太田述正コラム#13258(2023.1.22)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その16)>(2023.4.19公開)

「・・・他方、西園寺の後任の政友会総裁となった原敬については、・・・あくまでも『人事興信録』上のことであるが、広範囲なネットワークを有する西園寺と白地の原敬という対比は極めて興味深い。
 公爵伊藤博文、公爵西園寺の、2代の総裁が有していた富裕層最上層でのネットワークは、原総裁時代に後景に退いたことは確かであろう。
 政友会としては、藩閥寡頭制指導者に依存できなくなり、社会集団としてのパワーを自ら養っていかざるを得なくなったといえる。・・・

⇒西園寺公望が藩閥寡頭制指導者???(太田)

 1912年12月の立憲同志会結党式において、男爵加藤高明が総裁に就任した。
 加藤は岩崎家の一員(妻は岩崎彌太郎の娘で三菱合資社長・男爵岩崎久彌の姉)であり、加藤を桂新党に入党させ、その後支え続けていったのは三菱合資会社顧問の豊川良平<(注31)>と鉄道技術者で三菱系実業家の仙石貢<(注32)>であった。

 (注31)1852~1920年。「土佐藩の御殿医・小野篤治・・・の長男として高知市南奉公人町で生まれる。父・篤治は岩崎弥太郎の母・美和及・・・と兄弟にあたる。・・・明治3年(1870年)に豊川良平に改名した。
 明治3年に大阪の土佐藩邸にいる岩崎弥太郎のもとに移り、開成所(東京の開成所とは別)や岩崎英学塾で、弥之助や近藤廉平とともに英語を学んだ。1873年(明治6年)に上京して明治6年に慶應義塾に入<る>・・・。同級生に鎌田栄吉がいる。卒業後、浪人しながら馬場辰猪の姪・屋寿と結婚した。
 1878年(明治11年)に三菱商業学校が設立されると会計監督に就き、事実上の校主を務めた。1881年(明治14年)には同校が廃されて明治義塾が設立され、その塾長となった。なお、馬場辰猪は両校で教師を務めている。1884年(明治17年)に明治義塾は廃校となり、英吉利法律学校(現・中央大学)と東京英語学校(現・日本学園中学校・高等学校)に分かれた。この頃、学校経営の傍らでリスト学派の立場に立つ「東海経済新報」を犬養毅と発刊し、1880年(明治13年)8月20日の1号から1882年(明治15年)11月15日の78号まで続いた。
 1885年(明治18年)2月7日、三菱の事業への参加を許可する遺言を残して弥太郎が逝去し、豊川はこれに従った。1889年(明治22年)には第百十九国立銀行の頭取に就任し、1895年(明治28年)に三菱合資会社の本社副支配人および銀行部主任となる。1897年(明治30年)には同支配人、1899年(明治32年)には三菱銀行部長となる。
 1904年(明治37年)の日露戦争では戦時公債の募集に貢献し、戦後の1908年(明治41年)8月14日には公債発行の全面中止など国債の整理策を総理大臣の桂太郎に提言した。1910年(明治43年)三菱合資会社の管事となり、1913年(大正2年)に同職を退いた。1914年(大正3年)に東京市会議員、1916年(大正5年)10月5日には貴族院議員に勅選されている。他日本工業倶楽部の初代会長に就任し、理事長に団琢磨を招聘した。・・・
 五男の斉は斎藤実の養子となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E8%89%AF%E5%B9%B3
 (注32)1857~1931年。「高知県高知市出身。・・・明治11年(1878年)7月 – 東京大学理学部土木工学科卒業。同9月東京府土木掛。明治17年(1884年)- 工部省鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道工事を担当。明治24年(1891年)- 工学博士学位。明治29年(1896年)10月 – 逓信省鉄道技監を最後に退官。筑豊鉄道社長。明治31年(1898年)4月 – 九州鉄道社長。明治39年(1906年)4月 – 南満州鉄道設立委員。明治41年(1908年)7月 – 政党・戊申倶楽部設立に参加。明治44年(1911年)10月 – 猪苗代水力電気会社社長。大正3年(1914年)4月 – 鉄道院総裁。大正4年(1915年)3月 – 衆議院議員として高知県から選出。大正9年(1920年) – 土木学会第7代会長。大正13年(1924年)6月11日 – 加藤高明内閣で鉄道大臣。大正15年(1926年)1月30日 – 第1次若槻禮次郎内閣で鉄道大臣(6月3日途中辞任)。昭和4年(1929年)8月14日 – 南満州鉄道総裁に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E8%B2%A2

⇒「三菱系実業家の仙石貢」の根拠が示されていません!(太田)

 加藤自身は政党の利益誘導政治を嫌い、国家経営を英国流の政党政治で行う志を持っていた。
 政友会との競争に負け続けた加藤が、内閣総理大臣に就任するのは、総裁就任から12年目の1924(大正13)年6月のことであった。
 加藤首班の護憲三派内閣が成立すると民政党の加藤首相、濱口雄幸蔵相、若槻礼次郎内相、仙石鉄相らは整理緊縮政策を推進したため、政友会の政権離脱を招くこととなった。
 ・・・加藤高明の親戚ネットワーク・・・<で>特徴的なことは、加藤の長女エツが子爵岡部長職<(注33)>(旧泉州岸和田城主家)の長男と結婚していることである。

 (注33)ながもと(1855~1925年)。慶應義塾、ケンブリッジ大で学ぶ。キリスト教徒。1886年(明治19年)3月から外務省勤務で外務次官まで務め、「1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙せられ、東京府知事に任じられる(翌年7月迄)。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣(11年8月迄)に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に努めた。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官に任じられ、同月11日、貴族院議員を辞職した。
 その他、鉄道会議議員(1894年)、鉄道国有調査会副会長(1899年)、南満州鉄道株式会社設立委員(1906年)、臨時仮名遣調査委員会委員(1908年)、法律取調委員会会長(1908年)、学習院評議会会員(1916年)、宗秩寮審議官(1924年)、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E8%81%B7

 岡部は第3次桂太郎の内閣で司法大臣を務め、加藤外相の同僚であった。
 岡部との婚姻関係は旧大名家との親戚関係を加藤にもたらした。
 中でも、岡部家を介してつながった公爵前田利爲<(注34)>は、・・・宮内省内蔵頭に次ぐ特殊銀行会社の大株主・重役であった。

 (注34)1885~1942年。陸士17期、陸大23期(3位)。「旧七日市藩知藩事・前田利昭子爵の五男として生まれ<、>・・・前田宗家第15代当主の前田利嗣侯爵の婿養子となり、・・・家督を相続<。>・・・<陸大卒後、>1913年(大正2年)ドイツに私費留学、その後、イギリスに渡る。
 駐英大使館附武官・・・陸大教官・・・歩兵第2旅団長・・・参謀本部第四部長・・・陸大校長・・・第8師団長<等を歴任後、>・・・1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された。1942年(昭和17年)4月、召集されてボルネオ守備軍司令官に親補される。同年9月5日 、ボルネオ沖で搭乗機が消息を絶<ち、>後に乗機の残骸と利為の遺体が発見された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E7%82%BA

⇒不労所得がどれだけあろうと、前田利爲の生涯に敬意を表したいですね。
 なお、岡部家と前田利爲とのつながりを検証できませんでした。(太田)

 三菱財閥および国家資本と一体化した大資本家とのネットワークは、加藤・憲政会の資本主義経済における位置を規定していたと考えられる。」(237~238)

(続く)