太田述正コラム#13239(2023.1.13)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その7)>(2023.4.10公開)

 「・・・実は、福沢の「新女大学」はむしろ、渋沢の女性観、家庭観と共通する点が多く、実質的にはほとんど対立する点は無かった。
 両者に共通していたのは、若い女性の言行についての細かい注文、良妻賢母の条件、女性の学問について性差による限定を行っていた点であった。・・・
 違いがあるとすると、渋沢が、天皇制家族国家の中に家族を位置づけ、忠孝を国家と家族の規律とし、構成員への統制の手段としていた点であった。・・・
 天皇に対して忠義を尽くし、親の世代などの年長者に対しては孝悌<(注14)>を尽くす、教育勅語における家族国家観である。

 (注14)「「孝」はよく親に従うこと、「悌」は兄や年長者によく従うことであり、「孝悌」と併用されることも多い。春秋時代にあらわれた孔子の言行録である『論語』には「孝悌なるものは、それ仁の本なるか」とあり、儒教における最高の徳目である「仁」の根本とされる。
 戦国時代に現れた孟子においては、秩序ある社会を造っていくためには何よりも、親や年長者に対する崇敬の念、即ち「孝悌の心」を忘れないことが肝要であることを説き、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇においては、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として親・義・別・序・信の「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%82%8C

 家族国家観における女性は「良妻賢母」となり、他方、外で働く家の「主人」は、慈愛を以て家族を規律し、率いていくべきであるというのが、渋沢の理想の家庭であったといえよう。」(203~204)

⇒福澤は澁澤より5歳年長(○●)ですが、両者のバックグラウンドは驚くほど似通っています。
 一、福澤の祖先は信濃源氏の村上氏為国流とする説が(諏訪氏支流とする説と共に)唱えられている(○)のに対し、澁澤の祖先は甲斐源氏の逸見氏(もしくは下野源氏の足利氏)の流れを汲み、天正時代に始祖となる澁澤某が血洗島村にて帰農したという伝承があり(●)、どちらも祖先が清和源氏であるとされることもあるところの、片や武家、片や元武家標榜家、の出身であり、福澤は武士ですし、澁澤は一橋慶喜に仕えて武士(後に幕臣)になっています。
 (福澤は当然剣術を学びました(○)が、澁澤も、郷里でも江戸でも剣術を学んでいます(●)。)
 二、福澤の「父・百助は、鴻池・・・などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった」(○)のに対し、澁澤の家は、藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける名主百姓でありながら、父親も従兄弟も漢籍に通じていて、澁澤は彼らから儒学等を学び、江戸でも儒学を学んでいます(●)。すなわち、両者とも、商業的、かつ、儒学的、な環境の下で成長しています。
 三、福澤は幕府使節団の一員としての咸臨丸による渡米経験、と、幕府使節団の一員としての欧州6ヶ国歴訪、及び、発注軍艦受け取りのための幕府使節団の一員としての渡米経験、があった(○)のに対し、澁澤は万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟で清水家当主の徳川昭武の随員としての1年半ほどの渡仏経験があり(●)、どちらも、比較的若年期に、欧米経験があります。
 四、福澤は、蘭癖大名たる薩摩藩主の島津重豪の子の(蘭癖大名の養父を継いだ)蘭癖大名奥平昌高が中津藩主であった時に、蘭学を学ぶために長崎に留学させられ、その時以来、薩摩藩の対幕スパイとなり、科学的秀吉流日蓮主義者になったと考えられる(コラム#省略)のに対し、(初めて唱えますが、)澁澤も隠れ秀吉流日蓮主義者の一橋(後に徳川)慶喜に仕えて隠れ秀吉流日蓮主義者になったと考えられるのであって、この点でも両者は似通っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89 ○
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80 ●
 ですから、両者の「女性観、家庭観が共通する点が多く」ても、全く不思議ではないでしょう。
 他方、両者の「女性観、家庭観」の微妙な違い・・福澤の澁澤に比しての若干の「開明」性・・は、福澤が、「<父親の>大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。」(○)、といった事情から、福澤自身、「「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた」(○)くらい儒学には詳しかったにもかかわらず、いや、だからこそ、(蘭学を学んだこともあり、)儒教に対して否定的な認識を強く抱くに至っていたからでしょう。(太田) 

(続く)