太田述正コラム#13249(2023.1.18)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その12)>(2023.4.15公開)

 「・・・渋沢栄一は産業革命期に様々な会社の創立に携わり、多くの会社の重役を務めた。
 創業者の二代目世代もまた多数の会社の重役の椅子を占めたが、彼等は、重役賞与や株の高配当により富豪となっていたのである。
 ・・・<渋沢のように、>40社、60社、あるいはそれ以上の会社の重役を兼ねている者が、いかに能力があろうとも誠実に経営に参画し、経営責任を果たせるはずがないことは、既述した通りである。

⇒起業する側もそれにお墨付きを与える澁澤も、どちらも割り引いて評価しなければならないのは、当時、欧米にあって日本にはない業態があれば、その業態の会社を起業すれば、成功する可能性が極めて大であることが分かっていたことです。(太田)

 高橋は、特に富豪の子弟が株式会社の重役の椅子を占めることの致命的問題を次のように指摘していた。
 「・・・彼等が重役たる訳は彼等にそれに相当する企業能力があるからではない。今日の法律が今日の如き私有財産の特権と其の世襲とを認め、之を丁重に保護してゐるからに外ならない。それは丁度、幕末の社会が、大名や家老の特権とその世襲とを認め、之を厚く保護せる結果、如何に凡庸の子弟と雖も、その大名や家老の家に生れさへすれば、それだけで彼等が大名や家老となつて一国を支配する枢要な地位についたと全く同様だ。・・・」
 <そんな、>経営能力がなくとも会社と重役の椅子を保つ方法・・・は、政府の整理救済であり、その損失負担を国民に押し付けることであった。・・・
 男子普通選挙・・・の時代の政党と財閥、実業家との癒着については、高橋の・・・「政党株式会社論」『中央公論』44巻7号、1929年7月・・・がつとに有名である。・・・
 1900(明治33)年、産業革命期に・・・有権者<の>・・・納税資格は直接国税10円以上に引き下げられ、人口比2.2%、98万人となった。
 近代日本社会の富裕層の規模は、およそこの数字で捕捉できると考える。
 その社会の富裕層が、3倍以上もの労働者・農民に参政権を認めても、既得権を維持できた原因は何であったのであろうか。
 既成大政党は、社会において最大の組織化された集団であった。
 中央と地方の権力を掌握し、行使することで何をどのように得ていたのであろうか。
 そうした問題意識に立つと、結成時から権力喪失まで、政党の政権争奪の歴史だけでなく、社会における政党組織・活動等を扱った粟屋憲太郎『昭和の政党』が参考になる。
 特に、そこで取り上げられている高橋亀吉「政党株式会社論」は、資本家が政党に投資し、政党は「営業」を通じて利益を得、投資家に利益を還元するシステムを明かにした点で注目したい。
 高橋の「政党株式会社論」に依拠することで、社会の富裕層がどのようにして政党政治における既得権を得ていたのかを明らかにできると考える。・・・
 明治期は、基本的に薩長藩閥勢力が文武官僚を従えてしまうと、「多数の専制」を阻止することは困難であった。
 近代日本の政党政治は、与党が多数を占める議会の立法権・予算審議権を掌握することに加え、統帥権を除く天皇大権(外交権、行政権、独立命令権等)を行使できたからである。

⇒戦後の主権回復後においても、米国の保護国化することによって、日本の統帥権は事実上宗主国の米国に委ねられていることから、日本の民主主義度は、戦前、戦後を通じて変化はないことになる、的なことを以前に記した(コラム#省略)ことがあります。(太田)

 産業革命が成功し、資本主義経済が発展するにつれ、実体経済の担い手である富裕層は、経済社会に対応する政権を要求するようになった。
 1913(大正2)年、第3次公爵桂太郎内閣は第1次護憲運動で倒され、1918年、伯爵寺内正毅内閣は米騒動で総辞職に追い込まれた。
 さらに、1924年、伯爵清浦圭吾内閣は第2次護憲運動で退陣した。
 資本主義経済と共に成長した富裕層を基盤とする全国政党が、各社会集団の経済的利害への対応という点で、藩閥指導者と藩閥官僚を、次第に凌駕していったのである。
 1924(大正3)年6月、加藤高明・護憲三派内閣(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)が成立してからは、元立憲政友会総裁の元老、公爵西園寺公望は、天皇への後継首班奏請権を行使し、政党内閣制を慣行として成立させた。
 政党は強大かつ広範囲な国家権力を掌握し、行使する社会集団となったのである。
 1925(大正14)4月に立憲政友会の総裁に就任した田中義一は、そうした政治的変化の潮流に乗った人物であった。
 山県有朋、桂太郎、寺内正毅と引き継がれた長州閥・陸軍の指導者の政治的影響力は減退していた。

⇒山縣が本籍長州藩現住所薩摩藩であったこともあり、長州閥など存在しなかった、と、私は、かねてより申し上げてきたところです(コラム#省略)。(太田)

 立憲政友会の原敬内閣の陸相であった田中義一陸軍大将は、その後の立身出世の道を政党総裁の地位に見いだした。
 普通選挙の導入で、大政党総裁の椅子は、内閣総理大臣の椅子に直結していたからである。
 彼は持参金として、陸軍機密費を流用したと噂されたが、立憲政友会の幹部たちは、普通選挙戦のため彼の資金と在郷軍人会300万人の票を欲しており、彼を自ら望んで確立したのである。」(239~240、219~221)
 
⇒今頃気付いたのですが、6回に分けて「名古屋大学法政論集」に掲載された論文がそのまま合本されているだけなので、頁は、飛んだり、戻ったりしています。(太田)

(続く)