太田述正コラム#2245(2007.12.19)
<日記に久保・諸冨両名が登場する日>(2008.1.16公開)
1 始めに
私の日記の2000年8月21日には、久保卓也元防衛事務次官(故人)と諸冨増夫元防衛施設庁長官の2人の話が登場するので、該当部分をご披露しましょう。
久保さんは警察庁キャリアであり、警察庁と防衛庁の間を行ったり来たりしながら、防衛局長を経て防衛事務次官を勤められました。
他方、諸冨さんは私より7期先輩の防衛庁キャリアであり、調達実施本部長時代の不祥事で有罪判決を受けた人物であり、防衛施設庁長官時代には私の呆れた上司であった御仁です。
2 日記の記述
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久保論文解説脱稿。(下掲)
昨年、昔の資料を整理していた時に、長い間探していたこの論文(手書き原稿の青焼きコピー)が出てきた。この論文は、1976年の7月に防衛事務次官を辞め、防衛庁顧問として防衛研修所(現在の防衛研究所。以下「防研」という。)に一室を与えられていた久保さんが、防研が大蔵省からカネをもらって行ったPPBS(Planning Programming Budgeting System=米国国防省等で実施されていた予算編成システム)の再検証研究の一環として、防研の委嘱を受けて一専門家としての立場で、翌年にかけて執筆したものである。
1976年の6月に米国スタンフォード大学のビジネススクール(及び政治学科)での二年間の留学を終えて帰国し、内局人事第一課に配置されていた当時27歳の私は、防研からの要請で上記再検証研究チームの一員に加わっていた。
その年の秋、防研の久保さんの部屋で、私はたった一人で久保さんと向き合っていた。怖い物知らずであった当時の私は、委嘱した執筆作業の進捗状況を問いただし、必要に応じて注文をつけるつもりでこの面談に臨んだのだが、いつしか、時の経つのも忘れて久保さんの話に耳を傾けていた。この論文にもにじみ出ているが、久保さんは最新の米国の経営学の理論に次々に言及しつつ、自分の主張を展開された。実に、二年間経営学の勉強をしてきたばかりの私が圧倒されるほどの該博かつ詳細な知識だった。
この論文を読み返したところ、そのおりの濃密な至福のひとときの記憶が鮮やかによみがえってきた。それにしても、四半世紀も前に執筆されたにもかかわらず、いささかも論旨が古びていないことには驚かされる。私は、この論文を自分一人のものにしておくのは惜しいと思い、このような形で公開することにした。
この論文は、単に久保さんがPPBSに対する所見を述べたものではない。1976年に閣議決定され、1995年に改定された防衛計画の大綱の根底にある「基盤的防衛力構想」・・つまりは現在の日本の防衛構想・・がいかなる考え方の下で生み出されたかを明らかにした、瞠目すべき論文なのである。
久保さんは、「本来安全保障政策が明確化、具体化されていない所に、防衛政策の具体的目標は立て難い。そうであれば実は防衛に関する業務と予算の目的的、効率的管理についての大前提を欠くことになる。」と言っている。すなわち、防衛庁は構造的かつ深刻なモラル・ハザードの下にある。このモラル・ハザードの下で、なおかつ自衛隊の士気を維持し、不祥事の発生を回避するにはどうしたらよいかという経営学的課題に答えることこそが、基盤的防衛力構想の最大の狙いであったことを私は久保さんからこの耳でじかに聞いたのだが、そのことは、この論文のこのくだりからもはっきり読みとることができる。
私は、この久保さんの本来の考え方に沿って、防衛計画の大綱(旧)の説明ぶりを抜本的に改めることを、編纂を担当した昭和52年(1982年)防衛白書で試みようとした。ところが、自ら素案を執筆して周到な根回しを行い、担当課であった防衛課(当時)はもとより、統幕及び各幕の同意もとりつけた上で、参事官会議に臨んだにもかかわらず、会議の席上での内局上層部の予期せぬ反対により、この試みは挫折してしまった。このことは、いまだに残念でならない。
結局、久保さんの本来の考え方は、正しく認識されないまま現在に至っているのだが、それにもかかわらず、久保さんの生み出した基盤的防衛力構想は、防衛庁における士気の維持と不祥事の防止に大きな役割を果たしてきた。その理由もこの論文が解き明かしてくれている。
問題は、久保さんのように、経営学的視点から防衛行政に携わる人間がその後育っていないことである。遺憾ながら四半世紀を経た現在においても、依然、この論文が書かれた当時と同じ巨大なモラル・ハザードの下に防衛庁はあり、さすがに久保さんの遺産の神通力も薄れてきたのではないか。調達実施本部の事案を始めとする昨今の防衛庁における不祥事の連鎖は、そのことを物語っているように私には思えてならない。果たしてこれは杞憂であろうか。
仙台防衛施設局長
太田述正
夕食:宿舎にて。
夜:留守中、施設庁総務課長の米岡から、諸冨救難資金への献金を呼びかける関、三井両名の名前の「お願い」をを同封し、「よろしくお取り計らい願います」と記した手紙が届いていた。それにしても、関、三井両名の「お願い」中の「今回の事案は真に残念なことであり、彼に対する判決は、組織の長たる者に科せられた当然の責任を示すものであると私どもも厳粛に受け止めております。しかし同時に、彼がこれまでの長い公務員生活の間、国家のため防衛のため真摯に尽くしてきたことは皆様御案内の通りであります。彼自身は国家に損害を与えるとは思ってもおらず、意図せざる結果となってしまったことを心から反省しております。そのような彼が不遇のどん底にある姿を見るにつけ、私どもは気の毒でなりません。」とは何事か。これでは防衛庁当局による諸冨事案判決に対する真っ向からの挑戦ではないか。
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3 解題
諸冨さんに触れた部分については特段解題は必要ないでしょう。
(関、三井両名は諸冨さんと同期の防衛庁キャリアOBです。)
久保論文解説は、久保論文とともに、「防衛学研究」(防衛大学防衛学研究会)2000年11月号に掲載されました。
この久保さんは、田代さん(コラム#2183)とともに、留学にあたって私がスタンフォード大学に提出した推薦状をお願いした人です。
1970年代頃までは、大蔵省出身の田代さんのような人格者や警察庁出身の久保さんのような理論家が防衛事務次官になったものであり、業者による接待や官官接待こそ花盛りではあったけれど、防衛庁は退廃や腐敗とは無縁でした。
防衛庁キャリアの私の先輩にも、ごく少数ではあるけれど、傑出した人物がいました。しかしその反面、諸冨さんのような人も少なくありませんでした。
その後、防衛庁以外の省庁のキャリアの劣化も進んだ(注)けれど、防衛庁採用のキャリアの劣化はそれに輪をかけて進んで現在に至っています。
(注)防衛庁以外の省庁のキャリアの劣化だが、例えば平沢勝栄氏は、守屋が防衛課長をしていた頃の1994~96年頃、警察庁から防衛庁に出向して防衛局担当の官房審議官をしていたが、当時彼の部下であった守屋を始めとする防衛庁キャリアの退廃・腐敗ぶりに気付いていた様子は全くない。
これは、平沢氏が(ちょうど社会保険庁における長官等の厚生省キャリアと同じく)お客さんとして防衛庁の審議官室のイスに座っていただけで、碌に仕事をしていなかったことを物語っている。
だからこそ私は、防衛省再生の第一歩として、防衛省(庁)キャリアの「追放」と、防衛省内部部局を他省庁キャリアと幹部自衛官(、それに防衛省採用のノンキャリ等)で構成することを提唱しているのです。
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太田述正コラム#2303(2008.1.16)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その2)>
→非公開
日記に久保・諸冨両名が登場する日
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