太田述正コラム#13260(2023.1.23)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その17)>(2023.4.20公開)

 「・・・元老西園寺の、富裕層最上層に広がったネットワークとは対照的であったのが、政党内閣時代の政党幹部たちであった。・・・
 田中義一は<陸軍エリートであったところ、>・・・若槻礼次郎・・・濱口雄幸・・・と同じ官僚エリートであった。
 彼らの富裕層上層での親戚ネットワークは極めて限定的であった。
 政党株式会社の経営が、総理・総裁の親戚ネットワークに依存しなくなっていたことは明らかであろう。
 最後の政党内閣の首相となった犬養毅は、松方一族とつながっているが、金融恐慌で財閥から転落した松方一族には、政友会に投資する余力はほとんどなかったと考えられる。・・・

⇒犬養と松方一族とのつながりを解明できませんでした。(太田)

 政党内閣期において、富裕層最上層のネットワークにつながらず、また、親戚ネットワークにも依存しない政党政治家が首相に就任し続けた理由は何であったのであろうか。
 原敬、加藤高明の両総裁の時代は、産業資本家が中心となって政党株式会社を経営し、経済政治社会をコントロールする政党の能力、影響力を獲得していった。
 さらに政党は、大戦後の経済変動に直面し、国家資本、金融資本と一体化した資本主義経済の運営という、新たな役割を負うことになった。
 普通選挙はコストの増大をもたらしたが、国民代表としての政党の地位を保障するものであった。
 国民代表制にによる政党内閣は、国家資本を保有する富裕層最上層、財閥と共同で、国家の運営を担う社会集団としての地位を獲得したのである。
 裏返して見れば、富裕層の最上層及び大財閥は、政権担当者について、高度な政治経済社会の経営能力を求めていたと考えられる。
 高橋は、・・・大財閥の経営が安定しているのは、「優良なスタッフと財力と、組織等々を兼ね備へてゐるからである。」と述べて<おり、>政党政治への関与については、次のように記していた。
 「(イ)政党の兵站部となり、之を通じて隠然と最高政策を動かすし、乃至は政策の変遷を予知して予め備ふることが出来る方法に由るもの。(例へば三井が政友会に山本悌二郎<(注35)>、山本条太郎<(注36)>等の幹部を送り、三菱が民政党に仙石貢、幣原(喜重郎・・・)氏を送れるが如し。

 (注35)1870~1937年。「新潟県佐渡郡(現・佐渡市)に、漢方医・・・の二男として生まれる。明治15年(1882年)に上京し、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現・獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。明治27年(1894年)帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。大正10年(1921年)社長に就任。
 明治37年(1904年)、第9回衆議院議員総選挙に立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選する。以後当選11回。政友会内で重鎮として重きをなし、10名程度の派閥を率いていた。昭和2年(1927年)に田中義一内閣で、また昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣する・・・
国粋主義的な政治思想の持ち主で、晩年には国体明徴運動を熱心に推進していた。また大東文化協会副会頭、第五代会頭も務めた。・・・
 外務大臣の有田八郎は弟。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%82%8C%E4%BA%8C%E9%83%8E
 (注36)1867~1936年。「福井藩士・・・の長男として生まれる。・・・病気のため共立学校を中退後、叔父吉田健三の紹介で明治14年に三井物産横浜支店に奉職。すぐに頭角を現し本店へ栄転するが、道楽と相場を覚えて三井の商船「頼朝丸」乗務に一年余り左遷される。1891(明治24)年上海支店に赴任、1901(明治34)年上海支店長に就任。帰国した翌年の1909年(明治42年)、常務取締役。1914年(大正3年)、シーメンス事件に連座して退社。その後は事業家として再出発し、多くの会社の社長・役員を務める。
 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙で、福井県第1区に立憲政友会から立候補して当選、以後4選される(第16回衆議院議員総選挙以降は福井県全県区・・・)。政友会では幹事長等を歴任し、山崎猛ら10名前後の傘下議員を抱えていた。
 1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで南満洲鉄道株式会社社長(就任当時は理事会が廃止されて、満鉄トップの役職は「社長」となっていた。1929年6月20日付で総裁に再変更)。大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」とも言われたが、張作霖爆殺事件を機に後ろ盾であった田中義一内閣が瓦解し辞任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9D%A1%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒増田ら、ひいては、高橋に対し、両山本を三井が送り込んだというのは、彼らの経歴を客観的に見ると無理があるのでは、と言いたくなるほか、仙石と三菱との関係が依然不明、とも言いたいですね。(太田)

  (ロ)諸種の調査会に委員を出す方法に由るもの。就中、三井、三菱の二大財閥は、常にその代表者を各種の財政経済調査会に出し、以て有力に政策の方向を支配しつゝある。現に三井は政友会に<連(?)>なるにも拘わらず、民政党内閣の下に於てすら、三井物産の安川(雄之助・・・)氏は、浜口内閣の三大調査会の一たる関税調査会の委員長である。」
 「政党株式会社」の社長と重役は、国家資本経営上の条件を満たす者でなければならなかった。

⇒国家資本とは、三井や三菱といった財閥ではなく、国家(国家経済)そのものを指しているのでしょうが、マルクス主義臭のある言葉ですね。(太田)

 それ故、富裕層上層の親戚ネットワークの有無とは無関係に選ばれるようになったと考えられる。
 また、元老西園寺公望が政党政治の背景に存在していたことは、そうした欠落を補完する役割を果たしていたと考えられる。
 西園寺は、社会的権威的秩序の主体である富裕層最上層に広がるネットワークのハブであった。

⇒こじつけです。(太田)

 その西園寺が政党総裁を後継首班に指名することによって初めて、政党は国家と社会を支配する地位に就けたのだといえよう。

⇒まさに、経済(私益)が政治(公益)を規定するという論であって、マルクス主義以外の何物でもありませんが、西園寺本人や、当時西園寺を尊重していた人々の思想や政治的志向を、増田らは完全に無視するつもりのようです。(太田)

 ところが、ここに矛盾が生じることとなった。
 政党株式会社の日常の営業は、利権と政治資金の交換であったのに対し、社長と重役は国家資本の経営責任を負うという乖離が生じたのである。
 政友会の田中義一は、中国大陸において帝国主義に走ろうとして失敗した。
 民政党の濱口雄幸と若槻礼次郎は対英米協調による金解禁を断行して失敗してしまう。
 昭和恐慌は「政党株式会社」にどのような打撃を与えたのか、資本主義経済の危機は富裕層にどのような打撃を与えたのか、その解明を<今後>の課題としたい。」(246、250~252)

⇒「資本主義・・・の危機」も昔懐かしいフレーズですねえ。
 というわけで、いささか、残念な学術論文でした。(太田) 

(完)