太田述正コラム#13255(2023.1.21)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その15)>(2023.4.18公開)
「・・・政党内閣制と普通選挙により、政党間競争は激化したが、リターンの確実性と大きさは株価(政治献金額)をつり上げる要因となったと考えられる。
政党への資金供給はどのように行われていたのか、高橋はこの問題を正面から取り上げた。
原文を一部簡略化し、以下、叙述する。
「・政党会社の本部又は重役に払込むもの。
・政党会社の支部又は候補者に直接渡すもの、自ら出馬して選挙費を自弁するもの。
・現ナマ払込の代りに投票出資をなすもの。これは主として鉄道、その他(電力、取引所増資許
可等)の地方利権の配当を目標とするもの。」
政党に大規模な投資を行う大株主は、大中小の財閥、富豪であった。
立憲政友会には、三井、安田、久原、藤田、古河、中橋(商船系)、住友、若尾等が、立憲民政党には三菱、山口、根津等が出資していた。
彼らは個人よりも、関係会社の営業費等から多額の出資金を出していた。・・・
<しかし、>数として多いのが、実は浮動株主(特定の利権とその他の配当を目的として臨時的に株主になる)であった。
政友会が政権につけば政友会に、民政党であれば同党に出資した。
⇒戦後における、保守合同、と、この保守合同によって作られた自民党による政権ほぼ独占、は、岸カルトの利益、と、政治献金額の高騰やリターンの不確実性を回避したい経済界等の権益追求諸集団の利益、とが合致した結果であると言えそうですね。(太田)
政党色のない多くの財閥、特許会社、政府関係事業等の中には、この種のものが多かった。
植民地、国内の特殊会社銀行は、配当の払い出しを行うと同時に、政治資金を供給する出資者にもなった。
会社であれば営業費その他の形で金を出し、銀行であれば回収見込みのないものについては、無担保貸出を行う等々のカラクリが行われた。・・・
<このように、>産業資本家は技術の向上、工業経営の合理化よりも政府の補助、保護を受けることに血眼になっていた。・・・
近代日本の2大政党制の発生は、自由民権運動期の自由党、立憲改進党に求められる。
だが、資本主義経済の発展とリンクした政党政治の発展を考えるには、大正政変期の立憲政友会と立憲同志会を取り上げるのが適切であろう。
立憲同志会は、加藤高明総裁に人事を一任する体制で出発した。
他方、立憲政友会は、公爵西園寺公望が総裁を引退し、衆議院議員の平民、原敬が総裁を引き継ぐという転機を迎えた。・・・
<ところで、>政友会前総裁の公爵西園寺公望の親戚ネットワークを可視化し<てみると、>西園寺は、実兄の公爵徳大寺実則がハブとなっている旧公爵家、旧大名家、三井家、住友家のネットワークに連なっている。
さらに、ネットワーク上の旧大名家(阿部正功<(注28)>、加藤泰秋<(注29)>、毛利元昭<(注30)>)は、各々がハブとなっている。
その結果、西園寺は、富裕層の最上層に広範囲のネットワークを有していたことがわかる。」(223~225、236)
(注28)まさこと(1860~1925年)。「陸奥国棚倉藩の第2代(最後)の藩主。忠秋系阿部家17代。・・・父の正耆が老齢になってから生まれた息子だったため、はじめは父の跡を継ぐことができず、分家から阿部正外が家督継承、ついでその子・正静に受け継がれた。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争で正静が旧幕府側に与してしまったために強制隠居となり、同年12月14日に4万石減封の6万石で家督相続を許された。・・・
明治2年(1869年)6月の版籍奉還で藩知事となって棚倉に戻り、藩校・修道館に通学、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官される。
1873年から慶應義塾に学び・・・、1884年(明治17年・・・子爵を叙爵し、麻布一帯の大地主や第十五銀行の大株主となった。1877年に箕作秋坪の英語塾「三叉学舎」に入塾するなど学問中心の生活を送る。1882年には地学協会、1890年には坪井正五郎の人類学会に入会、芝丸山古墳の発掘などに参加し、自邸に陳列館を作り収集した遺物を公開するなど、考古学研究に熱心だった。また、地学に興味をもった梨本宮守正王の学友に就任し、宮家に出仕もした。・・・
[妻の照子は西園寺公望の妹にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B4%94 ]・・・
没後、昭和11年(1936年)に孫の阿部正友によって、正功の収集品が京都帝国大学(現京都大学)・学習院・東京文理科大学(現筑波大学)に寄贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%8A%9F
(注29)やすあき(1846~1926年)。「伊予国大洲藩第13代(最後)の藩主。・・・倹約や家臣の知行削減を行なって財政再建や軍備増強に尽力し、慶応2年(1866年)には窮民の救済を行なっている。尊王派として行動し、小御所会議では軍勢を率いて御所の警備に当たった。鳥羽・伏見の戦いでは警備する攝津西宮へ長州藩兵を隠密に上陸させ、戊辰戦争では武成隊による甲府城警備や奥羽討伐など、新政府側に与して貢献した。明治天皇の東京行幸(事実上の遷都)では行幸行列の前衛を務めた。
1869年6月に版籍奉還で藩知事、1871年7月の廃藩置県で免官となった。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。1911年(明治44年)10月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、1918年(大正7年)7月9日まで在職した。大正時代に入り、明治天皇に仕えた山岡鉄舟の後を継ぎ、大正天皇の侍従として仕えた。・・・
1901年、神奈川県国府津に別荘を所有した。妻の福子(とみこ)が西園寺公望の姉にあたる関係で西園寺がたびたび滞在し、通称「西園寺別荘」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B3%B0%E7%A7%8B
(注30)もとあきら(1865~1938年)。「長州藩最後の藩主であった毛利広封(後の元徳)の長男・・・。明治維新後は東京に移住する。・・・明治30年(1897年)1月21日に家督を相続し、公爵位を襲爵して貴族院公爵議員となる。明治44年(1911年)1月20日、麝香間祗候となる。
[弟の八郎は西園寺公望の養子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AB%E9%83%8E ]」
⇒西園寺公望ネットワーク中の旧大名家トリオのうち、阿部正功は大いに、また、加藤泰秋はそれなりに公的活動をしているけれど、毛利元昭は公望に養子を提供しただけ、という感じを受けます。
問題は、(恐らくですが、)公的活動と不労所得の程度が合致しているはずがないことです。(太田)
(続く)