年)に出された「学級編成等ニ関スル規則」に基づいている。当初は尋常小学校の1・2学年だけを共学として、3学年以降は男女別学とし、男子と女子とでカリキュラムも教科書も全く別な物とすることが公立・私立の区別なく各学校に義務付けられた。このため、戦前の日本には高等教育の男女共学校は少なかったが、官立では東北帝国大学・九州帝国大学・北海道帝国大学・東京音楽学校などが、私立では日本大学・同志社大学・東洋大学・早稲田大学などが女子の入学を認めていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%AD%A6
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%AD%A6-95127 ([]内)
 「アメリカでは・・・共学制が・・・早くから行われ・・・ている。ただ、・・・カトリックやイスラム教の盛んな国では、フランスをはじめとして別学の方針が伝統的にとられてきた。」(上掲)

 「当時自分が此の男女混学に対して真先に抱いた疑問は、第一に品行問題、第二に体質の関係如何といふことであつたが、各地とも皆一様に其の心配はないと云ふて居た。・・・・・・・餅があれば喰ひ度い、金があれば他人から預つたものでも使ひ度いと思ふのが、凡庸の人なら当然である。況や妙齢の男女を混合させて置くことに於ては、其の弊は甚しい所までゆきはせぬだろうかといふ意見であつたが、米国の教育家は口を揃へて左様でないことを弁じ、旧来の習慣として男女混合するとも彼等は何等の異つた感情も抱いて居らぬといひ、而して若し男からでも不心得なことを云ひ寄ろうものなら、女が相手にせぬのみか其の男は却て社会から蔑視される様になるから、男も左様な事を敢て言出す者がないとの答であつた。併し自分は此の弁明を絶対的に信ずることは出来なかつた。

⇒米国の教育家達も澁澤も、いずれ劣らぬ偽善者ぞろいですねえ。
 「栄一は屋敷の女中にも手を出しており、関係を結んだ女性の数はわからないくらい多かったといわれる。いわゆる隠し子も相当数いたようだ」
https://president.jp/articles/-/45236?page=3
という品行方正ぶりだったというのに・・。(太田)

 富裕層における女性の教育で、渋沢は何を模範とすべきかという問題について、次のように述べていた。
 貝原益軒「女大学」<(注12)>と福沢諭吉「新女大学」<(注13)>の中庸をとればよいというのが彼の見解であった。

 (注12)「貝原益軒が著した『和俗童子訓』巻5の「女子ニ教ユル法」を、享保(1716 – 36年)の教化政策に便乗した当時の本屋が通俗簡略化して出版したものと見られている。現存最古の版は1729年・・・で、その後、挿絵や付録が加えられた多くの異版が出た。・・・一度嫁しては二夫にまみえぬこと、夫を天(絶対者)として服従すること等々、封建的隷従的道徳が強調される。益軒には敬天思想に基づく人間平等観があり、それが原文の基調となっていたが、『女大学』ではすべて捨象されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 (注13)「福沢晩年の傑作として世に迎へられ、しばしば版を重ねた。この書は大正の末頃までに五十版ぐらいまで行われたもののようである。」
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a53/117
 「『・・・新女大学』に接する限り・・・その真隋をなすものは良妻賢母思想以外の何ものでもないという気がする。・・・彼が明治政府の富国強兵政策をおし進め、家制度の強化をはか<ろうと>・・・したことは確かなようである。」(西南女学院短大非常勤講師 久保加津代「福澤諭吉の『女大学評論・新女大学』を読んで」より)
http://jscfh.org/wp-content/uploads/2020/03/%E6%AF%94%E8%BC%83%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6_02-12%E4%B9%85%E4%BF%9D.pdf
 久保加津代は、奈良女子大卒、名古屋女子大専任講師、福岡教育大非常勤講師、西南女学院短大 非常勤講師、大分大助教授、教授。
https://researchmap.jp/read0173230

 「余が理想とする所を述ぶれば、貞淑、優美、緻密、嫺雅等東洋流の婦人の特色はこれを貝原氏の「女大学」式に学び、智能の啓発はこれを福沢氏の「新女大学」式に則つたならば、恐らく過無きに庶幾いであらう。今両者を批評すれば「女大学」は智の方面に欠くる所があるし、「新女大学」は忠孝節義に足らぬ節が見える。・・・」」(201~202)

(続く)