太田述正コラム#1857(2007.7.9)
<スターリンと毛沢東の伝記(続)(その1)>(2008.1.9公開)
1 始めに
スターリンの伝記と毛沢東の伝記を少しずつ読み進めているのですが、後者の方が読みやすく面白い感じがしています。
後者が、英語が母国語でない支那人の女性とその夫の英国人との合作だけに、癖のない分かりやすい英語で書かれている、ということもあるのですが、何と言っても、スターリンに比べて毛沢東の方がはるかに興味深い人物だからです。
というのは、スターリンはかろうじて規格内の正常な人間であるものの、毛沢東は徹頭徹尾規格外の異常な人間だからです。
このことは、毛が実質的な最初の妻を非業の死に追いやるところまで読んだだけではっきり分かります。
2 異常人格毛沢東
毛は通常の意味でのリーダーとしての資質がなく、学生時代には人望は全くありませんでした(15頁)。
もちろん、毛は頭は悪くありませんでしたが、労働を卑しみ、また全く語学の才能がありませんでした。毛は湖南方言で押し通し、ついに北京官話すら身につけられなかったほどです。
だから、当時の支那の有為の青年は、第一次世界大戦後の労働力不足のフランスでは労働しながら勉強できるというのでフランスに行ったり、また、革命後の社会主義国ロシアに行って勉強したりすることが大流行だったのに、毛はフランスはもとより、ロシアにも行かなかったのです。
(以上、PP15)
このあたりまでは、そうめずらしくもないでしょう。
しかし、次はどうでしょうか。
「道徳性は他人との関係において定義されるべきではない。・・私のような人物にとっては、自分の心を最大限満足させることこそ最も価値の高い道徳律なのだ。もちろんこの世にはヒトやモノがある。しかしこれらはすべて私のためだけに存在しているのだ。」(PP13)
死んだ後名声を残すなんてことは「私にとっては何の意味もない。・・私のような人物は後世のための何かを残すという発想はないのだ。」(PP13)
これらは、毛自身の言葉です。
毛は究極のエゴイストであると思いませんか。
そんな毛は、死に至る病にかかった母親に向かって、きれいだった時の記憶をとどめておきたいので、もう来ないと言い残し、言ったとおり、それっきり母親が亡くなるまで会いには来ませんでしたし、そんな毛はもちろん、父親が亡くなる時も会いには来ず、亡くなっても哀しげな顔一つ見せませんでした。(PP17~18)
毛には親の決めた縁談がありましたが、それには見向きもせず、恩師の娘と実質的に第一回目の結婚をします(PP22~24)が、やがて共産主義運動に身を投じた毛と彼女は別居を余儀なくされ、それを良いことに、後に毛の次の妻となる女性と浮気を始めるのです(PP57)。
(続く)
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<太田>
情報屋台の掲示板への私の投稿を転載しておきます。
藤田正美氏の「戦争終結と原爆と核廃絶」について
1 始めに
藤田正美氏が「戦争終結と原爆と核廃絶」(
http://johoyatai.com/?page=yatai&yid=63&yaid=507
)で「1945年の核爆弾についてわれわれはもっと議論しておかなければならないと思う。」と指摘されていますが、同感です。
とりあえず、藤田氏の論調に対し、二点ほどコメントさせていただきました。
2 コメント
(1)補足
>原爆投下は「しょうがない」と発言した久間章生防衛大臣・・は、長崎出身なのにずいぶん不用意な発言をしたものだと思う。
について補足させていただきます。
「<米>カリフォルニア大学サンタバーバラ校の・・ハセガワ・・教授は、<2005年に上梓した著書において、>・・「原爆投下は日本の降伏をもたらし、百万人の米兵の命を救った」という神話・・を完膚無きまでに打ち砕<きました。>
ハセガワは、日本が降伏したのは、原爆投下(8月6日広島、8月9日長崎)のためではなく、ソ連の参戦(8月8日)のためであることを証明したのです。
すなわち、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、原爆投下以降も耐えていくつもりだったのに対し、日本の政府も軍部も、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意したというのです。」(太田述正コラム#819)
つまり、原爆投下は、単に一般市民を殺戮し、苦しめただけで、政治的にも軍事的にも何の意味もない愚行であったからこそ、強く非難されるべきなのです。
(2)疑義の提起
>もし犠牲者の多さや民間人が多数殺されたことがその理由なら、1945年3月10日の東京大空襲についてなぜアメリカを非難しないのか。東京大空襲では 10万人が犠牲になったとされている。そしてもしアメリカの無差別爆撃を非難するなら、1938年に日本軍が行った歴史上類を見ない重慶爆撃をどう反省するというのか(重慶爆撃こそ都市に対する無差別爆撃の事実上の始まりとされている)。
これについては、若干疑義があります。
まずは以下をお読み下さい。
「<イタリア人ドゥーエが提唱した>戦略爆撃の目的は、敵の政治的に重要な<拠点>、軍事的生産拠点、交通のネック<等を>撃滅し、敵の戦争遂行能力を喪失させることである・・。
<日本による>重慶爆撃は、日中戦争・第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年の<ドイツによる>ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市空襲(戦略爆撃)である。・・<重慶爆撃の>爆撃目標は「戦略施設」であり、・・現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかしながら重慶は霧がちで、曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目的施設以外に被害が発生する可能性を承知で爆撃が実施された。・・<また、ゲルニカ爆撃では、>市が立っている市街地を爆撃し、さらに、低空に下りて銃撃(爆撃機がである)を加えたりしている<等>、 ・・明らかに<一般市民を>狙っ<た部分があ>った。
・・蒋介石は、重慶爆撃・・の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調、宣伝することにより、・・外交的にアメリカを日本と中国の戦争に巻き込むことを画策し、・・アメリカの経済制裁に始まって、それに対する資源獲得の為の米軍勢力の払拭の為の日米戦争という形で 見事に成功させた・・。
<第二次世界大戦においては、>戦争の初期<の>ヨーロッパ戦線では、・・一般市民を殺戮し<てドイツ国民の戦意を喪失させ>・・ようとするイギリス軍と、・・軍事施設と生産施設を・・攻撃するアメリカ軍とは別の理論により<戦略>爆撃が行われていた。・・<しかし、後にアメリカ軍は、>太平洋戦線では、日本相手にB-29爆撃機を用いて、<一般市民を殺戮して日本国民の戦意を喪失させようして、>大規模に都市ごと焼き払う戦法<を>採用<した。>」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
(7月9日アクセス)。ただし、ゲルニカ爆撃については、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Guernica
(7月9日アクセス)により、補正した。)
つまり、当時でも国際法違反となるところの、一般市民の殺戮を主たる目的とする戦略爆撃を世界で初めて実施したのは、スペイン内戦時のドイツでも日華事変時の日本でもなく、第二次世界大戦時の英国であり米国である、ということです。
また、原爆投下は、当時でも化学兵器の使用が国際法違反であったことを踏まえれば、原爆が化学兵器以上の後遺症を爆撃生存者に残す残虐な兵器である以上、国際法違反と解すべきなのです。
従って、広島と長崎への原爆投下は二重の意味で国際法違反なのであり、だからこそ、ハンブルグ大空襲や東京大空襲等以上に強く非難されてしかるべきなのです。
スターリンと毛沢東の伝記(続)(その1)
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